第4話 朴念仁と悪鬼
「閣下って、つまらない男だと思っていたのよ」
私の髪を結いながらいきなり上司をこき下ろしたのは、狼の頭をした侍女だった。名を、ルイーズという。
これに対し、私が纏った淡い青紫色のドレスの裾を整えながら、羊の頭をした侍女も相槌を打つ。こちらは、レイチェルというらしい。
「美形ですし、仕事はできる方ですけれど……なにぶん、朴念仁ですものねぇ」
ローエンの采配により、魔王様の奥方が遺した衣装部屋を管理している侍女達は、どちらもカシュカの名家の出身だった。
上流階級の娘が行儀見習いや縁結びを目的に侍女として城に上がるのは、人間の国でも魔物の国でも同じらしい。
ルイーズとレイチェルは同等の家柄で、幼い頃からの付き合いだという。
元来は捕食者と被捕食者の間柄である狼と羊が和気藹々としているのを感慨深く眺めながら、私も口を挟んだ。
「思っていた、と過去形だということは……今はもう、ローエンをつまらないとは思っていない、ということでしょうか?」
「ええ。だって、さっきアメリアさんと話している時の閣下、素敵だったもの」
「夫として、絶対にアメリアさんを幸せにしようという気概が感じられましたわねぇ」
ルイーズとレイチェルが微笑みを交わす。
母に愛されなかった境遇を打ち明ける場面に居合わせた二人は、早々に私を受け入れてくれた。
カシュカの流行や傾向に明るくないため、彼女達の存在は頼もしい。
そうして選び抜かれたのは、上半身から膝までを体に添わせ、裾は魚の尾びれのように広がったドレスだった。
体の線がくっきりと出るためはしたない、と乳母が断固として着させなかった類だが、私は一目で気に入ってしまったのだ。
私の背丈に合うよう、レイチェルがあっという間に調整をしてくれた。
髪は、ルイーズの手によってゆるく編んで背中に流され、所々に生花が飾られている。ドレスと同じく、ローエンの瞳を彷彿とさせる薄い青紫色をしたリンドウの花だった。
今は窓の桟に顎を乗せてのんびりと寛いでいるシーシャが、ドレスを破ってしまったお詫びのつもりか摘んできてくれたのだ。
一方、その主であるローエンは多忙な身らしく、私が支度を整えている合間に仕事を片付けに行った。
「ローエンは魔王様の腹心だと伺っておりますが、魔王様のお仕事の補佐をなさっていると考えればよろしいのでしょうか?」
ふとした私の問いに、ルイーズとレイチェルは顔を見合わせる。
彼女達はふるふると首を横に振った。
「補佐どころか、魔王様のお仕事はもうほぼ全て閣下がなさっているわね」
「ほぼ全て、ですか……?」
「ええ。つまり、閣下は〝ほぼ魔王様〟です」
「〝ほぼ魔王様〟? それほど、ですか……」
私の父にも信頼する側近はいるが、彼がいかに優秀であろうとも国王の仕事を丸投げするなど考えられない。
面食らう私に、ルイーズとレイチェルはさらに思いも寄らない話を続けた。
「魔王様には一人息子がいらっしゃるけれど、閣下が城に仕え始めて少ししてから出て行ってそれっきり。お母様が亡くなられた時でさえ戻らなかったわ」
「ですから、魔王様は御子息ではなく閣下を後継になさろうと考えていらっしゃるのでは、と言う者もおりますわねぇ」
「ローエンが、魔王様の後継に……?」
魔王の座は必ずしも世襲ではない上に、就くための条件が明確に設定されているという。
現魔王の他、七公と呼ばれるカシュカの重鎮全員の承認を得る必要があった。
ちなみに、ルイーズの父親とレイチェルの母親も、その七公に名を連ねているらしい。
当然のことながら、七公はすべて生粋の魔族である。
「まあ、閣下ご自身は、魔王になるつもりなんてさらさらなさそうだけど」
「あの方、出自を異様に気にしていらっしゃいますものねぇ。勿体無いことですわ」
「そうですね……それに、ローエンが魔王様の後を継ぐとなると、私との結婚は不利に働くかもしれません」
ため息混じりに呟く私に、どうして? とルイーズとレイチェルが首を傾げる。
「だって、私は人間ですもの。魔王となる方の伴侶は、やはり魔族がふさわしいかと……」
「そんなこと、気にしなくていいと思うけれど」
「そうですわよ。現に、今の魔王様だって……」
その時だった。
バン! と大きな音が響いて、私は驚きのあまり飛び上がりそうになる。
ノックもないまま、勢いよく扉が開いたのだ。
窓枠に顎を乗せてうとうとしていたシーシャも、ぱっと顔を上げる。
私が呆気に取られる中、カツカツと踵を鳴らして女性が一人、衣装部屋に入ってきた。
ルイーズやレイチェルと同じお仕着せ姿のところを見ると、魔王城に仕える侍女だろう。
それにしては、パンプスだけが他の二人に比べて異様に踵が高く尖っていて、少々不釣り合いに見えた。
一見すると、ローエンのように人間と似通った容貌をしているが、榛色の髪からは黒い角が二本飛び出している。
