#17  過去

「篠宮さんって、いじめられてるんだよ。」


 その言葉を聞いた瞬間、ヒュッ、と花音の心臓は凍りついた。


「何それ?」


 莉音の言葉を聞いた紫音が、深刻そうに眉をひそめ、首を傾げた。


「りおね、小6のとき篠宮さんと同じクラスだったんだけど、二組の山下愛梨ちゃんっているじゃん。」


 花音の一番恐れている人物の名前が出てきて、花音は息を呑む。


 思い出した。莉音は去年、花音と同じクラスだった。


 関わりは皆無だったので印象は薄いが、莉音はクラスでも目立つ方で、愛梨やその友達と話している姿も何度か見たことがある。 


「なんかあの子、愛梨ちゃんたちに普段からよく悪口とか言われたんだよ。陰キャとか根暗とか」


 悪口の内容を言うときだけ声のトーンが急激に低くなる。花音はドキッとした。聞き覚えのある言葉過ぎて。


 『そうなの?そんなこと知らなかった』と、紫音目を見張り驚いている。


 莉音とは違い、紫音の方は中学で同じ部活に入るまで花音と一切面識が無かったから、知らなくても無理はないだろう。


「じゃあ、莉音ちゃんも篠宮さんの悪口言ってたってこと?」


「いや違う違う、莉音は何もしてないよ。でも正直、篠宮さんとは関わりたくなかったな。愛梨ちゃんってクラスでもボスみたいな感じだったから、目付けられたら地獄だし!」 


 莉音のどこか必死そうな声は、莉音が本当に心からそう思っているのだということが嫌でも伝わってくる。


 莉音が言った『関わりたくない』という言葉は、意外にもすんなりと自分の中で受け入れることができた。


 そりゃ、そうだろうな。わざわざ嫌われている人に関わりに行く人なんて、おかしいから。


……そう納得しているのに、誤飲した魚の小骨が突き刺さったみたいに心がチクチクする。


「ふーん…まぁあの人、なんか気弱そうだからいじめられてそうではあるよね。」


「そうそう、だから正直なところあの子にはっていうイメージしかないし、みんなそう思ってると思うよ、笑」 


 クスクス、とふたりの笑い声が聞こえる。


 控えめだったはずの噂話が、だんだんと遠慮のないものに変わっていく。


「だから、篠宮さんが吹部入ってきたとき、えーってなったもん。別にあの子自体は嫌いじゃないけど、なんでここに来るん?って感じで。この気持ち分かる?笑」


「あー…なんか分かるかも。嫌われてる子とは極力一緒になりたくないよねぇ」


 紫音が声のトーンを低くすると、莉音が『ちょっとそれは言い過ぎだよ』と笑う。


 紫音が『そっちから始めたんじゃん?』と同じように笑う。 


 その笑い声のトーンが異様なくらい高くなり、耳にキンキンと響く。


「でも里津ちゃんほんとに気を付けたほうがいいよ!関わるなって言う訳じゃないけど、里津ちゃんまで目付けられちゃうかも…」


 里津は莉音の忠告に対して、『うん』と頷くだけで、後は何も言わなかった。


 花音は物音を立てないよう、フラフラとした足取りでその場を離れた。


 なんで、こんなにショックを受けているのだろうか。


 莉音と紫音の二人は花音に対して明確な悪意を向けているわけではない。


 ただ、花音に貼られている『いじめられてる人』という負のレッテルから、どこかはっきりとしない抽象的な嫌悪感を抱いているようだった。

 

 でも、そう思っているのはあの二人だけでは無いだろう。この中学校のメンバーは、ほぼ小学校からの持ち上がりだから。

 

 だから花音は、未だにそのレッテルを貼られっぱなしなのだ。


 でも、そんなのはとっくの昔に慣れたことだった。


 まだ自分が居ないところで、明確な悪口を言われていないだけマシ。つい数ヶ月前の自分ならばそう思えただろう。

  

 なのに、どうしてこんなに苦しくて仕方ないのだろう。


 やっとできた居場所だと思っていた部活の子にまでそう思われていたのが、辛かったのだろうか。


 せっかく里津とも仲良くなれたのに、あんなことを知られてしまった。知られたくなかったのに。


 もう明日から里津と話せなくなるのかな。そう思うと、頭が真っ白になる。


 心臓の鼓動が速くなって、足に上手く力が入らなくて、早くここから離れたいのに、歩けない。


「…ぁっ、あ…」


 意味もなく声を出してみる。でも、声帯が締め上げられたような声しか出せない。


 自分が誰かに嫌悪されていると分かったのが、たまらないくらい苦しい。


 なんで、いつもこうなるのだろうか。

 

 いつから、こうなってしまったの?



