8 ゆめまぼろしにさそわれて
目に入ったのは、白い天井。いつの間にか僕は寝ていたらしい。斜陽が差し込んで、室内を昏く照らしていた。
頭の中がぐちゃぐちゃで、いっぱいになって、もう、何かを考えるのがめんどうだった。
目の前を蝶が横切った。
ハッとして僕は体を起こす。あの蝶を追いかければ、全て解決する。楽になれる。そう確信した。
ひらひらと、頼りなさげに病室を出ていく蝶を追いかける。スリッパをはいている時間さえ惜しい。
病院の長い廊下を、蝶に導かれるままに、誘われるままに走る。何度も転びそうになりながら。廊下の通行人は、蝶も僕も気にもとめない。
蛍光灯の光は僕だけを照らしていない。
階段を駆け上る。妖しく光る鱗粉が、まるで僕を祝福しているようだった。
やがて、屋上へ続くドアのノブに、蝶はとまった。
僕の体が、勝手に動いてドアノブを捻る。
——ガチャリ。
ドアノブから出た無機質な音が僕を通り越して現実を貫いた。
鍵は、開いていた。
僕は、ドアの向こう側に足を踏み出した。
外は、雨が降っていた。糸みたいにか細い雨が、音を立てずに降りしきる。丁度、僕がトラックに轢かれた日と同じだった。8月31日。夏休みの最後の日。
僕は、高校に入って、そこそこ上手くやっていたと思う。友達もできたし、あまり目立たないようなポジションに収まっていた。
だけど、どうしようもなく、学校生活が苦痛だった。僕の近くに、人間という不透明で不明瞭な存在がいるのが嫌だった。嘘の仮面に隠されているだけかも知れない膨大な悪意を恐れた。
僕は中学校の頃から変わらず、致命的なまでに人間社会に生きいるのに向いていなかった。
夏休みが終わるのが耐えられなかった。あてどなく歩いていた。
気がつけば、僕は屋上の縁に立っていた。下を見下ろす。世界の色はくすんでいる。降りしきる雨が、僕の体温を奪っていく。
死ねば、今度こそ本当に、あの異世界に、楽園に行けるんじゃないか。
僕の異世界。僕だけの異世界。
黄昏に煌めく鱗粉が、僕をいざなう。
行けないなら、死んだって良い。この先ずっと生き続けるよりましだ。
上を見上げる。大きく息を吸って、吐いた。
だけど、僕の足は動かなかった。
……何だよこれ。生きたいのか? 僕は。
鱗粉が激しく瞬く。急かすように。
ちょっと、ちょっと待ってくれ、僕は、僕はやっぱり――。
「どーん!」
僕は突き飛ばされた。背後から、悪魔の声がした。その声は、とてもよく僕に似ていた。
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