一年目 五月
#12 変わってしまった君
【5月2日】
「ってお前、何でいるの?」
自分の家の縁側に、なんの躊躇いもなく普通に居座っている花音に向かって、帰ってきたばかりの響介は疑問を投げかけた。
「だってぇ、家でマウスピース吹いたらみーくんに『うるさい』って言われるんだもん」
花音はここのところ毎日、部活終わりにキタガミ楽器店に寄り、足りていない練習を補っている。
部活の数時間で充分練習しているつもりではあるが、それだけだと周りに追いつけないのではと不安だったのだ。
舞香はもちろん、花音以外の金管パートの一年生はもうB♭の音を4拍吹くという初めの段階をクリアし、Fなどの他の音に移っている。
しかし、花音だけはまだ四拍吹けていない。どうしても、二拍立てば別の音に飛んでしまう。
どうしかその段階をクリアしないとと、花音は試行錯誤しながら練習している。
だが部屋で練習すると、反抗期に差し掛かっている小学五年生の弟・
「まぁお前できなさ加減が酷過ぎで、先輩に笑われてたしな」
「だって、すぐ音が変わっちゃうんだもん…」
花音はムッと頬を膨らますと、持って帰ったマウスピースとチューナーを鞄から出し、吹き始めた。
チューナーでメトロノームを付けると、マウスピースを吹く。もうB♭が出る音の口の形は、なんとなく身に付いていた。
チューナーにB♭の音が表示される。下の音程の棒が大きく揺れる。音程は全く合っていないということだが、今はそれは置いておこう。
お、いけそう!と花音が感激したのもつかの間、三拍目で『А』に変わってしまった。
「あーまたできなかったー!」
花音は悔しくて手足を子どものようにブンブンと振り回す。勢いでチューナーをぶん投げそうになったが、それはなんとか堪えた。
いつの間には隣に座っていた響介が、そんな花音を見て『はんっ』と鼻で笑う。
「ちょ、笑わないでよ…」
「あぁわりぃ…ははっ、」
『わりぃわりぃ』と謝りながら、馬鹿にしたように笑う響介に、花音はムッとした。
「ねぇ、なんで北上くんは出来るの?」
花音は勢い余って聞く。
「いや、こんなん簡単だろ。同じ音伸ばすくらい」
響介は半笑いで花音にそう返した。
「……北上くんは、昔から何でも出来るもんね…」
性格は荒いものの要領は良い響介は、勉強や運動など、様々なことを難なくこなしてしまうタイプだ。
それとは反対に不器用で要領の悪いタイプの花音は、響介のことを羨ましいといつも思っていた。
「みんな、なんで出来るんだろう…」
花音は脱力しきって、縁側の床に寝そべった。
「なんで、いつもわたしばかり…」
花音だけ、できない。その状況は今回が初めてではない。これまで何回もあったことだ。
勉強も、運動も。小さい頃から、花音はみんなより出来ないことが多かった。
やっと出来るようになっても、みんなはとっくの昔に次のステップに行っていて、追い付けない。
みんなみたいになりたい。みんなと同じようになりたい。花音はいつもそう思っていた。
「……にしてもお前、学校では周りの奴らにビクビクしてんのに、俺の家では遠慮ないよな」
響介は遠慮なく床に寝そべっている花音を見て、少し呆れたように言う。
「な、仕方ないじゃん、ここしか練習する所ないんだし!」
花音は勢いよく起き上がると、少しムッとして言い返す。
キタガミおばあちゃんも『いいよ、ここでたくさん練習しんさいねぇ。』と快く受け付けてくれたからなのに。
まぁ正直なところ、響介の言う通りなのだが。
楽器店に居るときの花音は、学校に居るときの花音と比べると遠慮があまり無い。
やはり小さい頃から毎日のように遊びに行った場所だから、花音にとっても素を出せる場所だった。
「まぁいいいけどな。そもそも学校でのお前がクソ引っ込んでるだけだしな。」
「な…」
「お前があそこまでだとは思わなかった。マジでガキの頃から一つも変わってねぇな。」
響介が悪気なさそうにさらっとそう言い放つ。
花音と響介は同じクラスだ。とはいえ、問題児の響介は入学時からあまり学校に来ていなかった。
仮に来ても遅刻して、ということが多かったから、学校でふたりが顔を合わせることはほとんどなかった。
しかし、ここ最近は部活に参加するためか、昼休み辺りからちゃんと学校に来て、クラスに居ることが増えている。
とは言っても、響介はずっと男子と一緒に居るので、花音とは関わらないが。
「…しょうがないじゃん!そっちだって、いつも学校に遅刻しまくってるくせに!」
「ほー、言ってくれるじゃねぇか。」
「ていうか、昔はあんなんじゃなかったじゃん。確かによく寝坊して遅刻はしてたけど、ちゃんと毎日学校に来てたし、問題児じゃなかったのに、どうしちゃったの。」
花音は少しカッとなって響介にそう言い返すと、いままで響介に抱いていた疑問をそのままぶつけた。
花音にとって響介は、『本当は優しい幼馴染』だった。
本当にそうなのだ。響介は口は悪いし、怒りっぽく乱暴で、みんなから怖がられることもしょっちゅうだった。
でもそれは誤解だ。響介は優しい。真面目で努力家で、口も固く、約束はちゃんと守った。
花音が小さい頃、近所の公園で男子たちに髪の毛を引っ張られて泣いていたとき、響介はすぐに駆けつけて、その男子たちを追っ払った。
自分だって普段、同じようなことをしているくせに。
なのに、花音をここに連れて帰って、花音が泣き止むまでずっと、側に居てくれた。
今の響介は、もう完全に『問題児で不良』だ。
学校サボるし、夜遅くまで出歩いているし、理由もなく他の人に楯突いて問題起こすし。
風歌だって、『なんか変わったよね。』と言っていた。
そこにどんな事情があるかなんて分からない。もしかしたら、深い事情があるのかもしれない。
そこに深入りすることなんてできないのかもしれないし、許されないのかもしれない。けれど。
いつだっていじめっ子から助けれてくれて、守ってくれた優しい響介を、花音は知っている。
だから、響介が変わってしまったのが悲しかった。
「何があったの…?」
花音は響介の顔を見るとそう聞いた。
すると響介は、バツの悪そうな顔をして黙ってしまった。
この響介の顔は、以前も見たことがある。おばあちゃんに紅葉饅頭を用意してもらったあの日だ。
そのとき花音は、『バスケ部に入るの?』と響介に聞いたのだ。
響介は『バスケ』という単語を聞いた瞬間、今のように黙り込み、暗い影を落とした。
なら、もしかしたら響介が変わってしまった理由に、バスケが関わっているではないかと、花音は考えついた。
「……あ、ごめん…」
しかし、辛そうな顔をする響介を目の前にして、そんなことまで問い詰める気にはなれなかった。
花音が謝っても、響介は黙りこんだままだ。そんな響介を見て花音は焦った。
ああ、どうしよう。響介の心の中を土足で踏み込むような真似をして、彼を傷つけてしまったかもしれない。
普段は他人に対して余計な遠慮ばかりしてしまうくせに、こういう時に限って距離感を間違える。
やっぱりわたしはこういうところが駄目だ。不器用で失敗ばかりで、周りに迷惑をかけて。
こんなわたしだから、他人と上手く関係を築けないんだ。そう思い、花音は自己嫌悪に陥った。
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