2 らせん状にほどかれた

 心臓が強く脈動する感覚に、僕は跳ね起きた。胸のあたりを抑える。平素とは比べるべくもないほど強く、早い鼓動で、ズキズキと痛む。

 冷や汗でべちゃべちゃになった服が張り付いてきて気持ち悪い。

 胃が捩れるような感覚がして、口の中に苦くて酸っぱい味がする。視界が回って、上下左右がわからなくなるような強烈な吐き気を、僕はなんとか抑えた。

 また、あの夢だ。

 僕が目覚めて三日後くらいからだろうか。それから、今日に至るまでの数か月の間、僕の夢見には断続的に悪魔を名乗る黒い影が立つようになった。

 この悪夢から目覚める時は、決まって最悪の気分になる。怒りと、不快の感の絵の具をぐちゃぐちゃにぶちまけたような、自分自身がこんな強烈な激情を抱くのが怖くなって震えてくるような、そんな気分だ。

 荒くなった息を整える。胸を使って小刻みに吸って吐いてを繰り返す呼吸を、原を使って深くする様に意識する。大丈夫だ。僕は大丈夫――。

「……大丈夫ですか?」

「ん!? あ、ああ。はい。だ、大丈夫です」

 突然横から声をかけられた。影が薄いからいるのに今まで気づかなかった。

 声の主は、僕が二年前に交通事故から助けた少女だ。紗耶と。そう言うらしい。

 僕が目覚めてから毎週1、2回程度毎日見舞いに来る。学校帰りにそのまま来ているのか、いつも高校の制服を着ていた。膝を隠すスカートと、少しも着くずされていないセーラー。

 彼女の僕からの印象は、一言で言えば「不気味」だった。僕に恩を感じているのだろうか、家族よりも多い頻度で来る彼女と、しかし僕は言葉を交わしたことが数度しかなかった。

 彼女は喋らなかった。試しに僕が話題を振っても、一言二言返事をしてそれっきり黙る。会話が続くべくもなく、僕は早々に彼女との対話を諦めた。

 無言で彼女が、見舞いに持ってきた果物を切る。その間の沈黙に僕がとても気まずい思いをする。それが日課のように繰り返されていた。

 そんな調子だから、一体どんな心情の変化でもあったのか、紗耶の方から僕に話しかけてきたのは青天の霹靂だった。あまりの驚きに、僕が言葉をうまく返せなかったのは仕方がないだろう。

「そうですか」

 彼女はそれっきり、また黙ってしまった。突き刺す様な、はっきりと響く怜悧な声だった。僕は、何故だか彼女の声に好感を覚える。突き放される様な声色が、心地良かった。

 会話が止まり、いたたまれなくなった僕は彼女の反対側の窓を見た。僕が目覚めてから数か月、すっかり秋になって、日差しは雲の裏側によく隠れるようになった。

 今も雨が降っている。電気もつけてない病室は薄暗く、平素の白は灰色にくすんでいる。窓越しに聞こえる鈍い雨音は、まるでここだけが世界から隔離されてるみたいだった。薄暗く変わり映えのしない景色にすぐ飽きた僕は、親が持ってきてくれたライトノベルでも読もうかと思ったが、すぐにベッドの横に腰掛ける少女の存在に思い至り、バッグをあさるのをやめた。

 彼女は、今日はリンゴを剝いていた。赤く色づいたリンゴに、柄に花柄の模様の描かれた可愛らしい果物ナイフをたてる。

 華奢な手で小器用にリンゴを回していくたびに、赤い皮がらせん状にほどかれて、黄ばんだ白の中身が覗いていく。彼女はうつむいて、しかも前髪がそこそこに長いので、その表情を伺い知ることはできない。

 雨音に交じって、シャリシャリというリンゴの音が教室に響いた。

 僕が眺めているうちに、やがてリンゴは切り分けられ、余分をタッパーにつめると、皿に盛られた。彼女はそれを棚の上に置いた。いつも僕がすぐに食べないからだ。

 彼女は、そのあと決まって僕を凝視する。真っ直ぐ、レーザービームのような瞳で、眉一つ動かさず、無言で。

 こうなると僕は彼女の顔を直視できない。一挙手一投足を観察されるのはとてもこそばゆかった。


***


 少しして、雨脚が心なしか弱まると、彼女は帰っていった。帰り際に、暗いからと病室の明かりをつけてくれた。

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