【♪♪♪】


 

 花音は昔から、他の子に比べて出来ないことが多かった。


 言葉を話すのも、服を着るのも、箸を使うのも全部、遅かったとお母さんは言っている。


 おそらく他の子と比べて発達が遅れていたのだろう。

 

 花音は、いつもみんなから置いていかれていた。


 一番後ろ。一番最後。気が付いたらいつもそうで、いつしか花音の中でそれが当たり前になっていた。


 そんな花音が気に食わなかったのだろう。幼稚園から一緒の同い年の女の子・山下愛梨は、幼い頃から花音に辛く当たっていた。


 愛梨は可愛いらしい顔で、ハキハキしていて何でも上手にこなせて、いつもみんなの中心に居た。


 愛梨の影響力の強さは大人顔負けだった。いつしかみんなの中で『愛梨ちゃんの言うことは正しい』と、暗黙の了解が出来ていたように思う。


 そんな愛梨に蔑まれていた花音が、みんなの目に悪く写ってしまうのは想像に容易い。


 まだ自分の意志も弱く、物事の善悪が付かない年頃。子供というのは純粋で、だからこそ恐ろしく残酷だ。


 花音が、みんなから仲間外れにされるまで時間はかからなかった。


 物心ついたときからずっと、花音はひとりぼっちだった。


 小学校に上がり集団行動が増えると、より一層周りから遅れを取っているのが露骨になってきた。


 勉強も運動も苦手で、行動も遅く話すことも苦手。教師にもよく注意されていた。


 もちろんそれを治すための努力はしていたつもりだ。でも、それも上手くいかなかった。


 だからか、ただの仲間外れからエスカレートして、嫌がらせも受けるようになった。


 公園に遊びに行けば、愛梨のことが好きなやんちゃ男子たちから野球ボールや空き缶をぶつけられ、囲まれて髪の毛を引っ張られた。


 クラスでは、周囲からの無視や愛梨とその友達数名から悪口をささやかれる日々。


 根暗、鈍臭い、グズ…この辺りの言葉はよく言われていた。


 小学校低学年くらいまでは、嫌がらせを受ける度に傷つき、辛い思いをしていた記憶がある。


 でも高学年くらいになると心がすっかり慣れ、何をされても何を言われても動じなくなった。


『あんたでもこのくらいはできるでしょ?』と、面倒な雑用を押し付けられたり、酷いときには文房具などを盗まれることもあった。


 花音は愛梨のそんな行為に感情的になって言い返したり、泣いたりしたことは全く無かった。


 そんな勇気も、気力も無かったのだ。


 ただ心を殺して、時間が過ぎるのをじっと待つ。いつだってそうやって乗り切っていた。


 花音を助ける人は居なかった。クラスメイトたちは愛梨に従っていたし、両親には心配させたくなくて相談はしなかった。


 普段話す友達も、幼馴染で親友の風歌しか居なかった。

 

 愛嬌があり人気者の風歌が愛梨に気に入られてからは、風歌とすら学校では話せなくなった。


 教師たちに至っては気づいてすらなかった。彼らは愛梨を『賢く親切な生徒』と評価していたからだ。


 愛梨は頭の良さ故に裏表が激しく、大人の目があるところでは花音に対して優しく接していた。『花音ちゃんは私が支えます』とまで言っていた。

  

 教師からしたら『気弱な子に優しく接している優等生』という図に見えていたのだろう。まさか裏でいじめているとは思う訳が無い。


 中には気がついた先生も少しは居たが、『仲良くしましょうね』『やめましょうね』とそれらしい注意喚起だけして終わっていた。


 腐れ縁的な物なのか、それとも誤解した教師たちの図らいなのかは分からないが、最悪なことに花音と愛梨は六年間ずっと同じクラスだった。


 若の宮小学校が二年に一度しかクラス替えがなかったことも要因だったと思うが。


 愛梨は、花音のすべてを否定した。


 花音の容姿、言動、好きなこと、大切にしているもの。


 とにかく花音のありとあらゆることに対して否定し、貶め、仲間とともに嘲笑う。


 愛梨の花音に対する執拗な人格否定は、花音から自己肯定感を根刮ねこそぎ奪いとるには充分過ぎた。

 

 花音はいつしか自分に価値を見出せなくなり、他人に対して必要以上に恐怖し、何をするにも消極的になってしまった。


 愛梨に目を付けられた花音は、地獄のような日々を送るしか無かった。


 ……だけど。


 だけど、そんな日々の中でも花音にはかげがえのない希望があったのだ。

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