9 黄昏にゆれる

 あ、死んだ。

 そう思ったが、僕が突き飛ばされたのは後ろからではなく横からで、地面と衝突する衝撃は思ったよりも早く、弱かった。

 あれ……? 何で――。

「なに、やってんの……!」

 なぜか紗耶が、僕に馬乗りになっていた。夕日に照らされた顔は真っ赤で、目からはぽろぽろと、大粒の涙をこぼしていた。歯を食いしばって、嗚咽を堪えている。

 僕はこの子に助けられたのか。理解したのは、ひとしきり呆然としてからだった。

「あんなこと言ってごめん」

 何か言わなければ。そう思って、僕の頭の中に色々な言葉が駆け巡った。泡沫のように、現れては消える。ついに口をついて、こんな言葉が出た。何よりも先に。

「死ね。馬鹿。あんたなんか大嫌い」

 彼女が言った。悪意がつまったその言葉は、しかし僕が恐れていたよりもずっと軽かった。

 涙でぐしゃぐしゃの顔は、それでもなお綺麗だと思った。紗耶は、呼吸を整えようとして、一向に整わないそれに痺れを切らして言った。

「ボンヤリしてて、いつも死にそうな目をしてて、これじゃあっ、私、バカみたいっ! 本当に、本当に嫌い!」

 霧雨にまじって、涙の雫が落ちる。

「あんたのせいで、ずっと縛られてきた。だけど、私は、あなたが、あなたがいたから――」

 僕の胸に縋りつくように、紗耶はうつむく。拳を丸めて、僕を叩く。嗚咽混じりに喋る彼女の言葉は酷く要領を得ない。

「――だから、だからあっ! 死んじゃダメなの!」

 なのに、僕の心を悩ませる色々が、酷くちっぽけに思えるくらいの、強いチカラを持っていた。

 僕は泣きじゃくる紗耶の頭を撫でようとして、考えなおす。言った。

「ごめん。ありがとう」

 僕は彼女に笑いかけた。彼女も、涙を袖で拭ってから、少しだけ口角を上げた。

 降っていた雨が弱まって、いつのまにか止んでいた。霞んでいた視界が明瞭になる。

 雲の隙間から黄昏の空が見える。

 本当に、綺麗だった。

 

 僕は現実が怖かった。皆んな上辺だけ綺麗に取り繕って、巨大な悪意を隠し持ってる。そう思っていた。嘘に塗れて、明確なものは何一つなくて。

 僕にとっては、僕が夢見た異世界の方が、ずっと現実的だった。

 でも、それは違った。……いや、違わないのかもしれない。でも、少なくとも、この世の悪意はそれ程大きくなくて、世界には、好意だって存在してる。それを彼女が教えてくれた。

 

 彼女は、等身大の悪意と、等身大の好意を、僕にぶつけてきた。


 彼女は、何一つ判然なものなどない、この世界で、唯一判然に思えた。


 彼女は、夢幻の様な現実で、ただ一つ、現実感のある現実だった。


 紗耶は、僕のために泣いてくれた。


 いつの間にか、蝶も、悪魔も見当たらなくなっていた。

 吹き抜ける風は、まだ少し生ぬるいけど。

 夏が終わろうとしているんだと分かった。

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