最終話 翠色の思い出

 二ノ宮家での滞在時間は1時間にも満たなかったが、思っていた以上に緊張していて疲れたらしく、帰ってきてから晩御飯と風呂、日課のストレッチを終えるといつの間にか微睡んでしまっていた。

 亮太の意識を再度覚醒させたのは自分の枕元にあるスマホの着信音。LINE特有のあの音だ。

 時計を見ると日が変わるちょっと前だ。本来なら無視して朝まで睡眠を楽しむところだが、スマホに表示された相手の名前を見て亮太の意識は完全覚醒。電話を取る。

 「もしもし」

 『ごめんね、こんな遅い時間に』

 電話を掛けてきたのは騒動の中心にいた二ノ宮翠。彼女の声は亮太と違ってまだ眠気を感じさせない。

 「んにゃ、大丈夫」

 『ほんとごめん。今さっきまで晩御飯も兼ねてお父さんと話してて……』

 「いいって。それよりも……どうだった?」

 別に普通の声量で話しても隣の部屋で恐らく眠っているであろう凶暴な姉には聞こえるわけでもないのだが、亮太は緊張感から思わずボリュームを下げる。

 『結論から言うと、転校はなしになったよ』

 「ほんとか!」

 ――ドン!

 思わず声をあげた瞬間、姉の部屋の方向から低い音が。どうやら起きていたらしい。

 『ちょッ、円谷君声大きいってば……』

 「あ、悪い……」

 それにしても自分でも驚くくらい大きな声が出た。

 『もしかして、円谷君心配してくれてた?』

 「う」

 亮太のその大きな声から何とも自分に都合の良い解釈をした翠が期待に満ちた声で尋ねてくる。その声はどこか揶揄うような色を帯びている。

 「……そりゃまあ……」

 翠の期待に応えるのは癪に障るが、正直に答えるとそれが意外だったのか翠も『あ、ああ……そうなんだ……』というこれまた微妙に困るリアクション。

 「……その、なんだごめんな」

 『……ごめんって何が?』

 「それは……」

 亮太はここ数日間の出来事を頭の中で振り返る。

 「俺、二ノ宮さんが困ってる時に二ノ宮さんの気持ちとか考えてなかった」

 『……』

 「最初二ノ宮さんが怒ったのを見た時、俺訳分からなくなってて酷いことも言った。でもあれは全部が本心じゃなくって」

 普段からこんな風に話すことに慣れていないこと、そして何より小っ恥ずかしさから紡ぐ言葉は辿々しくなってしまう。それなのに小っ恥ずかしい台詞が口から勝手に出てくる。

 「俺はその……色々とこき使われるのはアレだけど、結構そんな二ノ宮さんと過ごす日々が楽しかったんだ。だからもう少し一緒にいたい」

 『……』

 「……」

 そこまで言い切ると亮太は恥ずかしさのあまり黙り込んでしまう。

 気まずいわけでもなく、何となくフワフワした空気の中、沈黙が続くと、やがて翠は『ふふッ』と可愛らしく微笑む。

 『そっか、円谷君は私と一緒にいたい、かあ』

 「……!? は? そんなこと……」

 ――あれ、言ったかもしれない? というか言った! 100パー言ったわ!

 得意げな翠の声に条件反射で反対の声をあげようと思ったが、間違いなくそれは言っているので何も言えない。亮太がもう少し言い方なかったのかと自分の発言を後悔していると翠は余程ご機嫌なのかベッドだかで脚をパタパタさせている音が聞こえてくる。

 そして、その音が止むと、

 『私こそごめんね。ありがとう』

 どこか、いつもより優しい声色でそう言うと

 『知ってると思うけど、私凄くワガママで暴れん坊たし、子供だけど……これからも私と友達でいてくれる?』

 最後の方は不安を隠しきれていない消え入りそうな声だった。

 「ああ! もちろん!」

 そんなこと不安に思わなくても大丈夫。

 そういう思いが伝わればと亮太は即答で力強く返事をする。そして返事をした後に気が付く。

 「あれ……もしかしてもう彼氏役やんなくていいの?」

 『……そのなんというか。円谷君言ってたじゃない。正直に向き合うべきだって』

 「言ったな」

 『うん、それってお父さんだけじゃなくって他のクラスメイト達にも言えることかなって。だから私から皆に伝えるよ。流石に円谷君にこれ以上迷惑は掛けられないし。あ、安心してね。ちゃんと私が振られたことにするから』

