この冬、神は泣けなくなった。

あおいそこの

孤独が成る


天気とは神のお遊びである。


転機とは神のお遊びである。


指をひとつ鳴らせばたちまちどこかの町で嵐が起こり、洪水が起こり、干害が満たされ過ぎてしまう。でも神とはいえど、感情がある。何も害そうと思ってわざわざ俗世に干渉するわけではない。最低限この世の秩序が保たれるように。人間の思考回路を正して、崩して。行動パターンの中にイレギュラーを組み込んで、踏襲を重んじさせて。

この世から悪いことが消えてしまったら正しさがなくなってしまうから。

正しさのための悪を。その悪を正すヒーローを生み出す。


それが神だ。


しかしその神も人によっては役立たずと言われたり、存在を否定されたりする。全ては神のせい。神が悪い。そういう責任転嫁にも神は何も口を出せない。せいぜい偶像だから。その偶像は馬鹿くらいがちょうどいいと父さんに教わった。でも僕は馬鹿極まりない神なんだと思います。

神とは言ったものの僕たちの家系は代々天使だ。ファンシーな妄想ではなく、実際に。赤い糸とか、恋のキューピッド、勝利の女神。それらは基本的には天空にいる。

そのはずなのに。僕は出来損ない天使、堕天使として。悪魔じゃない方の堕天使として今人間界でお仕事を探している。仕事と言っても人間の運命を左右するほどの力は今の僕にはない。ちょっとした恋のきっかけを作ってみたり、その行く末含めて学びにしろ、と父さんに言われている。

どうやって人間に干渉をするかって言うと、天使って基本的に弓矢を持ってるでしょ?それで人の心臓に衝動を打ち込むって訳。人に惚れたり、人生の中で大きな決断をしたり。天空でしていたのは人の心臓を狙う練習。

でも天使の僕には天使の力が本当に驚く程足りていないみたいで、人の心に届く矢を作れない。持っている矢を人の心に届かせるだけの力がない。どれだけ弓を精一杯しならせても矢は飛んでいってくれない。

「人間界って言ったってさ、僕様に出来ることなんで無いよ…」

名前は《僕》。天使は神の次に偉いから僕は僕様、と崇められる。出来損ないの天使なのに。そんなに崇めなくていいのに。恥ずかしいし。


僕様は天使にはなれない。


自分でもそう思っていたし、周りからそう言われているのも分かっていた。肩身は狭かったけど必死に頑張った。でも父さんに認められることはなくて、人間界に送り込まれるという最終手段まで使われてしまった。


冬になった。


それでも何も状況が変わることなく人間界でただ流れていく時間を過ごしていた。春から始まって1年間しか僕には猶予がなかったのに。どうにか打破しようと思ってはいるから日課として高い建物の屋上で天使の特別な目を使って天使が必要な人がいないかを探していた。

灯台もと暗しとはよく言ったもので僕のいるビルの屋上から今にも飛び降りようとしている人間がいた。

「ちょちょちょ!なにしてるの!?」

「止めないで!お願い!もう死なせて…生きていけないんだから…」

「じゃあその前に僕の話だけ聞いてくれないかな!?」

僕が天界に帰るための条件は自分の放った矢を誰かの心臓に上手いこと刺して衝動を起こすことが出来たら帰ってきていい、と言われていた。

「え…」

振り返った少女と僕は目が合った。

「リベラ…」

「リベラ?誰?」

「知り合いにものすごく似ていて!ごめんね!君の名前は?あ、僕は僕って言うんだ」

「何その名前。おかしい。まぁいいや。どうせもう死ぬし。わたしの名前は塑羽(そう)。それで、僕くんの話ってなに?」

「それは、ね…」

自分のことを話そうなものすごく迷った。天使だ、っていくら説明しても理解されないかもしれない。でも僕が帰るためにはこの子の協力が必要だ。例え空の上でもう一度会うことになるかもしれなくても。

「なに?ないなら、わたし飛ぶわよ」

「わー!待って待って!昨日ね、ミケのオスを見たんだ。めちゃくちゃ珍しいネコじゃない?だから驚いちゃって。何かいいこと起こるかなって思ったらそんなことなくて!黒い猫は目の前を通るし、靴の紐がちぎれちゃったりしたんだ!」

「ふーん」

「この前会った人の話なんだけど。目玉焼き作ろうとして卵をシンクの中に割って、殻をフライパンの上にコロンってやってたの!怒りながらもう1つ卵を取り出して、もう1回同じことをやってたんだよ!面白くない?」

「そうね」

「アイス食べようとしたらふーふーしちゃったり。プリンなのにフォークを突き刺したりさ。そういう脳のバグってやっぱりどうしても面白いところがあるよね!」

「まぁ。ねえ、僕くん。何が言いたいの?死ぬのをやめろって?人生は尊いって?そんなこと言われたってわたしは死ぬのをやめないわ。だって僕くんにわたしの悩みなんて分からないじゃない。仮に僕くんがわたしの親友だったとして、よ。100%なんて分かりっこない。分かった?なら早くここから消えてよ!」

