#05 あの夏の約束
「いつものTシャツがないんだけど…」
降りて来たのは、つい先程先生から追いかけ回されてぶつかってきた相手・響介だった。
響介は居間に座っている花音に気が付くと『は?』と驚いた顔をする。
花音も一瞬固着したが、反射的にガタリと立ち上がった。
とはいっても、響介はキタガミおばあちゃんの孫息子なのだから、この家に居るのは当たり前のこと。
それでもまだ家に帰っていないのだろうと花音は勘ぐっていた。
『夜の六時過ぎに、公園にきょーちゃんがよく居るよ』と、仕事帰りのお母さんがいつも言っていたからである。
今はまだ五時過ぎである。まさか今日に限って、響介がこんな早い時間に帰っているとは思っていなかった。
「えっ、なんで居んの?」
響介が目を大きく見開いて花音を見ている。もう何年もここで響介とまともに会わなくなっていたから、そんな反応をするのも無理はないが。
「……あ、えっと、おばあちゃんが…」
なんて言えばいいのか分からなくて、言葉が吃ってしまう。
台所からはジュージューと焼く音と、砂糖と卵の甘い香りがする。その音と香りで響介はすべてを察したようだった。
「…もみじ饅頭?」
「あ、うん…」
花音はこくりと頷く。すると響介は『あっ』と唐突に声を上げる。
「今日、ごめんな」
響介はそう言うと、花音に向かって丁寧に頭を下げた。『えっ?』と花音は目を張る。
「さっき、楽器庫でぶつかって悪かった。転ばせたし、怪我してないか?」
響介が心底申し訳無さそうにそう聞いてくるので、花音は少し拍子抜けした。
ついさっきまで、先生から逃げ惑っていた問題児とは思えないくらい、律儀かつ品行方正な態度であったからだ。
「あ…うん、怪我してないよ…」
「ならよかった。本当、ごめん。」
「大丈夫…」
花音はひたすら『大丈夫』と繰り返した。
響介にここまで本気で謝られると思っていなかったので、花音の方が逆に何だが申し訳なくなってしまい、萎縮してしまう。
話すことがなくなると、今度はお互いに沈黙の時間が流れた。
き、気まずい、と花音は眉を顰めた。おそらく響介も同じような気持ちだろう。
こういうときは、どちらかが『久しぶりだね』『中学校どう?』なんて切り出して話題を作るべきなのだろう。
しかし、花音も響介もそういう様に積極的に場を盛り上げようとコミュニケーションをとる性格ではない。
おまけに相手は異性で、しかも昔は仲良くしていた幼馴染、という微妙な関係である。
特に花音はただでさえ人と会話をすること自体に苦手意識が強いため、自分から話題を見つけて話しかける、なんて絶対に無理だ。
かと言っても、おばあちゃんから『待っていて』と言われた以上はここに居なければならない。
よって、この気まずい空間から脱出することも不可能である。
「おまたせ〜」
と、ここでもみじ饅頭を焼き上げたおばあちゃんが居間にやってきた。助かった、と花音は思った。
「あらぁ、きょーちゃん。もう帰ってたのかい。」
「あ、ばあちゃん…」
おばあちゃんはいつもよりかなり早い孫の帰宅に、驚いている様子だった。
「今日は早いわねぇ。」
「まぁ、色々あって…」
響介はバツが悪そうに目をそらした。さっき楽器庫を出たあと、先生に捕まってみっちりと叱られたのかもしれない。
もしかすると、それで今日は早く帰るように言われたのかも。
「そうだ、きょーちゃんももみじ饅頭食べ?」
「あ、あぁ…」
おばあちゃんがそう促すと、響介はこくりと頷き、テーブルの上に置かれた焼き立てのもみじ饅頭をひとつ取り、縁側まで行って食べ始めた。
花音も『頂きます』と言って、饅頭を手にとる。
一口食べた瞬間、ふわっとした生地の食感と、香ばしい香りと小豆の優しい甘さがして、『美味しい…』と呟いた。懐かしい味だった。
おばあちゃんは花音の目の前に腰を下ろすと、湯飲みに入った熱いお茶をすすり始める。
花音は知っていた。おばあちゃんが花音に出すお茶はいつもほうじ茶だが、おばあちゃんが飲んでいるお茶はかなり苦い緑茶だということに。
おばあちゃんは、花音が苦いお茶が苦手だと知って、わざわざお茶の種類を変えているのだ。
「そういえば、もうすぐ部活体験の時期よねぇ」
おばあちゃんはテレビを付けながら、真正面に座る花音にそう聞いた。
あぁ、またこの話題か。
「あ…うん。来週から始まる…」
「のんちゃんはやっぱり吹奏楽部?」
「うん、まぁ…」
花音は自信なさげに俯く。『やっぱりそうだと思った』と、おばあちゃんの顔つきがどことなく明るくなった。
「懐かしいわねぇ。おばあちゃん、若の宮中学校の吹奏楽部の顧問だったのよ。六年前くらいだったかね、もう辞めちゃったけど」