彼女は青い目でこちらを──とりわけ私を鋭く睨みつけた。
すかさず、ルイーズとレイチェルが背中に隠してくれる。
「まあ、驚いた。どこの無作法者かと思ったら、メリッサじゃないの。いったい何の用かしら?」
「ノックもせずに扉を開けるなんて、はしたないわ。ここはもう、あなたの持ち場ではないでしょう?」
「お黙り──この、魔物ども」
とたん、衣装部屋の空気が凍る。
カシュカに来たばかりの私でもわかった。
メリッサと呼ばれた侍女が、暴言を吐いたということが。
ルイーズやレイチェルは動物の頭をしているが、由緒正しき魔族の令嬢である。
魔族を魔物と称することは、人間を畜生呼ばわりすることに相当し、つまりは大変な無礼に当たるのだが……
「こんな毛むくじゃらどもを衣装部屋に配置したことが、そもそもの間違いなのよ。せっかくの衣装が毛で台無しになってしまうわ」
暴言はなおも続いた。
しかし、ルイーズとレイチェルの方は落ち着いたものだ。
呆れた顔をするだけでメリッサを相手にもしない彼女達に、私は声を潜めて尋ねた。
「あの方は、どうしてあれほど荒ぶっていらっしゃるのでしょうか?」
「彼女ね、最初は私達と一緒にこの部屋の管理を任されていたの。でも、許可もなくドレスを着用したり持ち出したりして閣下から大目玉を食って、すぐに担当を外されたのよ」
「一緒になって調子に乗っていた取り巻き達は、侍女を辞めて家に逃げ帰りましたわ。メリッサは父親が七公だったこともあり城に留まりましたけれど、それ以来大きな顔はできなくなってしまいましたわねぇ」
やれやれと、ルイーズとレイチェルがこれ見よがしに肩を竦める。
その肩越しに、私はメリッサと目が合った。
「そこの人間! この私を差し置いて、どうしてお前のようなものがこの部屋のドレスを着ているのよ! 不愉快だわっ!!」
曲がりなりにも王女として生きてきたため、怒鳴りつけられるのは初めての経験だ。
メリッサの金切り声にシーシャも驚いたのか、窓枠にぶつけつつ頭を引っ込める。
ギャウッ! と私の乳母の無礼を咎めた時と同じような声が、窓の外に大きく響いた。
私はルイーズとレイチェルの背に守られつつ、メリッサに応える。
「ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。おっしゃるとおり、私には恐れ多いことですが、ローエンの許しはいただいておりますので、どうかご容赦ください」
相手は、カシュカの重鎮の令嬢だ。
対応を間違えてしまえば、後々ローエンに迷惑をかけかねない。
私はメリッサを刺激しないよう、慎重を期したつもりだったが……
「──は? 〝ローエン〟? 呼び捨てですって? まだお披露目も済んでいないというのに、お前はもうあの男の女房気取りなのっ!?」
残念ながら、余計に反感を買ってしまったらしい。
「図々しい人間めっ! そのドレス、剥ぎ取ってやるわっ!!」
「ちょっと、メリッサ。あなた、いい加減になさいよ」
「鏡でご自分の顔を見てごらんなさい。まるで悪鬼のようよ?」
私に掴み掛かろうとするメリッサを、ルイーズとレイチェルが二人がかりで制止する。
彼女は私の存在そのものが気に入らないようなので、何を言っても火に油を注ぐことになるだろう。
そう思って口を噤んでいたのだが、それが余裕ぶっているように見えてしまったのかもしれない。
「透かした顔をしてるんじゃないわよ!」
両目を血走らせたメリッサが、突然片方のパンプスを脱いで振りかぶった。
あっ、とルイーズとレイチェルがここで初めて焦った声を上げる。
「お前など、認めない! 絶対に認めないわっ!!」
メリッサの喚き声が響く中、パンプスはルイーズとレイチェルの間を擦り抜け、一直線に私に向かってくる。
その異様に高く尖った踵が、まるでレイピアのように見えた。
私はとっさに両腕を体の前に翳す。
我が身はどうあれ、ドレスだけは──魔王様の奥方の厚意と、それを尊ぶローエンの気持ちを、少しでも傷付けるわけにはいかないと思ったのだ。
靴をぶつけられたくらいで死にはしないだろう──そう自分を宥めつつ、ぎゅっときつく両目を瞑った。
ところが、覚悟したような衝撃はやってこない。
代わりに目の前が陰ったような気がして、私がおそるおそる瞼を上げたのと……
「アメリアを──俺の妻を認めないだと? 貴様、何様のつもりだ」
地を這うような声が聞こえたのは、同時だった。
「……ローエン?」
いつの間にか戻ってきたローエンが、私の前に立っていたのだ。
ルイーズやレイチェルよりもずっと長身で広い背中に阻まれ、その向こうの状況は見えなくなってしまう。
けれども、はっきりと分かることはあった。
ローエンが、とても怒っているということだ。