 「あ、ああ……」

 『どうしたの?』

 翠の話す内容に反して亮太の返答は何とも煮え切らないものに。それに気が付いた翠は怪訝そうな声をあげると、『あれ? あれあれ?』とコナン君のようなリアクション。

 『もしかして、円谷君寂しいの?』

 「! ば……ッ、そんなんじゃないって!」

 即否定するが、その早すぎるリアクションが図星を指されたことを物語っており、翠は急にいつもの調子に戻る。

 『そっかー、円谷君文句言いながらも何だかんだ満更でもなかったんだー。へえ、ほお、ふぅーん……』

 「……」

 ……ウザい。ウザいが、ここは我慢だ。モテる男は常に余裕があるというじゃないか。これからは翠からも解き放たれ、自由に恋愛ができるようになる以上は紳士の振る舞いを身につけなければなるまい。

 『別に別れたからって、友達としての付き合いをしちゃいけないって決まりがあるわけじゃないんだし、これからも今まで通り話したり遊んだりしようよ』

 「そうだな。そういうことならこれからもよろしくな」

 『うん、よろしくね!』

 そんな弾む声を聞くと一気に居心地が悪くなる。亮太は返事をしながらも首を捻る。

 元々二ノ宮翠と自分は何の交流もなかった。それも当然で、向こうは才色兼備の人気者で自分はごく普通の一般生徒。言い方は悪いが月とスッポンだ。本来であれば交わることがなかった2人の交流は、その手が届かないと思っている者達の月への醜い感情によってもたらされた。それらが解消される目途がつけばボディーガード役の自分との交流は不要なのではないか。

 何回もはぐらかされているが、自分と翠には何か共通点でもあるのだろうか?

 そう思って亮太は思いきって再度疑問を投げかける。

 「なあ、前にも聞いたけど、何でボディーガード役に俺を選んだんだ? あ、いや別にこれはこれからも友達していくってのが嫌なわけじゃなくって、やっぱり疑問でさ」

 前に何度かぶつけた質問。その度に躱されてきたが、何となく今なら答えてくれる気がする。

 『そうだね。質問で返すようで悪いけど、何でそもそも円谷君は私に選ばれたのが不思議だと思っているの?』

 「前にも言ったと思うけど、二ノ宮さんなら頼み込めば俺なんかよりもっとマシな人選も――」

 『ダメだよ』

 「は?」

 回答を急に遮られた亮太が呆気に取られていると、翠は窘めるような口調で続ける。

 『そうやって自分を下げちゃダメだよ。他の人がどう思っているか知らないけど、円谷君のことを好きでいてくれる人だっているんだし。円谷君が『自分なんて……』って言うとその人達が悲しむよ』

 「お、おう……」

 急に真面目ことを言われてしまった。これに関しては無意識だったとはいえ、自分が悪いと思ったので亮太は素直に反省。

 『まあ、円谷君が自分をどう思っているかはこの際仕方ないけど、私が円谷君を選んだ理由も今の話の流れから分かるんじゃないかな』

 「えっと……」

 自分を下げる発言をすると自分を好きでいてくれる人が悲しむと言った翠。そして翠は自分を彼氏役として選んだという事実がある。……………………まさか!

 「ま、まさか……二ノ宮さん、俺のこ――」

 『それで質問に答えるけど、円谷君なら何だかんだで勘違いしないでいてくれるだろうし、手を出す勇気もないだろうと思ったからだよ。……ん? あれ? 今何か言った?』

 「…………いや、何でもないっす」

 ――あっぶねー! ……え!? 別に全然ガッカリしてませんけど何か!?

