#02 音の先に
四階から三階に続く階段を降りている最中に、ふと日常音以外の音が小さく聞こえてきた。
花音はつい足を止める。よく耳を澄まさないと聞こえないレベルだったが、すぐに分かった。
……楽器の音色だ。
高揚感にも似た胸の高まりに、花音は無意識に、胸に手を当てる。
階段を一段、また一段と降りるたび、心臓の鼓動はどんどん速まっていく。
胸の辺りを手で押さえながら、花音は三階に到着した。
そして、いつもなら即Uターンして下に降りるものの、何故か足は真っ直ぐと動いた。
三階の一番奥に位置する、音楽室に向かって。
初めは小さかった音色が、音楽室のすぐ近くに来ると、はっきりと聞こえてきた。
『シ♭』の伸ばす音が、仕切りに鳴り続けている。
音楽室の正面には『音楽教室』と書かれた大きな扉と、そのすぐ横に『音楽準備室』と書かれた小さな扉が並んでいた。
真っ白な壁に、『ようこそ吹奏楽部へ!』と大きく書かれた一枚のポスターが貼られてあった。
花音は中にいる先輩たちに気づかれないように、物音を立てないよう、そっーと歩いて音楽準備室の方の扉に近づいた。
さっきまでロングトーンばかりだった音色は、もう曲に移っていた。
どこか懐かしみがある、楽しげなメロディー。聞き覚えのあるフレーズ。無意識的に、歌詞を口ずさむ。
「ほら、あなたにとって…大事な人ほど…」
知らない人はきっといない、一昔前に大ヒットした名曲、モンゴル800の『小さな恋のうた』だ。花音も大好きな歌である。
閉まっていると思った準備室の扉は、ほんの少しの隙間を残して開いていた。
駄目なことだとは分かっていたが、興味を抑えきれない。その隙間から音を立てないように少しだけ顔を出してみる。
準備室から、独特の木の匂いがふわりと香る。
「うわぁ…!」
花音は思わず感激の声を上げた。そこは楽器庫だった。
まず一番に目に飛び込んできたのは、大きなドラムセット。その後にシロフォン、マリンバ、グロッケン、サスペンスシンバル、チャイム、キーボードがどんどんどんと並ぶ。
その反対側には、管楽器が入った黒や茶色のケースが棚の中にたくさん仕舞われてあった。
棚の中や机の上など、楽譜がそんじょそこらに置かれている。
「凄い、こんなに楽器が…!うわっ、楽譜もこんなにたくさん!うわぁ…!」
花音は感嘆の声を上げながら歩き回る。
ここは大の音楽好きの花音にとって、たくさんの『好き』が詰って詰まりすぎた場所だ。
こんな幸せすぎる光景は滅多に見れない。花音は溢れんばかりの幸福に包まれた気分だった。
ふと、机の上に飾られてある大量の盾が目に入った。
金でコーテングされた盾は、窓辺から射し込む太陽の光に照らされてキラキラと輝いている。
それが綺麗で華やかで、花音は見惚れていた。ふと、下に書かかれてある小さな文字が目に入る。花音は目を見張った。
第59回広島県吹奏楽コンクール・金賞 第42回広島県アンサンブルコンテスト・金賞 第60回広島県吹奏楽コンクール・金賞……
「金ばっかり…」
すると、誰かの足音が近づいてくる。ここから反対側の音楽室へと繋がっている扉が、ガチャリと開く。
まずい、誰か来る。花音は即急に楽器庫を飛び出し、廊下につながる扉の後ろにひゅっと隠れる。
入ってきた人物は、花音の存在には気づいていない様子だった。間に合ってよかった…と安堵しながらも、花音はその場から離れようとしなかった。
なんとなく、まだここにいたいと思ったからだ。
花音は隙間からそっと中を覗く。一体、何をやっているのだろうか。花音は自分の謎行動を恥ずかしく思った。
楽器庫に入ってきたのは、ひとりの女性だった。顔にシワ一つ無い、若い女の人。
花音の全く知らない人物だった。誰だろう、と思いながら彼女を見つめた。
一瞬だけ先輩かと思ったが、彼女は私服を着ている。入学式の教員紹介では見かけなかったが、となるとこの学校の教師だろう。
その女性は影からこっそりと覗き込んでいる花音に気づいていないようで、机の上で楽譜を整理していた。
先輩だと勘違いしただけあって、その女性は背も低く、堂顔だ。
流石に中学生の花音よりかは年上に見えるが、高校生、大学生くらいだと言われても不思議ではないだろう。
一重瞼で目が少しツンとしていて、そして左耳にイヤホンのような謎の機械を装着していた。
がら空きになっている窓から風が入ってきて、彼女の漆黒で癖のない髪の毛を小さく揺らした。
それにも一切構わず、彼女は机の上に置いてある楽譜に目を落としているばかり。
その人間味のない行動に、なんだか機械みたいな人だな、と少し思った。
……とはいえ、ずっとこのままここ居るわけにはいかないので、花音は帰ろうと思った。
正直この楽器庫を堪能できただけで満足だし、ずっとここにいてあの人や、中にいるであろう上級生に自分の姿を見られるのも嫌だった。
『お邪魔しました』と心の中で呟いて、音を立てないようにドアを閉めようと思った、そのときだった。
「おいごらぁぁぁ!!」
「……?!」
突然、耳に大きな怒号が聞こえてきた。花音は驚いてビクリと体を震わせた。
それと同時に、ドタドタドタドタ…と、複数人の階段を降りる音も聞こえてくる。
「おい、きょん!流石にやべえって!先生ブチギレだったぞ?」
「大丈夫だって、隠れるから!お前らは先に上がって誘導してて!」
なんだか騒々しい――男子たちの話し声が近づいてくる。先程の怒号は、女性教諭の声だった。
「やべぇだろ、先生くっそ追いかけてくるし…やべぇ!めっちゃこっち来てる!」
「ここに死角だから大丈夫だって。シッ!静かに!」
一体何をやらかしたら、あんなに先生に追いかけ回されるんだ…?と、花音は首をひねる。
「見つけたぞごらぁぁぁ!!」
「うわぁぁぁぁ!!」
再び足音が聞こえてくる。どうやら、見つかってしまったようだ。
「やべぇぇぇ!!」
突然大きな奇声を上げた男子が、左に方向転換して音楽室の方に向かって走ってくる。
しかし、そこはちょうど花音が立っている場所だったのだ。
男子は後ろをチラチラ確認しながら、花音を目掛けてものすごいスピードで猛突進してきた。
「ぎゃぁぁぁ!?」
花音は突然押し寄せてきた困惑と恐怖で、その男子に負けないくらいの声で絶叫した。
「へ?うわぁぁぁぁ!」
男子はそこでやっと花音の存在に気がついたようだったが、時既に遅しだ。
男子の体はそのまま花音の体に正面から突撃して、その衝撃で花音は楽器庫の扉に思いっきり体当たりした。
しかし、開きっぱなしだった扉が中学生二人分の体に耐えられるはずもない。
そのまま扉は重力に負け容赦なく開いて、花音とその男子は楽器庫の床に勢いよく倒れ込んだ。
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