花音の脳裏に、あのステージでのおばあちゃんの姿が浮かぶ。ピシッとしたスーツをして、律儀にお辞儀をする、タクトの姿が。
「のんちゃんは小さい頃も今も変わらず、音楽が好きねぇ」
「……うん」
確かに、変わらない。 花音だけは。
そもそも三人で遊ばなくなったのだって、響介も風歌も大きくなるに連れて変わっていったからだった。
「お前、吹部なの?」
そのとき、縁側に座っていた響介がくるりと首だけこっちを向き、花音に話しかけた。まさか話しかけられるとは思わず、花音は少し驚く。
「え……あ、うん…」
「うちの中学の吹部って、今すごい悪評立ってねぇか?」
響介が神妙な顔つきでそう言う。聞いていたおばあちゃんが『そうなの?』と首を傾げる。
「なんか、前の顧問がすげーパワハラクソジジイで、辞めさせられたんじゃなかったっけ?」
「あー…うん、確か…」
響介の言葉に、花音はあっさりとそう答えた。
「去年までの顧問の先生がすごく怖かったって…合奏のとき理不尽に怒鳴ったり、暴言も酷くて、たまに体罰みたいなこともやってたって…」
去年の秋頃、小学校内で噂が立っていたのを少し耳にした程度だが、なんとなくなら知っている。
先程、三年生の沙楽が『部員不足で〜』と言っていたのも、きっとその顧問のせいで退部者が大量に出たのだろうと、花音は勘ぐっている。
ただ、『吹奏楽部に入る』ためにこの中学校を選んだ花音は、他者から見た吹奏楽部の評価がどうであろうと全く気にしていなかった。
例え、どんなに悪い雰囲気の部活になっていたとしても、それでも部員のみんなを『笑顔にする』ことが、かつておねえちゃんが花音に望んだこと。
だっておねえちゃんなんて、一から部活を作り上げたんだから。
「あらまぁそうだったの、全く知らなかった…」
元顧問のはずのおばあちゃんは意外にも、初めて耳にしたようだった。
おばあちゃんは顧問を辞めるとと同時に、早めの定年退職をして学校自体からも去ったそうだから、若中との繋がりはとうの昔に切れていたのかもしれない。
「ばあちゃんが顧問だったときは、吹部も良かったっぽかったのにな」
響介がさらりと言った褒め言葉に、おばあちゃんは『やだ、何言うのよきょーちゃん!』と、孫息子の肩をバシッと叩く。が、その顔はものすごく笑っていた。
肩を叩かれた響介は『人前できょーちゃんって呼ぶなよ!』と照れくさそうに怒る。
学校だと教師たちに反抗的なのに、家だと昔と変わらずおばあちゃんとは仲が良いことに、花音は少し安心した。
「あーでも、俺も入ろうと思ってたんだよな」
「えっ?!」「まぁ!」
響介があっさりと言ってのけた言葉に、花音とおばあちゃんは同時に驚いた声を出した。
「入るって、吹部に?」
「そりゃそうだろ。」
「待って、きょーちゃ…じゃなくて、北上くんはバスケ部なんじゃ?」
『きょーちゃん』と昔のように呼びかけたが、慌てて取り消す。
響介は小学校の半ばごろから、小学校のバスケ同好会に入っていた。響介からはバスケが楽しいと、花音も聞いていた。
響介がバスケ同好会に入り遊べなくなったことで、響介と花音、風歌の距離が一気に離れたと、花音は強く記憶していた。
楽器店が響介の家だからここに集まっていただけに、その響介が抜けても、花音と風歌だけになると、自然と遊ぶ場所も変わっていったのだ。
「いや、バスケは…」
響介は何か言いかけたが、すぐに口籠ってしまった。
後ろめたそうに『なんでもねぇ』と言った響介からは、どこか暗い影を感じた。花音もそれを感じ取って、もうバスケのことは聞かなかった。
「まぁ俺は、悪評なんかどうでもいいし、どうせ他に入りたい部活もねぇしな」
響介がそう言うと、おばあちゃんが『きょーちゃんが入ってくるなんて、教師冥利に尽きるわぁ』とまたまた嬉しそうだった。
「……そっか」
『ねぇねぇ、中学生になったら三人で吹奏楽部入ろうよ!』
あの会場での中庭の、あの日の約束を思い出す。
もう、ふたりとも忘れてると思ってた。いや、もしかしたら忘れてるかもしれない。
それでも、嬉しかった。完全ではなくても、わたしがずっと信じてきた、あの約束が少しでも本当に叶うかもしれないことが、本当に嬉しい。
わたしだけが、取り残されたわけじゃなかったんだ。花音は嬉しさと安心感で、花音は微笑んだ。
笑ったのは、久しぶりだった。
「で、篠宮も入るんだよな?」
響介が、今度は体全体をこちらに向けて聞いてくる。
花音は迷うことなく、首を大きく振った。
「……うん!」
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