 紙一重の差で爆死を回避した亮太はしっかりと勘違いとガッカリしたと同時に密かに胸を撫でおろした。



 「うん、それじゃあ本当にありがとうね。おやすみー」

 ピッと通話終了ボタンを押すと二ノ宮翠は自室の無駄に大きなベッドに寝っ転がる。

 今日は今までの人生で一番感情を表に出したかもしれない。感情のコントロールは割と上手な方だと思っていたから自分で自分にビックリだ。

 でも得も言えぬ充実感に夜だというのに身体の芯が温かい。自分は本当に恵まれている。

 心からそう思ったが、それと同時に小さな後悔が湧いてくる。

 「……結局言えなかったな」

 独り言ちると自室の扉を規則正しく2回ノックする音が。

 「はい」

 『翠お嬢様、桜子です。よろしいですか?』

 「うん、どーぞ」

 「失礼します」

 ガチャリと扉を開く音と共に馴染み深い長身のショートカット美人が部屋に入ってくる。彼女も先程までの話し合いに同席していたのでまだ仕事着のパンツスーツ姿だ。

 桜子は見慣れた部屋の筈なのに、何故か尾行を警戒する犯罪者の如くキョロキョロ。

 「どうしたの? 何か探してるの?」

 「……いえ。円谷亮太の気配がしたので翠お嬢様に夜這いでも仕掛けにきたのではないかと」

 「……」

 一体彼女の何がその様な超感覚をもたらしているのか。一応つい1分前まで電話をしていたとはいえ、実際ここに居ない人物の気配を感じ取るとは恐るべし。

 「安心して。この部屋には私以外いないよ。……ところでどうしたのこんな夜中に」

 翠が問うと桜子は軽く咳払いをする。

 「翠お嬢様は円谷亮太にあのことは話していないのですか?」

 「うッ……」

 丁度今さっき後悔した内容を突かれて翠は言葉を詰まらせる。

 翠のその反応で大体分かったのか、桜子は軽く息を吐く。

 「翠お嬢様、余計なお世話を承知でお伝えしますが、言いたいことはなるべく早く伝えておかないと後悔することもありますよ」

 「〜ッ、分かってるんだけどさあ……」

 分かってる。分かっているけど、ずっとあの男にはどちらかと言うと強気の態度で接していたのだ。そんな状況の中で今更本当のことを伝えるというのはなかなか勇気がいる。……いや、というよりは恥ずかしい。

 「そ、そのうち伝えるよ。ウン」

 困り果てた翠は絶対にそのうち伝えなさそうな決意をもって弱々しく宣言。

 そんな翠の姿を妹を見守る姉の様な目線で見た桜子は優しく微笑むと、

 「分かりました。それではこの話はお終いです。……それよりお嬢様はまだお風呂がまだでは? 何という偶然! わたくしもまだこれからでございます。どうですか? ここはひとつ久しぶりに一緒に入るというのは! ……うひひッ」

 「……とりあえず、その鼻血を止めたらね」

 台詞とは裏腹に翠は着替え等をさっさと用意して浴室へ向かおうとする。

 全くこの家政婦は。良い話をしたかと思えばこれだ。

 「ああッ、お嬢様! 待って! あ、これからお嬢様が一糸纏わぬ姿になると思ったら……ふひッ」

 鼻血を止めるどころか寧ろ自ら加速させにいく桜子を尻目に翠は自室を出て行く。



 カポーン。

 そんな穏やかな音が聞こえる様なそんな広い浴場にて頭と身体を洗い終えた翠は1人湯に浸かる。

 やはり自分は相当疲れていたようだ。全身を包むお湯が気持ち良い。自分以外誰もいないので思いっきり身体を伸ばして顔だけ出す様な体勢となって高い天井を見上げる。そしてゆっくりと目を閉じる。すると過去のある出来事が自然に流れてくる。それはさっきまで何回も思い起こし、円谷亮太に伝えようと思って伝えられなかった出来事だ。



 二ノ宮翠は恵まれた容姿を持っていることもあってそれを妬んだ者や、振られたことで逆恨みした者に陰湿なイジメを受けていた。イジメが始まったのは小学6年生の辺りだったか。

