#18 わたしなんか

『じゃあおねえちゃんも、のんちゃんが大きくなるまで、ずっとここで待ってるね。約束だよ。』


 優しい風になびく、つやのある長い髪。真っ白な肌とアクアマリンのような大きな瞳。


 今から六年前、小学一年生のときだった。


『のんちゃん、お母さんと一緒に吹奏楽部の演奏を観に行かない?』


 オーケストラや吹奏楽のコンサートを観に行くのが趣味の母親に連れられて行った、若の宮中学校定期演奏会。


 そこでで出会ったのは、と呼ばれている儚げな美しいだった。


 初めてカナちゃんを見たとき、まるで天から舞い降りた女神のようだと思った。


 容姿も、話し方も、性格も。どれをとっても優しく綺麗で、花音は一瞬にしてカナちゃんに惹き込まれた。


 カナちゃんには、自然と人を惹きつけるカリスマ性があったのだと思う。


 花音はそれまで家族以外の人に愛情らしい愛情を貰ったことが無かった。


 だから、カナちゃんが可愛がってくれたのが堪らないくらい嬉しくて…すぐに懐いた。


 臆病だった花音があんなにすぐに心を開けた人間は、カナちゃんくらいだったと今では思う。 


 カナちゃんの吹くホルンの音色は、いまでも覚えている。


 暖かくて優しくて、それでいて芯の強い音で。ぎゅっと優しく抱きしめられているような、安心感がある音色だ。


『君が今よりもっと大きくなって、中学生になったら、吹奏楽部に入ってくれないか?』


 カナちゃんは、涙を必死に拭っていた花音の幼い手をぎゅっと握りしめ、花音にそう願ったのだ。


 ずっと音楽室に居られないカナちゃんの代わりに、吹奏楽部に入ってみんなを笑顔をすること。


 それがカナちゃんから花音に託された願いだった。


 吹奏楽部に入ってカナちゃんの願いを叶えたい。カナちゃんと一緒に楽器を吹きたい。


 花音は強くそう決意した。あそこまで強い意志を持ったのは生まれて初めてだった。


 カナちゃんとの約束が、花音のすべてだったのだ。


 それ以外に何もなかったから。


 それから花音は、音楽にのめり込むようになった。


 楽譜が読めるようになりたくて、お母さんに頼み込んでピアノを習わせてもらった。


 放課後はキタガミ楽器店に入り浸って、ひたすら音楽に関する本を読み漁った。


 楽器店から借りた本を学校の休み時間に読むと、『何その本』と馬鹿にされたり、読んでいる最中に本をひったくられることもあった。


 でも、どんなに馬鹿にされても、花音は絶対に音楽を手放さなかった。


 すべては、カナちゃんとの約束を果たすため。


 それだけが、花音の生きるかてで大切な意味だった。


 愛梨からの長年のいじめに耐えられたのは、その約束があったからだ。


 音楽の世界に入れば、カナちゃんのことを考えたら、嫌なことをすべて忘れられた。


 カナちゃんが『泣かないで』と言ったから、どんなに嫌なことがあっても泣くのをぐっと我慢した。


 もしカナちゃんが居なかったら、花音はいじめに耐えきれずに学校に行けなかったかもしれない。


 中学に上がる前、花音は両親から『中学校を変更しないか』と提案された。


 何もしなければ、花音はそのまま若の宮小学校から、学区内の若の宮中学校に上がる。


 しかし花音の学区内ではもう一つ、公立の西雲中学校に通うことも可能だった。


 おそらく、両親も花音の学校での様子を薄々察し、気を遣ってくれたのだろう。


 今の環境を変えて、一からやり直してみたらどうか?そう聞かれた。


 西雲中学校ならそこそこ近くて徒歩圏内だし、小学校からの同級生もあまり来ない。


 両親の提案は、確かに魅力的に思えた。

 

 愛梨たちや同じ小学校の子が居ない中学校に行って、新しい環境でやり直すことが出来るなら、それはとても良い話だ。


 しかし、花音はその提案を断った。


 カナちゃんとの約束を果たすためには、まず若の宮中学校の生徒になること大前提だったから。


 そして花音は愛梨達にいじめられる日々と引き換えに、若の宮中学校に入学できる権限を手に入れたのだ。


 カナちゃんが造り上げた吹奏楽部に入ることを夢見てここまでやってきた。


……のに。


 それなのに、結局こうだ。


 やっぱり花音では、あのカナちゃんの代わりなんて無理なのではないか。


 花音はカナちゃんのような積極性も、カリスマ性も、人を惹き付ける力も、何もかも持ち合わせていない。


 そればかりか、卑屈で根暗で出来損ないの、コンプレックスにまみれた人間で。


 そんな人間が、みんなを笑顔にさせる?みんなを引っ張るような存在になる?


