#13 迷惑かけてごめんなさい

【5月20日】


 ブーーと、今日もマウスピースの振動音が音楽室に小さく鳴り響く。


 二拍、三拍…とメトロノームは過ぎる。近くて見ているみんなの『頑張れ!』という応援が目力に表れている。


 今日の金管パートの練習は、ちょっとしたテストを行っている。


 このテストに合格すると、初心者たちはマウスピースを卒業して、晴れて楽器を取り付けることが出来る。


 テストの項目は簡単。美鈴が一年生たちに最初に課した課題『B♭の音を4拍伸ばそう!』だ。


 美鈴の目の前でこれを完璧にクリアできたら、晴れて一年生……すなわちピヨちゃんたちは楽器に入ることができる。

 

 トランペットから順番にやるので、トップバッターは今テストを受けている真っ最中の夏琴だ。

 

「よし。住吉さんは合格っと!」


 夏琴は無事に4拍伸ばすことに成功し、美鈴は嬉しそうに笑う。


 夏琴も『やったー!』と嬉しそうだ。息をハァハァ切らしていて、息切れしないか心配だが。


「じゃあ次は篠宮さんだね。」


 美鈴が右に移動して、花音の横に立つ。花音が持っているチューナの画面を確認するためだ。   


 花音はあれからも練習をずっと続けていたが、まだ出来ないときが多いし、今は先輩の美鈴が隣で見られていて、凄く緊張する。

 

 やっぱり出来ない気がして、花音は不安になった。


「あ、自分のタイミングで始めていいよ。」


 美鈴にそう促され、花音はすぅっと息を吸うと、『ブー』と吹き始める。


 いつも通り、二拍までは『B♭』が綺麗に真っ直ぐ鳴った。


 でも、やっぱり三拍目で唇が保てなくて音が低くなり『A』に落ちてしまった。


 それがきっかけで音がどんどん低くなっていって、吹き終わる頃にはなんの音を吹いていたのか分からないくらい汚い音になってしまった。


 あぁ、やっぱり出来なかった。花音はマウスピースを口から外すと、ふつふつと湧き上がってくる焦燥感で、恐る恐る目の前に居る美鈴を見た。


「うーん、まぁ、後でもう一回やってみよう。」

 

 しかし美鈴は笑顔のままで、特に花音を責めることもなくフォローした。


「じゃあ次は…」


 美鈴はさっと切り替えると、残りのトロンボーンの祐輝とチューバの響介のテストを見た。


「ふんぐぅぅぅ!」

 

 祐揮は苦しそうに顔を顰め、マウスピースを唇に押し付けて無理矢理吹いたが、最後まで音を伸ばすことに成功していた。


 響介は表情一つ変えずに難なく吹きこなし、すぐに合格を貰った。


 ふたりが一発で合格したため、あと合格していないのは花音だけである。


「じゃ、篠宮さんはもう一回できそう?」


 美鈴は少し遠慮気味に花音に尋ねた。


「あ、え…っと…」


 花音は俯いたまま言葉を濁した。自身が無くなってしまったからだった。


 正直、今吹いてもまた同じだろう。また途中で唇が痛くなって、音が変になる。


 さっきの失敗のせいで、花音の中で『駄目かもしれない』という不安が『駄目に決まっている』という断定に変わっていた。


 出来ないに決まっている。またさっきみたいに失敗して、みんなの前で恥をかきたくない。


 恥ずかしいし、自分にこんなに時間を使うせいでみんなの練習時間を奪っているのが辛い。


「……はい、やります。」


 そう思いながらも、ここでそれを言って先輩を困らせたくなかったから、花音は再びマウスピースを手に取る。


 その手が、さっき以上にブルブル震えて、汗がルヌルヌと湧き出てくる。


 手どころか、唇までブルブル震えてきた。こんなんじゃ、音すら出すのもできない。


 目の前の先輩の目線が、針みたいに痛い。先輩が持つチューナのメトロノームの音が、やけに耳につんざいて胸がチクチクする。


 花音は恐る恐る、震えている手で銀の金属を震えている唇に近づける。


 その間も、花音の頭の中は悪い妄想で溢れていた。


 嫌だ、怖いよ。やりたくない。また失敗して、そしたら、また……


 ーーーーーーーカッシャーン!


「あっ…!」


 そのとき、手汗でマウスピースがすべり落ちて、大きな音を立てて床に落ちた。


 突然の大きな音に驚いたのか、目の前に居た美鈴は『ぎゃっ!』と悲鳴を上げる。


 目線を床に落とすと、床に落ちた汗だくのマウスピースが、力なく床の上をコロコロと転がっていく。

 

 顔を上げて周りを見渡したら、みんなは驚いた顔をして、床に転がるマウスピースを見つめていた。


 花音は自分のやってしまったことに気が付くと、サーッと体から血の気が引いた。


 どうしよう、楽器を落としてしまった。


 入部したとき、先生や先輩方から『楽器は貴重品なので、扱いには気を付けること。』と言われていたのに。


 それなのに、故意ではないけれど、落としてしまったのだ。

 

 どうしよう。もしマウスピースが今の衝撃で欠けていたら、音が出なくなってなっていたら…?


「ご、ごめんなさ…」 


 膨大な恐怖心ゆえに、謝罪の声が掠れる。

 

 本来なら今すぐ拾い、即座に『ごめんなさい』と謝るべきなのに、花音はあまりのショックに、身動き一つ取れなかった。


 あぁ、なんてことをしてしまったんだ。花音は自分を責めたが、責めても責めきれなかった。


 周りのみんなの視線が、花音のただひとりに降り注いているのを感じる。


 その視線は、花音に対しての蔑視の目だろう。


『なんてことしてんだよ』『おい、謝れよ』『下手くそのくせに』『みんなの時間奪うな』

 

 きっとみんな、そんなふうに花音を蔑んで、軽蔑しているのに違いないだろう。


 わたしは、前からずっとみんなに迷惑をかけているんだ。何度教えても、みんなが当たり前にできることが出来なくて。


 迷惑かけたら駄目なのに。そのためにも頑張って、早く出来るようにならないといけないのに。


 それなのに、それが出来ないどころか、こんな愚行まで犯してしまった。


 これまでに花音に怒ったことがない美鈴だって、こんな愚図な後輩にイライラを募らせているに違いない。


 花音はまともに前を向けず、俯いたままだった。


 前から足音が聞こえてくる。

 

 こっちに来るんだ。花音はスカートをぎゅっと握りしめる。真っ青だった顔に、汗が出てくる。


 その足音はわたしの目の前で止まる。すると、手がこちらに伸びてくる。


 花音はビクッとして、ぎゅっと目を瞑った。

 

 あぁ、今から、わたしへの溜まりに溜まった怒りをぶつけられるんだろうな。

 

 どんな言葉の刃物を投げつけられても、いつものようにぐっと耐えなければ。


 仕方がない。いつも周りに迷惑をかける、花音が悪いのだから。


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