1 悪夢

 ぼーっと、窓の外を見ていた。

 ガラスを隔てて青い空に入道雲が浮かんでいる。大きく、白い。

 時々吹く風に、病院の庭の木が揺れる。濃い緑に染まった葉っぱには光沢があって、生命の息吹を感じさせる。葉ずれの音は聞こえてこなかった。

 一つしかない太陽は外を明るく映し出している。ともすればその光は刺すようで、ずっと見ていると、目の奥が痛む。

 僕は布団を引き上げて、肩まで覆った。クーラーの風がちょうど当たって肌寒かった。


***


 交通事故に遭ってから二年(正確には二年に少し届かないくらい)間ずっと眠っていた僕は、どうやら到底目覚めるとは思われていなかったらしい。キセキテキな回復というやつだった。

 目を開けている僕を発見した看護師は驚いて数舜硬直し、そのあと病室の外にかけていった。医者がやって来て、意思疎通の確認やら何やらをした後、状況説明をされた。

 受け入れがたくても受け入れざるを得ない現実は、やはり僕の予想を外れずに、あの夢のような異世界は本当に夢だったのだと重くのしかかってくる。


 そのあと家族が病室に来た。息切れしながら泣いていた。とても喜んでいた。

 知らない男が来た。あの時トラックを運転していたらしい。泣いて謝ってきた。そしてとても喜んでいた。

 知らない家族が来た。あの時助けた少女と両親らしい。泣いてお礼を言ってきた。とても喜んでいた。

 僕は、驚くほどに、そのうちの誰にも心が動かなかった。何の感慨も、怒りも、安堵も湧いてこなかった。僕の意識だけが宙に浮いて、相槌を疎らに打つ僕の体をぼんやりと眺める。他人事の様に、返事を繰り返した。


***


 黒い。黒い靄が、意識の真ん中にねじ込まれる。集中して目を凝らしても、目をそらしても、ずっとそこにある。視界を占領して、こびりついて離れない。あれが何なのか、何を考えているのか、何一つとして分からない。ただ、僕をあざ笑っているのだけは分かった。

 黒い靄は、段々と輪郭をはっきりさせて、ヒトの形をとった。光沢はなく、画像を加工したみたいに、ただひたすらに黒い。吸い込まれそうな、深い、深い穴を覗き込んでる様な感覚。

 黒くて表情など見えないはずなのに、確かに僕を笑っている。

 あの時悪魔と名乗ったソレが、目の前に立っていた。

 悪魔の腕が、僕の頬を撫でる。絡みついてくる。近くにいるはずなのに、ずっと遠いところから見られている気もする。

「どんな気分?」

 悪魔は言った。悪意に満ちた声で。

 その声を聞くだけで心臓が跳ねる。鳥肌が立つ。全身にナメクジが這っているような不快感。

 どんな気分だと? 最悪に決まってる。ずっと信じてたものは僕の妄想の産物で、最悪が現実だったんだ。

 僕は悪魔を睨みつけた。悪魔は笑う。

 ぶん殴ってやりたかった。僕がなぜこんな目に遭わなきゃならないのか。なぜ苦しまなきゃいけないのか。クソったれな現実への、理不尽への怒りとかやるせなさとかを全部込めて、コイツをぶん殴れば、それで楽になれると思った。

 だけど、体が動かない。全身の皮膚が分厚くなって、僕の一切の行動を阻害してくる。距離感がうまくつかめない。近くにいるのに手が届かない。

 悪魔は笑っている。僕を、嘲笑っている!

 ゆるさない。ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。殺してやる。殺してやる! 死ね! 死ね!

 悪魔が、不意に笑うのをやめた。

「お前が死ねよ」

 そう言って、黒い手を、僕の顔にかざしてくる。それは手の形をとるのをやめて、触手のように絡みついてきた。僕の視界を塞ぐ。

 ガツンッ、と殴られたような強い衝撃がした。

 僕の視界は暗転した。

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