 ふざけた話だ。妄想もはなはだしい。そんなことはあり得ない。


 そもそも、自分がまず笑えていないのに。


 カナちゃんのおかげで笑えたのに、また笑えなくなってしまった。


 元はといえば愛梨から目をつけられたのだって、花音に原因があった。


 花音がもっと明るくてしっかり者の女の子なら、あんなことにはならなかったはずだ。


 悪口を言われるのも、嫌悪感を抱かれるのも、負のレッテルを貼られるのも全部、自分のせい。


 部活はやっとできた自分の居場所だと思っていた。初めて自分の存在を許された、認められたと思ったから。


 でも、それは今だけのように思う。きっとみんなも、いずれは花音のことを邪魔に思うだろう。


 わたしは、誰にも必要とされない人間だ。


 この世界にわたしの居場所なんて、きっとどこにもない。


 わたしは、ずっとひとりぼっちなんだ。



【♪♪♪】



 「……どうかした?」


 そのとき、すぐ後ろから声がして、花音はハッとして振り返る。


 すると、そこには不思議そうに首を傾げている沙楽が居た。


「あ…」


 金管パートの後輩が木管パートの教室の目の前にいるのは、沙楽からすれば不自然だ。


 花音はそこで、忘れかけていたけれど自分がここまで来た理由を思い出した。


 そうだ、先輩を呼びに来たんだった。


「あ、あの、せ、先輩達だけでミッ、ミーティングするから、おっ音楽室に来てって、美鈴先輩が…」


 しかし、声帯が締め上げられている感覚はまだあり、声が辿々しく、震えてしまう。


「あ…あー!それで、呼びに来てくれたの?」


 しかし、なんとか沙楽には伝わったようで、花音はホッとして『はい』と首を縦に振る。


「了解!他の先輩らにも伝えとく!わざわざありがとうね!」


 沙楽はニコッと微笑むと、花音にお礼を言った。


「いえ…」


 花音はそんな沙楽を見て、とても居た堪れない気持ちになり、ふいっと目を逸らす。


 誰からも好かれる沙楽と、誰からも嫌われる花音。


 自分とは対極の位置に居る沙楽のことが、今はいつも以上に眩しく見えて、目を合わせられない。

 

 早くここから離れたい。その気持ちも相まって、返事もそこそこ、逃げるようにその場から走り去った。


 そんな花音の後ろ姿を、沙楽はずっと見つめていた。

 


【6月20日】



「はい…」


「はい…!」


 土曜日。休日練の今日、部員たちが居るのは音楽室ではなく、グラウンドだ。


 今日は梅雨のこの時期には珍しく快晴だ。久々に雲に邪魔されず空に顔を出せている太陽は、喜びを表すようにいつも以上に照りつけて、眩しい。


 そんな空の下で、一年生たちによる『はい』という声が響いている。


「みんなー!それじゃ聞こえないよ!」


 副部長である沙楽がそう厳しく呼びかけると、一年生たちは『ひぃ〜』と唸った。


 今は、返事の練習をしている。


 吹奏楽部は、先輩や顧問に何か言われたときには『はい!』と元気よく返事をする決まりがあるのだ。しかし…


『みんな、返事の声が小さいよ!恥ずかしいのは分かるけど、意外と返事って大切だったりするから…てことで、今日はグラウンドに出て返事の練習をしましょう!』


 返事をやり慣れていない新入生たちの声のボリュームを問題視した上級生たちの提案で、今はグラウンドで発声練習をしている。


「はいっ!」


「はい!!」


 一年生たちは恥ずかしさを押し殺し、必死に声を出す。声は大きなグラウンドに小さくだが響いて、校舎に反響して返ってくる。


「おー!よしよしいい感じ!」


 そんな中、花音はただ一人、憂鬱な気持ちだった。

 

 近くを通ったテニス部の集団が、グラウンドのど真ん中で繰り広げられている謎の光景を見て『何してんの?あれ』と囁いている。


 木管の教室で自分に対する噂話を聞いたときから、どうも花音は気分が晴れない。


 それなのに大きな声を出す気にもなれず、花音は他の一年生が返事をしているのを、少し離れた場所から眺めていた。


 初めは嫌そうだった一年生のみんなも、やっているうちに楽しくなってきたのか、上級生と楽しそうに『はい!』と叫んでは笑い合っている。


 なんだかとても居心地が悪い。帰りたい…花音がそんな風に思っていたとき。


「ねぇ!行かないの?みんなのところ!」


 突然横から話しかけられて、花音はハッとした。


 声のした方を見ると、そこには先輩の沙楽が居た。さっきまで、みんなのところに居たのに。


「あっ…」  


 花音は驚いた。集団から外れてひとりきりの花音の姿は、逆に目立っていたのだろうか。


 花音は黙り込んだ。しかし内心は焦っていた。 

 

 沙楽は花音が練習にちゃんと参加していないことを、咎めに来たのかもしれない。


 しかし、沙楽はそんな花音の姿を見ても何も言わなかった。そればかりかニコッと笑い、

 

「うわぁ〜、見て!」 


 楽しげな声でそう言った。花音は『え?』と顔を上げると、沙楽はキラキラした目で空を見上げていた。


「今日空すごい!めっちゃ青い!」


 沙楽は子供のようにぴょんぴょんと走り出す。


 するとグラウンドから校舎に続く階段を登り、一番上の段にドサッと座る。


 そして、花音に『ここここ』と隣に座るように促した。


 花音は沙楽の行動が理解できずに戸惑うが、言わるがままに沙楽の居る場所まで行き、『失礼します』と言って隣に座る。


「若中って山の上じゃん。ここからちょうど、街全体が見渡せるんだよね。」


 沙楽は『景色いいよね。』と言った。確かに、ここからちょうど町の住宅地と、その上の空がよく見える。


 綺麗だな、と花音は率直に思った。まさに『絶景』という言葉が似合う景色だ。


 きっとこの絶景は、毎日急な坂道を頑張って登っている生徒たちへのご褒美なんだろうな。

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