 幸い家政婦さん含めて家族は皆優しいし、多くはなかったが友達もいた。元々気が強い性格でもあったとはいえ、流石に堪えることもあった。

 学校に行きたくない。どうして自分がこんな目に遭わなければいけないんだ。もう学校なんて行かずに家からも離れて遠くに行ってしまおうか。そんな風に考えていた。

 そんな考えが頭をもたげる中で放課後気が付いたら、帰宅ルートから外れて大きな運動公園のベンチに座り込んでいた。ランドセルを脇に置いて、ぼんやりと景色を眺めていた。

 そこには色々な人達がいた。まだ小さな子供を連れた親。仲睦まじい老夫婦。そして自分とそんなに変わらなさそうな小学生達。

 そんな景色を眺めているとまるで自分が異世界に迷い込んだ様な気分になる。

 何故この人達はこんなに幸せそうなのに、自分はこんなにもつまらないんだろう。

 自分がひどく惨めに思えてきて、視界がじわりと歪み始めたその時だった。

 『ねえ、キミ!』

 物怖じしない子供特有の高い声。顔を上げるとそこにいたのは自分とそんなに変わらないくらいの男の子が立っていた。背は低く身体も細いが、パーカーに短パン、そして日焼けした肌と膝と何故か鼻っ面に貼ってある絆創膏が粗忽――もとい活発なイメージを与えた。

 『……私?』

 記憶力には自信があるが、初めて見る子だったので問い掛けると彼は大きく頷いた。

 『うん、キミ以外ここにいないじゃん』

 暗にバカじゃないの? と言われている様な気がして翠の中でこの男の子の第一印象はマイナス方向へと振れた。

 『……私になんか用?』

 我ながら可愛げのない棘のある声だ。だが、目の前の男の子は特に気にした様子もなく、ニコニコとした表情を崩さなかった。

 『そうそう! キミに頼みたいことがあったんだった! 忘れてた! ……へへッ』

 『ええ……』

 鼻をかきながら用件を一瞬で忘れる間抜けな彼に翠は呆れを隠さない。

 『りょーたー、まだー?』

 少し離れた所から焦ったそうにこちらに声を掛けてくる集団の姿が目に入った。そこにいるのはここにいるりょーたと呼ばれた男の子より更に小さな男の子と女の子達。翠には未だ状況がよく飲み込めない。

