第2話 夫のつむじ



 大きな翼を力強くはためかせた飛竜が、山肌に沿うようにしてぐんぐんと上昇していく。

 私の鼓動もまた、どんどんと高まっていった。

 心臓が、今にもこの胸をぶち破って飛び出そうとしているかのようで、たまらず両手で胸を押さえる。

 それに気づいたらしいローエンが、後ろから声をかけてきた。


「アメリア、大丈夫か? もしや、高いところが苦手で……」

「──ローエン」


 私は不躾にも言葉を遮って、ぱっと彼を振り仰ぐ。

 危うく互いの顔がぶつかりそうになったが、すんでのところでローエンが退いたためにことなきを得た。

 対する私は、逆に詰め寄るようにして捲し立てる。


「ローエン、たいへんです。たいへんなのです」

「ああ、いかがした?」

「私──空を飛んでいます」

「……うん?」


 人間は、いまだ空を飛ぶ術を持たない。

 竜の背に乗った者だって、大陸広しといえどもそうそうおるまい。

 私の上擦った声が聞こえたのか、シーシャがちらりと振り返った。

 その顔が得意げに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

 ただしローエンは、虚を衝かれたような顔をしていた。


「この山も、馬で登れば一日掛かりの行程になると聞いていました。それなのに、私達はもう頂上まで──」


 私は興奮もあらわに続ようとし──次の瞬間、言葉を失った。

 あっと言う間に辿り着いた峠の先に広がる光景に、圧倒されてしまったからだ。

 そこにあったのは、周りを山脈によって囲まれた、とてつもなく巨大な穴だった。

 

「この先に……カシュカが……」


 魔物の国カシュカの実態は、異なる世界に存在する超巨大国家である。

 その領土は、フェレンツ王国がある大陸全土どころか、海を含めてもまだ及ばない広さだという。

 カシュカが唯一人間の世界と接しているのが、このフェレンツ王国とアキツ皇国の間に空いた穴だ。

 かつてここには天を貫くほど巨大な火山が聳え、それが噴火してできたカルデラが元になっていると聞いたことがあった。

 濃厚な闇で塗りつぶされた巨大な穴を前に、私は本能的な恐れを覚えてたじろぐ。

 とっさに身を反らしたため、ドンと勢いよく背中をぶつけてしまったが、ローエンはびくともしなかった。

 彼がわずかに手綱を引くのを合図に、シーシャは山頂の岩に着地する。

 そこから見下ろす光景に私が改めて圧倒されていると、右手だけ手綱から離したローエンはすっとある場所を指し示した。


「穴はもとより、これに面した山脈も全てカシュカの領地だが……魔王様は今回、アメリアがカシュカに嫁ぐ見返りとして、フェレンツ王国に穴の沿道を通行する許可を差し上げた」


 それは、土は剥き出しで石が転がり、とてもじゃないが整備が行き届いているとは言い難い道だ。

 しかしこれが、フェレンツ王国と東のアキツ皇国を繋ぐ最短経路であるとともに、最も安全な陸路となる。

 絶対神を崇めるベレイツ神聖国と、魔王を頂点とする魔物の国カシュカは、それこそ天地がひっくり返ろうとも相容れない。

 そして、目下飛ぶ鳥を落とす勢いで領土を広げているベレイツ神聖国でさえ、人智を超えた存在である魔王と事を構えるつもりはないだろう。


「フェレンツ国王は……あなたの父御は、賢明な方だ。カシュカに対し、あの道の通行許可以上の要求をなさらなかったのだからな」

「本心では、ベレイツ神聖国を牽制するために、魔王様に後ろ盾となっていただきたかったようですけれど」

「実際にそれを条件として提示されていれば、今回の同盟が締結することはなかった。そして、カシュカはフェレンツ王国との一切の交流を断絶しただろう。魔王様は人間の揉め事に干渉するおつもりはないからな」

「そうなっていれば……私が空を飛べることは、一生なかったかもしれませんね」


 何より、私とローエンが結婚することにもならなかっただろう。

 私は小さく息を吐いた。


「ローエン、ごめんなさい……」

「……なぜ、あなたが謝る?」

「フェレンツが同盟を持ちかけたせいで、あなたに望まぬ結婚を強いてしまいました」

「そんなことは……」

「それに、先ほど私の乳母が無礼を申し上げましたこと、心よりお詫びいたします」

「いや……フェレンツ王国の方々にも告げた通り、一国の姫君を伴侶にいただくに、俺が分不相応なのは事実だ。それこそ、気に病まないでもらいたい」


 するとここで、シーシャが焦れたみたいに足踏みを始めた。

 足場の不安定な場所に長くとどまるのは得策ではないと踏んだのか、ローエンは私との話を切り上げて手綱を両手で握り直す。

 それを合図にシーシャが岩を蹴って飛び立ち、穴に向かって一気に降下を始めた。


「……っ!」


 穴に飛び込む瞬間、私はぎゅっときつく両目を閉じた。

 身体は強張り、心臓が早鐘を打つように騒がしい。

 ビュンビュンと風を切る音がうるさくて、耳を塞ぎたくなった。

 そんな中でもローエンの呟きが聞こえたのは、ひとえに彼の胸と私の背中がくっついていたからだろう。

 

