#03 再会と出会い

「っ…いたっ…」


 打ち付けた頭や背中がズキズキと痛い。


 花音は痛みを堪えながら薄目を開ける。すると、目の前にはぶつかってきた男子の顔があった。


 男子は、花音に覆いかぶさっていた。かろうじて手はついているので、体同士は密着していないが。


 男子は肩で息をしながら、花音のことをじっと見つめる。


 端から見ればかなり異様な光景だが、頭を打ち、まともな思考が回らなかった花音は、彼の眩しすぎる金色の髪の毛をただ呆然と眺めていた。 


 ふわり、とまた風が吹く。どこからか、一枚の楽譜が飛んできた。


『小さな恋のうた B♭ベ― clarinetクラリネット 1stファースト』と一番上に書かれたその楽譜は、花音と男子の間をすり抜けて、ゆっくりと床に落ちた。


 さっきまでずっと隣から聞こえていた演奏が、その瞬間にピタッと止まった。


「お前…」


 目の前の男子は、同じように花音を呆然と見つめている。


「……のん?」 


 そのとき、彼に名前を呼ばれた。


 遠い昔の、かつての自分の呼ばれ方だった。




『ねぇふーちゃん!きょーちゃんにいじわるされた!』


『あー!きょーちゃんいけないんだー!のんちゃんいじめたらだめなんだよ!』


『そんなことしてねーよ!のんが勝手に泣いたんだよ!』




 あの頃、毎日のように通った楽器店。古びた楽器たちのかび臭い香りと、幼馴染との会話。


 頭の片隅にしまい込んでいた記憶の数々が、彼のその声で一気に呼び起こされた。


「……きょ…」


 金髪と、乱暴な口調。それに、その呼び方。


 声が当時と比べ物にならないくらい低くなっていても、分からないはずがない。


「きょーちゃん…?」


 ――――北上きたがみ響介きょうすけくん。


 花音は彼の名を呼んだ。きっと彼も、響介も、今はそうとは呼ばれていないだろうけど。


 あの夏の日、花音の人生を変えた、若の宮中吹奏楽部の定期演奏会。


 そこで出会った、きょーちゃんとふーちゃん。花音にとって初めて『友達』と呼べる存在だった。


 家も近くて、若の宮町に帰ってきたその後も毎日のように遊んでいた。


「あの…」 


 そのとき、真上から声が聞こえた。


 さっきまで花音を見つめていた響介が、はっと顔を上げる。花音も声がした方を見た。


「あなたたち、大丈夫?」


 さっきまで楽譜を整理していた女性が、困惑した顔つきで地面に転がったままのふたりを覗いていた。


「だ、大丈夫です!」「大丈夫っす!」


 途端に、花音も響介もハッと我に返り、大急ぎで起き上がりお互いからぱっと離れた。 


「あ、そう?よかった。心配したのよ。床に倒れ込んだまま」


 女性はホッとしたような微笑みを零す。すると、花音の隣に立っていた響介の顔が、みるみるうちに赤くなった。恥ずかしくなったのだろうか。


「ごらあああ!北上!どこに隠れあがった!遅刻に無断欠席、課題未提出、先生への舐めた態度!今日の今日こそみっちりしごいたる!」


 すると、さっきまでずっと響介を追いかけまわしていた女性教師の怒号が、楽器庫の外から再び聞こえてきた。


 響介はすっかり忘れていたのか『やっべ!』と再び慌てふためく。


「あ、えっと、失礼しやした!」


 響介は先生に向かって深く一礼すると、嵐のごとく楽器庫から去っていった。


「あ、あなたは本当に大丈夫?頭から打ってたけど…」


「い、いえ!大丈夫です……」


 まだ背中が少し痛むが、目立った傷などは無かったため、気にしないふりをして花音はそう言った。


『よかった』と微笑む彼女の顔は、ついさっき『機械的だ』と思ったのが噓のように、温かな人間味に溢れていた。


「吹雪先生ぇー!」


 そのとき、高くて明るい声と共にまた扉がガチャと開いて、中から人がズカズカと入ってくる。


 今度はれっきとした女の子だった。手にはクラリネットという楽器を持っている。


 花音はその子の容姿を見た瞬間、心臓がドキリとした。 


 その子は『可愛い』の一言で済まされないほどの可憐さを放っていた。


 星のようにキラキラと輝く大きな瞳と、深藍色のツヤツヤな髪の毛。彼女の姿は、夜の空とそこに浮かぶ一等星を連想させた。


 花音の周りで『あの子可愛いね』と言われている子でも、この子には勝てないだろう、と確信するほどに。


「先生、ここで楽譜見なかった?さっき飛んでいって…」


 花音はつい見惚れてしまっているが、女の子はそんな花音に目もくれなかった。


 どうやら探し物をしている様子で、この辺をぐるぐると歩き回っている。


 『吹雪先生』と呼ばれた女性も、分からないねぇ、と困ったように辺りを見渡す。


 花音はふと、さっき倒れていたとき、楽譜が飛んでいたことを思い出した。自分の足元を見てみると、一枚の楽譜が落ちていた。