 『ごめん、ちょっと待って! すぐ行くから! ……ってなわけで力を貸してくれ』

 『……いやいや、意味分かんないし』

 何が「ってなわけで」なのか。コイツ日本語大丈夫か? 翠は出会ったことのないタイプの未知の生物に頭が痛くなってきた。

 『……いちからか? いちからせつめいしないとわからないか?』

 『……帰る』

 『うわーッ! ごめん、ほんとごめん! 調子乗りました! どうかこの通り!』

 恐ろしい変わり身の早さである。踵を返した翠へ回り込む形で彼はジャンピング土下座。

 『でた、りょーたの土下座……』『ぷらいどないのかな……』『何回も見てるから安っぽいね……』

 そのりょーたの姿を目にしてヒソヒソと言うにはあまりに大きな声で話し合う少年少女。当然その声は当の本人にも聞こえていたようだ。

 『うるへーッ! クソガキども! 誰の為にやってると思ってんだこのヤロー!』

 『わあッ、りょーたが怒った!』

 目と歯を剥くりょーたに少年少女達はきゃッきゃッとはしゃぐ。……形はどうあれ慕われてはいるみたいだ。

 それにどうやらこのりょーたの行動はこの子達の為でもあるらしい。

 『……説明してもらえる?』

 『……ああ。えっとね、まずあそこ見てみて』

 りょーたが指差した先には中学生ぐらいの少年達がサッカーに興じている。

 『あそこは元々コイツらがサッカーして遊んでた場所なんだ。でも後からきたアイツらが強引に場所取っちゃったんだよ』

 『そうだよー、僕達ちゃんと時間で譲ってるのにあのふりょー達はずーっと使ってるんだよ!』

 『こんな可愛い僕達に向かってイキるなんてアイツらどーせ暇なんだよ』

 『友達とかいなそうだよね』

 『そ、そうなんだ……』

 散々な言いようだが、どうやらあの中学生達が公園のルールを破ってるのは事実らしい。

 『それで? 私に何を手伝えってのさ』

 『俺達と一緒にアイツらと試合してほしいんだ』

 『はあ? 私が?』

 思いもよらない提案に翠は素っ頓狂な声をあげる。そして、同時に思い出す。自分と遊んでいた同級生がいじめっ子達によって痛めつけられたことを。

 『無理だよ……』

 翠がそう言うと全く事情が分かっていないりょーたは『おいおい、諦めたらそこで試合終了だぜ?』とまさしく全く見当はずれな発言。

 『違う。私と遊んでも楽しくないし、私と遊んだ人は皆イジメられるんだ』

 『??』

 それを聞かされたりょーたは首を傾げる。

 そんな間抜けな仕草が妙に癇に障った。翠は自分の中でプチンと何かが切れたのを感じた。

 『だから、私はアンタらみたいなのと遊ぶわけにはいかないのッ! ほっといてよ!』

 ぶんッと振り払った手が彼の手に触れると、

 『ほげえええええッ!』

 りょーたは数メートル吹っ飛んだ。

 『あ……』

 やってしまった。怒りや苛立ちからイジメとは関係ない男の子に暴力を振るってしまったことへの後悔や自己嫌悪に陥る。

 ――どうしよう。

 そう心配したもののりょーたはふらりと立ち上がる。その目は爛々と輝いている。

 『……ふ、ふふ、ふっふ、フハハッ! ……そ、そのパワー! それだよ! このパワーならアイツらにも負けない! 頼むよ、キミ! アイツらに一泡吹かせたいんだよ! ほら一期一会って言うじゃん!』

 『……』

 その瞳のあまりの真っ直ぐさに翠は居心地が悪くなる。その居心地の悪さもあってか、翠は自分の心を締め付ける何かが緩くなるのを感じた。

 『私と遊んでも楽しくないよ』

 思わず漏れた言葉がそれだった。

 『学校の人は皆そう言うんだ』

 『え……』

 恐らくここまで言えばこのりょーたという少年が如何に鈍感で粗忽で阿呆でも自分がイジメに遭っていることに気が付くだろう。そうすれば今までと同じだ。勝手に去っていくに違いない。

 『それって……その学校の人の感想ですよね?』

 『……え』

 ――というか、何でいきなり敬語?

 翠の疑問は置き去りにりょーたは幼い子にするような優しい眼差しを向けてくる。

 『もしかして国語苦手?』

 『……』

 何故だろう。出会って間もないが、コイツにだけは成績のことを馬鹿にされてはいけないと自分の中にあるプライドが声をあげている。

 『いい? 俺はキミと遊びたいから声を掛けてるんだから、そこにキミの学校の人は関係ない? ウンダ―スタンド?』

 『……!』

 英単語をアンダースタンドできていないりょーたの言葉であるが、その内容自体は翠の胸に届いた。

 『りょーたが他校の女の子口説いているー』『この前同じクラスの子に『円谷君は良い人だと思うけど(笑)』って振られてたもんねー』『飢えてんだよきっと』

 『うるせーッ! このマセガキども! というか、何で俺が振られたの知ってんだ!?』

 見事に年下に弄ばれたりょーたは再び目と歯を剥く。

 『りょーたがキレたあ!』

 翠そっちのけできゃッきゃッと盛り上がっているそのシーンを見てはきっとこのりょーたという男の子は友達が多いに違いない。彼らの学年の差がどのくらいのものなのかは分からないが、低学年の男女の為にからかわれながらも体格も経験も上回る中学生達に立ち向かおうとしているのだ。妙な説得力があった。