「シーシャに呼ばれて戻ってみれば……アメリアをカシュカに迎えることは、魔王様が受諾なさったんだ。貴様に、口を挟む権利があるとでも思っているのか」
朴念仁、とレイチェルも言い切った通り、ローエンは決して愛想がいいひとではない。
とはいえ、言動は誠実そのものであり、理性的かつ寛大な印象が強かった。
そんな彼が今、怒りに満ちた声で告げる。
「しかも、あろうことか靴を投げつけるとはな。アメリアに傷一つ付けてみろ。二度と朝日を拝めぬようにしてやる」
彼がこの時どんな表情をしていたのか、背中しか見えない私にはわからなかった。
だが、想像はつく。
侍女達が息を呑む音が聞こえたためだ。
そんな中、バキッと何かが壊れるような音が上がり、私は背後からおそるおそるローエンの手元を覗き込む。
そこで目にしたのは、先ほどこちら目掛けて投げつけられたパンプスの片方の、踵をへし折られた無惨な姿だった。
ローエンはそれをメリッサに投げて返すと、温度のない声で続ける。
「支給された靴はどうした。規律を守るのがそんなに嫌なら、さっさと城を去ればいい」
「わ、私を追い出そうというの? お前こそ、何様のつもりよ! 私は、七公のむす……」
「だからどうした。俺からすれば、七公である父親の顔にこれ以上泥を塗る前に、さっさと身を引くべきだと思うがな」
「……っ、な、何よ……」
ローエンの正論に、メリッサはたじたじとなる。
さすがに分が悪いと思ったのだろう。
彼女は踵の折れたパンプスを床に投げつけるようにして置くと、足を突っ込んだ。
そうして、肩を怒らせて衣装部屋を出て行こうとするのを──私はとっさに呼び止める。
「どうかお待ちください。そのままでは危のうございます」
「……は?」
メリッサが鼻面に皺を寄せて振り返った。
ローエンも、ルイーズやレイチェルも、目を丸くして私を見る。
シーシャにまで、窓越しに凝視されてしまった。
とにかく注目を浴びる中、私はいそいそと靴を脱ぎながら続ける。
「踵の高さが違えば、歩くのは困難でございましょう。無理をして、足を痛めてもいけません。よろしければ、私のものをお使いください」
「なっ……」
ドレスは破れてしまったので魔王様の奥方の遺品を拝借したが、靴はフェレンツ王国から履いてきたもののままだった。
真っ白い靴であるため、新たなドレスとも釣り合ったからだ。
あいにく、侍女のお仕着せとは合わないかもしれないが、今の私が自由にできるものはこれしかない。
そう思って、差し出したのだが……
「──結構よ!」
メリッサは顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、もう片方のパンプスの踵を自分でへし折ってしまった。
そうして、踵が低くなったパンプスを履き直すと、キッとこちらを睨む。
「覚えてないさいよっ!」
そんな捨て台詞を吐いて、メリッサは今度こそ衣装部屋から出ていった。
折れた踵では安定が悪いのか、少々ガニ股になっていたが、それを笑えるような空気ではない。
しん、と衣装部屋が静まり返った。
「……差し出がましいことを申し上げましたかしら」
メリッサの気分を害したいわけではなかったのだが、なかなかうまくいかないものだ。私はしょんぼりと肩を落とす。
そんな中、ぷっ、と小さく吹き出す声が聞こえた。
「……ローエン?」
「……っ、ふふっ……」
ローエンが、笑いを堪えようとして失敗している。
彼が笑ったところを見るのは初めてで、私は目を丸くした。
「あの、何かおもしろいことがございましたか?」
「いや……うん、そうだな。おもしろかった。アメリアが」
「私が? おもしろいことをしたつもりは、ないのですけれど……」
「ああ、そうだろうとも。打算なくあんなことをされては、あの女も引き下がらざるを得まいな。アメリアは、ひとまず靴を履こう」
ルイーズとレイチェルも、何やらくすくすと笑っている。
私は言われた通りに靴を履き直しつつも、腑に落ちないものを感じていたが……
「そのドレス……よく似合っている」
ローエンが目を細めてそう言ってくれたとたん、どうでもよくなってしまった。
私が、生まれて初めて自分の意思で選んだ、これから夫となるひとの瞳の色をしたドレスだ。
それをローエン本人に褒めてもらえたことが、ただ純粋に嬉しかった。
「俺もスカーフを同じ色に揃えようか」
「まあ、それはようございますね」
自然と微笑み合う私達を、ルイーズとレイチェルが眺めている。
彼女達が、こう言い交わすのが聞こえた。
「閣下って、つまらない男だと思っていたのに」
「アメリアさんのおかげで、朴念仁の汚名は返上かしらねぇ」
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