#19 ちっぽけな世界
「あっ、そういえば!」
そのとき、沙楽がパンっと手を叩き、今思いついたような声を出す。
「花音ちゃんって、『とびだせおんぷちゃん!』ってアニメ知ってる?」
花音は目を大きく見開いた。沙楽の口から出た言葉は、花音もよく知っていたからだ。
「あ…し、知ってます!音符のキャラクターですよね!」
花音は興奮して早口で話す。
「やっぱり?花音ちゃんの通学鞄に、音符ちゃんのラ〜ちゃんのキーホルダーが付いてたからさ。」
沙楽のその言葉に、花音は驚いた。
なぜか沙楽が花音の鞄に付いているキーホルダーを把握していることもだが、それ以上に沙楽の口から『おんぷちゃん』が出てくるなんて。
『ラ〜ちゃん』とはドレミのラの音のキャラクターで、花音の最推しだ。
ストーリーでは一番最後にみんなの仲間になって、テーマカラーは水色。
「はい!わたし、大好きなんですそのアニメ!キャラはみんな好きだけど、一番好きなのはやっぱりラ〜ちゃんで!だからわたし、持ち物とか全部水色で揃えてて…」
花音は嬉しさのあまり先輩の前に居ることを忘れ、意気揚々とペラペラと『音符ちゃん』に対しての愛を語った。
そんな分かりやすい後輩を見て、沙楽は可笑しそうにふふっと笑う。
花音はハッとして我に返った。
「あっ、ごめんなさい…喋りすぎました…」
花音は急に恥ずかしくなり、しゅんと縮こまると、ペコリと頭を下げた。
「いや、いいよ?笑。あたしも好きだし。あたしの一番好きなキャラはファッちゃんかな。」
「…あ、空飛べる子!」
花音はそのキャラクターの姿を思い出す。ドレミのファの音の『ファッちゃん』。テーマカラーは黄色。
キャラクターの中で唯一、背中に羽が着いていて、自由自在に空を飛べる能力を持っている。
なのでファッちゃんは他の仲間と居るときも、一人だけ宙にプカプカと浮いているのだ。
「そうそう!あたしがファッちゃん好きなのも、空が飛べるからなんだよね。」
沙楽も花音と同様に、楽しそうな様子で話す。
「すごく楽しそうだよね!背中にペガサスみたいな羽があって、翼を広げて自由に空を飛べて。本当に…」
そこまで言うと、沙楽はふと空を見上げる。目線の先で飛んでいる名前の知らない鳥たちを、ぼんやりと眺めていた。
「羨ましい…」
『ウラヤマシイ』。沙楽から出た予想外の言葉に、花音は目を見開く。
澄み渡る広い空の中を、羽を目一杯広げて気持ちよさそうに羽ばたいている鳥たち。
ふたりの足元には、蜘蛛の巣に引っかかり動けなくなったバッタがいる。
バッタは必死に手足をバタつかせて藻掻いている。出して。ここから出して。そう懇願している。
「羨ましいって、めっちゃ思う。あたしもあんなふうに、空を飛べたらな…」
沙楽のその姿は、花音が知っている普段の沙楽の姿とは違った。
どこか、とても寂しそうに見えた。
「…なんかさぁ、子供って
沙楽は蜘蛛の巣に閉じ込められているバッタと、その上で自由に羽ばたく鳥、交互に視線を送る。
沙楽は花音の返事も待たずに、話を続ける。
「自立できないから、自分の居る場所とか、何をして生きていきたいかとか、あんまり選べないじゃん?学校とか家とか、大人たちが指示した狭苦しい世界の中だけで過ごさなきゃいけなくて。」
さぁっ、とその場に強い風が吹く。
風をもろに浴びた沙楽の制服は、激しく
なんで、この人は長袖を着ているのだろうか。
花音はずっと気になっていた。今はもう六月の中旬で、気温も夏らしく高くなっていっている。
生徒の殆どが衣替えを済ませて、夏用のジャンバースカートと半袖のポロシャツを着用している。
しかし、沙楽は未だに長袖に、膝下までの黒い靴下を履いているのだ。
ジャンバースカートの方は夏用に変更済みだから、衣替えが済んでいない訳ではなさそうなのに。
「そんな狭い世界の中で生きてたら、なんだろ…例えば、辛いこととか苦しいことがあってもさ、逃げられないんだよね。逃げることを許されないんだよね。その辛くて苦しい世界が、人生の全てだと思っちゃって、自分の価値が分からなくなって、自分の居場所なんかどこにもないって思っちゃって…」
「あの…」
花音は思わず声を出す。
すると沙楽は花音の方を向き、ふっと微笑む。沙楽の星のような瞳に、花音の姿が映る。
その微笑みは、いつものマドンナの先輩の笑顔だ。みんなを惹きつける、愛らしい笑顔。