 いつの間にか狭くなっていた視野の中で生活していた翠にとってその姿は何とも眩しく映った。この少年の妙な明るさ、これにもう少し触れてみたいと思ったことは間違いない。

 『……分かった』

 『……え』

 『一緒に戦うって言ってんの』

 『マジで!? さんきゅー!』

 飛び上がらんばかりに喜ぶ彼に翠は思わず微笑みを漏らす。

 『ただ、スカートだからあまり期待しないでよね』

 翠は学校指定の制服のスカートを指差すと彼はそれを見て神妙な顔に。

 『……いや、逆に期待できるかも――いや待ってごめん冗談だから帰らないで』

 まったくこの男は。だが陰湿なことばかりされてきたからこうもストレートだと笑えてくる。いや最低なことには変わりはないけど。

 『そういえば、キミ、名前は? なんて呼べばいい?』

 翠を引き留めることに成功したりょーたはホッとした表情で問い掛けてくる。

 『翠でいいよ。キミのことはりょーたでいいよね?』

 この男のストレートさに釣られる形なのはちょっと気に入らないが、本来の自分の強気な性格や話し方になっていることに気が付く。

 『おうともよ。頼むぜ翠』

 『うん、弱い者いじめをする不届き者はこらしめてやろうよりょーた』

 2人は不敵な笑みと共に中学生達の元へ向かっていった。


 

 お風呂からあがり髪を乾かしたり、スキンケア、ストレッチを済ませると翠は自室のベッドで寝っ転がる。

 偶然とは恐ろしいものだ。

 あのりょーたとの邂逅以来どこか吹っ切れた翠は自身へのイジメに毅然と立ち向かっていった。彼とはそれっきりだったがああいう風になりたい、そう思うと自然と力が湧いてきた。……まあそれでイジメがエスカレートすると共にこちらの報復もエスカレートして、転校する羽目になったが。

 しかし結果的にそれが良かった。転校先のいわゆる普通の県立高校であるヨモギ高校は金持ちだからって物珍しそうに見る生徒はいれどイジメとはかけ離れた生活になった。まあ猫被ったりしていたし、そのせいで清楚なお嬢様などと不可解な肩書きを与えられた上にやたら男子に告白されるという面倒なことは多かったけどイジメに比べれば大したことない。

 何より驚いたのが転校先に彼がいたことだ。転校初日、職員室にいると何やら説教を受けている人物がいた。どうやら昼休みにサッカーをやっていたら窓ガラスを砕いてしまったらしく、彼以外の人間によって生贄にされたらしい。担任には「円谷亮太という生徒だが問題ばかり起こしているから注意するように」とだけ説明された。当の本人は「いやー、すみませんね。えへへッ」と締まりのない笑顔だ。間違いない、彼があの時の人物だ。

 だが自分自身から行くことは過去の恋愛絡みのイジメから憚れた。彼の方から思い出してくれるかと期待はしていたが、過去の印象通り彼は記憶力が悪いようでわざどさりげな〜く廊下ですれ違ってみても彼はぽけーッとした表情だった。こんな美少女を忘れるなんて記憶を奪う魔術でも使われたか彼が余程アホなのか。……きっと恐らく後者だろうと考えた。解せぬ。

 そんなこんなで数ヶ月過ごしたところで自分への嫌がらせがあったことを口実に彼を呼び出した。それで何とか繋がりを作ることができたものの、彼は一向に思い出しそうにない。彼と接しているうちに気が付いたが、何だかんだ自分の茶番に付き合ってくれたり、花梨を巡っての暴力沙汰にしてもそうだったが基本的にお人好しなのだ。だから自分にとっては大きな出来事だったアレも彼にとっては日常の一部で取るに足らないものだったのかもしれない。そう思うとちょっぴり胸が痛んだ。

 「りょーた……」

 自然と思い出の中の呼び方で元偽彼氏を呼ぶ。

 ……いやいや待て待てこれではまるで恋する乙女の様ではないか。自分が彼に抱いている感情は決してそんなものではない。断じて。もっとこう、そういうアレなどではなく、綺麗な感じのアレだ。ウン。

 誰に向けてなのかよく分からない言い訳を頭の中で繰り返すうちに改めて段々と自分のことを思い出さない彼に腹が立ってきた。

 絶対思い出させてやる。翠はそう決意をするとなんとなく浮き足立った気持ちで床に就く。

 明日以降楽しみだ。

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翠色の青春 うりぼー @a_12wata

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