「あっ、あの…!」


 自分から人に話しかけるなんて一体いつぶりだろう。怖かったが、花音は懸命に声を張り上げて女の子に話しかけた。


 女の子は『ん?』と花音に気がつく。


「こ、これっ…ち、違い、ますか…?」


 花音がたどたどしく聞くと、女の子は花音が持っている楽譜を拝見し、『これだ!』と嬉しそうな顔をした。


「よかったぁ~!ありがとうね、助かったよ!」


 満面の笑顔でそう言われて、花音は『いえ…』と遠慮気味に答えた。


 そんな大層なことはしていないし、なによりそこまでの笑顔を向けられることが少し恥ずかしかった。


 よし、そろそろ帰ろう…花音はそう思ったが、さっきから女の子が花音をじっと見つめてくる。


「君、リボンが緑ってことは一年生だよね?もしかして見学に来てくれたの!?」 


 女の子は意気揚々とそう聞くと、花音の手を握った。


 女の子からは柑橘系のふんわり甘い香りがする。花音が『えっ?』と困惑していると、


「おー!そうかそうか見学か!まじで悪評立ってるから部員一人も来なかったらどうしようかと思ってたけど、まさか見学期間前から来てくれる子がいるなんて!先輩は嬉しいよ!」


 女の子は花音の返事を聞かないまま楽しそうにはしゃぎ、花音の手をブンブンと振り回した。


 当の花音は『えっ?えっえ?』と、理解が全く追い付いておらず、ただただ彼女にされるがまま。


「君、名前は?」

「えっ、あっ、しっしの、篠宮、花音です……」

「花音ちゃんね!先生、よかったね!新入生第一号だね!」


 どうやらこの女の子は、吹奏楽部の先輩らしかった。制服のリボンの色は赤だから、三年生だ。


「あの、松坂まつさかさ…」

「よーし!となれば早速見学に行こうー!音楽室にレッツゴー!」

「えっちょちょっ…」


 先生の方が何か言いかけていたが、女の子は完全に興奮して、周りの声など聞こえていない状態だった。


 しかし、『見学』と聞いた途端、背筋にゾクゾクと寒気が走った。


 他の先輩達が吹いている際中に、わたしひとりだけ立って聴くの?


 想像するだけでゾッとした。そんな状況、耐えられるわけがない。絶対気まずい…!


「すっすみません!わたし行けません!ごめんなさい!」


 そのまま音楽室に連れ込まれそうになったので、花音は慌ててそう捲し立てる。


 女の子が『えっ?』と呆然としているのを他所に、花音は急いで楽器庫から出ようとした。


「ちょっと待って!」


 すると、花音は女の子に腕を引っ張られて引き留められた。女の子は音楽室に走ると、手に一枚の紙を持って戻ってきた。


「ごめんね。でもこれだけでも受け取ってくれないかな。」


 女の子は花音にビラを渡した。


 花音が目を落とすと、そこには丸くて丁寧な字で『ようこそ!若の宮中学校吹奏楽部へ!』と大きく書かれている。


 その下に楽器のイラストや、部活についての紹介が書かれていた。


「この人は、顧問の川本かわもと吹雪ふぶき先生。今年から新しく顧問になったんだよ!」


 女の子にそう紹介されると、吹雪は軽く頭を下げた。と言っても、なんだか沙楽と並ぶと、吹雪も学生に見えてくる。


「で、あたしは三年の松坂沙楽さら!若中の吹部で副部長をやってます!一応、生徒会にも入ってるんだ!」


 女の子、沙楽は人当たりの良さそうな笑みを浮かべる。


 『副部長』や『生徒会』という響きは、この先輩にとてもしっくり来るなぁ、と花音は納得した。


「さっきも言ったんだけど今ね、部員不足でたった六人しかいないの!だからたくさん新入生を入れないといけなくて、だから、花音ちゃんに入ってきてほしいんだ」


 女の子…沙楽はそう言うと、にっこりと笑った。花音は『あ、はい…』と反射的に答えていた。


 すると沙楽は『えっ?本当?!』と嬉しそうに花音の手を振り回す。


 元々入るつもりでここに来ていたし、こんなお願いをされてわざわざ『嫌です』なんて言えるはずも無いから。

 

 ふと、沙楽の隣でずっと黙っていた吹雪が、花音に一歩近づく。


「……待ってるね」


 と、大人っぽい笑みを浮かべた。


 沙楽の高くて明るい声の後に、吹雪の少し低めな落ち着いた声を聴くと、耳の中でその二つの声が上手くマリアージュされて心地が良かった。


 それと、吹雪が左耳に着けていたイヤホンらしき機器は、近くで見ると『補聴器』だということが分かった。


 聴力障害がある人が、音を拾いやすくするために装着する品。…ということは、耳が聞こえないのだろうか。この人。


「あ、はい。あの、きゅ、急に入ってす、すみませんでした……」


 花音は深く頭を下げると、そそくさと楽器庫を出た。吹雪と沙楽は、そんな花音を最後まで見送っていた。

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