なのに、その目はちっとも笑っていない。
暗くて、陰鬱で、闇。沙楽の、光のない空虚な瞳からはそんな言葉を連想させた。
花音はそんな沙楽に対して恐怖すら覚えてしまい、声が出なかった。
「でも、そんなのって馬鹿みたいだよね。だって、ちょっと上を見たら、空はこんなに広いのに。」
沙楽はその場ですっと立ち上がる。沙楽の夜空色の三つ編みが、ふわりと揺れる。立ち上がって、また空を見上げる。
「きっとあの広すぎる空から見たら、ここは信じられないくらい狭くて小さくて、広すぎる世界の中のほんの一部分でしか無いんだ。苦しめてくる奴らも、そのせいで抱えた苦しみも、こっちからしたら怖くて、絶対的な存在だけど、世界から見たらどうせちっぽけな存在だよ。」
「……!」
沙楽の言葉に、花音はハッとした。驚いたのだ。
花音は、そんな風に考えたことはなかった。そんなこと、考えもつかなかった。
たった今、十二歳の花音は、その狭い世界でしか生きたことがないから。
花音の友達も、クラスメイトも、同級生もみんな同じだろう。
転校生とか、人によって多少は違うかもしれないけど、ほとんどがみんな、若の宮町でしか暮らしたことがないのだから。
きっと、十五歳の沙楽だってそうなのだろう。
「そんなちっぽけな奴らに苦しめられたせいで、自分なんか価値がない、自分を認めてくれる人は誰も居ないって思うなんて、馬鹿みたい。馬鹿みたいだよ。そんな訳、無いのに。」
沙楽は手をぎゅっと握りしめる。声は、少しだけ震えていた。なんだが、今にも泣き出しそうな声だった。
花音に向けて話しているというよりも、自分自身に向かって懸命に言い聞かせているような、そんな感じ。
「だから、あたしは早く大人になりたい。大人になって、自分のやりたいことが出来るようになって…そしたら、こんな狭苦しい世界なんか捨てて、あの広い世界に飛び立てるのかな。ファッちゃんみたいに、自由になれるのかな…」
沙楽は今にも消えてしまいそうな声でそう言うと、そっと空に向けて手を伸ばす。
沙楽の綺麗な手が、太陽の優しい光に向かって伸びていく。おいで。こっちにおいでよ。まるで歓迎されているように。
花音は何も言わず、ただそんな沙楽を呆然と眺めていた。
ふと、花音は沙楽から視線を外し、沙楽と同じように空を見上げた。
空は大きかった。大きくて、広い。どこまで行っても切れ目がなくて、永遠に続いている。
沙楽の言う通り、あの空から見ればこの場所なんて、すごくちっぽけに見えるんだろうな。
嫌いな学校もこの町も、馴染めないクラスメイトも、苦手な同級生も。
みんなみんな、本当はちっぽけなのかも知れない。
「ふたりともー!」
そのとき、グラウンドから声がした。部長の光輝が、沙楽と花音に向かって叫んでいる。
「もう部室に戻ろうってことになってるけど、練習終わってもいいー?」
「あぁ、もうこんな時間か。」
沙楽はいつものマドンナにすぐに戻ると、『今行くね!』と大きな声で返事をした。
「ごめんね。こんな意味分かんない話に付き合わせて。」
沙楽は花音の方に目線を下げると、首を傾げでふふっと苦笑いする。
『行こっか。』とだけ言うと、沙楽は軽快そうに階段を降りて、みんなのところへ向かう。
花音は、そんな沙楽の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
……ちょっと、違うかも。花音はそう思った。
沙楽は『カナちゃん』と似ていると思っていた。
みんなを引っ張り笑顔にする沙楽の姿を、花音は自分勝手にあの子の姿と重ねていた。
でも、違う気がする。ちょっとじゃなくて、かなり。
沙楽のあの光の無い瞳には、花音が想像つかないほどの闇と絶望が含まれている気がする。
あれは、心から幸せな人の目じゃない。
カナちゃんの、夢と希望に満ち溢れた瞳。それとは全くかけ離れている。
「あっ…」
追いかけなきゃ。声、掛けなきゃ。
花音はなぜだがそう思い、バッと立ち上がると、去っていく沙楽に声を掛けようとした。
でも結局、声は出なかった。
『触れないで』『追いかけないで』沙楽のどこか寂しげな背中からは、そんな強い拒絶を感じたのだ。
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