「謝らないといけないのは……俺の方だ」


 その言葉の真意を、私はまだ知る由もない。

 ただ、ローエンから実際に謝罪を受ける機会は──意外にも、すぐに訪れることになる。





 *******





「──たいへん、申し訳ないことをした」


 これから夫となる男のつむじを、私は感慨深い思いで眺めていた。



 ローエンの艶やかな黒髪とは違い、カシュカへと通じる穴は一切の光を拒絶したような真っ暗闇だった。

 ところが、その穴を抜けた先に広がっていたのは、一面の花畑だ。

 ローエンの瞳とよく似た色をしたリンドウの群生が、まるで巨大な絨毯のようにずっと遠くまで続いていたのである。

 花々の間を、黒い翅をした蝶達がふわふわと優雅に飛び交う。

 その最中に着地したシーシャの背中から、ローエンは私を抱えて降り立った。

 思わぬことが起こったのは、この後だ。


「あら、蝶が……」


 私が祖国で着せられたドレスは、あちこちに本物の真っ白いバラがあしらわれていた。

 足下のリンドウとは違うその香りに誘われたのだろうか。

 一匹の蝶が、ふいに私のドレスの腰のあたりに止まる。

 白いドレスに黒いリボンを飾ったような光景に、一際興味を引かれたのはシーシャだった。

 蝶に向かい、反射的に前足を伸ばしてしまったようだ。


「──っ、シーシャ! やめ……」


 ローエンが慌てて制止しようとしたが、時すでに遅し。

 私のドレスはシーシャの鋭い爪の先に引っかかって、腰の部分からぱっくり裂けてしまったのである。


「取り返しのつかないことをしてしまった……」


 苦痛を滲ませたローエンの声で回想から戻ってきた私は、目の前のつむじをまじまじと眺めた。左巻きらしい。

 ドレスが破れた後、私はローエンの上着に包まれ、花畑の先にあった大きな城へと担ぎ込まれた。

 フェレンツ王国の城の数倍はあろうかという巨大な白亜の城──魔王の右腕を務めるローエンの職場であり、また住居でもあるという、魔王城である。

 ここで留意すべきは、人間が動物の一種でありながら自分達を特別視するように、魔物の間でも言語や文化を持つものを魔族、それ以外の動物的なものを魔物と呼んで区別しているということだ。

 ローエンとシーシャを例に挙げれば、前者は魔族であり、後者は魔物ということになる。

 城内には大勢の魔物が──いや、魔族がいた。

 人間に近い見た目ながら角や尻尾が生えている者もいれば、動物の頭をした者もいる。

 人間である私を抱えて飛び込んできたローエンに、彼らは一様に目を丸くしていた。

 そんな周囲の視線を集めつつ彼が直行したのは、王宮の一階奥にあった広い衣装部屋だ。

 その真ん中のソファに降ろされた私は、色とりどりの衣装が所狭しと並んだ圧巻の光景に言葉を失う。

 フェレンツ王国も比較的裕福な国で、末王女の私にもたくさんの衣装が用意されたが、何しろ魔王城は歴史も規模も桁違いだった。


「全ては、シーシャへの注意を怠った俺の責任だ。本当に、すまない……」


 衣装部屋には、揃いのお仕着せを纏った侍女らしき二名の魔族がいた。

 銀灰色の狼の頭をした者と、淡い金色の羊の頭をした者である。

 彼女達は、慌ただしく入ってくるなり頭を下げ始めたローエンと、その上着に包まれた私を見比べてきょとんとしている。

 一方、私のドレスを破った張本人である飛竜のシーシャは、窓の外から顔を覗かせ、キュンキュンと子犬のような声を上げていた。

 両目をうるうるさせ、心底申し訳なさそうな様子である。

 私はそれを確認してから、視線を正面に──深々と頭を下げ続けているローエンに戻した。

 曲がりなりにも王女という立場にあったため、他人のつむじを眺める機会は少なくはなかったが、しかし今ほど真摯に向き合ってもらったことがはたしてあっただろうか。

 しかもそれが、これから政略結婚によって夫となろうとしている相手だと思うと、なんだかおかしく思えてきてしまう。

 私は吹き出しそうになるのを堪えつつ、目の前のつむじに語りかけた。


「ローエン、どうか頭を上げてください。私は平気ですので」

「しかし……それは、アメリアのために用意された、特別な花嫁衣装だろう?」


 確かに花嫁衣装として、祖国は私にこのドレスを用意した。

 カシュカに対してフェレンツ王国の威信を誇示するため、贅を尽くして作られたのも間違いない。

 だから、心血を注いでこれを縫ってくれた職人に対しては、破ってしまったことを申し訳なく思うが……


「きっと、あなたの幸せを願う母御の思いが込められた、大切な……」

「──いいえ」


 不躾にも遮って、私はローエンの言葉を否定した。

 私が最後に祖国から贈られたドレスに、母は一切関与していない。

 彼女の思いなど、込められているはずもないのだ。

 なぜなら……


「母は、私のことなど少しも愛してはおりませんもの」

「……えっ?」


 ぱっと弾かれたみたいにローエンが顔を上げた。


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