何も口を出せなくなった。フェンスの外に身を乗り出した塑羽を止めなければと思って後先考えずに口に出した。

「僕天使なんだ!」

「は?」

「天使っていうか、出来損ないの見習いみたいなもんなんだけど。えーっと、その、空の上には神様とか、僕みたいな天使が住んでるんだ。そこで人間界の色々を管理してる」

「馬鹿らしい。そんなの信じろっていうの?」

「信じられないと思うけど、君が死ぬのを止める気はないんだ!」

僕がそういうと塑羽は驚いたように目を丸くしていた。てっきり死ぬな、とか言われると思っていたんだろうしその話を聞くつもりはない、と言っても目の前で人が死ぬのを止める人間が多いんだろう。

「出来損ないって言っただろ?今、僕は天界に戻るために試練の途中なんだ。どうやったら戻れるかっていうと天使の弓を誰かの心臓に刺さないといけないんだ」

「人を…殺す、ってこと?」

「違う違う!天使は人の生死に直接的な干渉は出来ないよ!天使って弓矢を持ってることが多いでしょ?その弓矢は人に衝動を植え付ける。一目惚れとか、人生の大きな選択とか。それは天使が決めろ!って念じて決まるんだよ」

「よく分からないけどそうなのね。それでわたしにどうしたいの?」

「君がここから飛ぶ時に僕が君の心臓に矢を刺させてほしい」

どんな返事が来るか分からなかった。塑羽は僕が来て声をかけたから今飛んでいないんじゃない。まだ天使の矢が刺さっていないんだ。僕が来ようと、来なかろうと塑羽は飛べていなかった。そのことに塑羽は気づいていない。だから本質的な意味では僕が塑羽を殺す、と同じ意味だ。天使の矢が刺さっただけでは人は死なないから。

「要するにわたしの自殺衝動を、僕くんの矢が原因ってことにして欲しいのね」

「そう」

「馬鹿らしい…仮にあんたが天使だったとしてどうして人に背中押されました、って人生の結末決めなきゃいけないの?おかしくない?わたしは1人で勝手に死んでいくの。僕くんの助けなんていらないし、僕くんが天界?お空の上に戻れなくたってどうでもいい」

「そっか…」

「わたしは帰るわよ」

「うん。僕は別の人を探すよ」

フェンスから身を話して階段に繋がるドアの方まで歩いて行った塑羽の背中を眺めた。長い髪の毛がなびいてとても綺麗だった。その後ろ姿はリベラという僕の一番の友達に似ていた。今は人間界にいるはず。もしかしたら塑羽という名前になっているかもしれない。確かめる術は無いけど。

リベラは天界で心臓を撃ち抜く練習をしている時に上手く刺さらなかったり飛ばなかったりで落ち込んでいる僕をいつも気にかけてくれていた。リベラは大人だったけど、弓の扱いが僕と同じくらいしかできなかった。大神様っていう一番偉い神様がしびれを切らして人間界に送り込んだ。それが出来損ない天使の恒例行事になった。

その試練を成し遂げられなかったら天使の権利を奪い取られてそのまま人間界で生きていかなければいけなくなる。一切の記憶が消されて。だからこの人間界でリベラが僕に会ったとして僕に気づくはずがない。

「めちゃくちゃリベラに似てたなぁ…」

「ねぇ」

「うわっ!」

塑羽がドアに寄りかかって立っていた。

「なんかわたしがいじめたみたいじゃない。そんな落ち込んだ顔しないでくれる?」

「ご、ごめん」

「リベラって誰?僕くんの友達?」

「うん。そんな感じの人」

「親は?親も天使?」

「そう。代々天使の家系なんだ。変わることはほぼない」

「ほぼってことは僕くんが神様かもしれないの?」

「それはあり得ないよ。だって矢も撃てない神様なんていないもの」

灰皿の近くのベンチに座った塑羽。横に座るように促されてその通りに腰かける。これ以上自分から塑羽に話しかけることが思いつかなかった。

「心臓に衝動ってどうやって撃ち込むの?」

「基本的には弓矢で狙って撃つんだけど、多分見えないだろうけど矢があるんだ。それをどんな形でも心臓に刺せたらいい。直接でも、弓で飛ばすのでも」

「ふーん」

興味ないじゃん。

「いいよ」

「え?なにが?」

「わたしの心臓に衝動の矢?だっけ?ぶっ刺して」

塑羽の顔を見ると歯を見せて笑いながら僕の方を見ていた。僕の心臓を小突かれた。

「わたしのここ、に撃っていいよ」

「あっ、ありがとう…?」

「でも、わたしがこの世に意味を感じるまで待って。生きてた、って何か残せるまで待って」

「分かった」

僕は自分に期限があることは言わなかった。記憶がなくなっても塑羽に人間界出会えるなら期限を満たす日まで適当に過ごしたいいかな、とも思い始めていた。塑羽は本気。いつかのタイミングで僕に心臓を差し出してくれる。

どんな覚悟であれ、塑羽を殺す勢いじゃないと僕の矢は届かない。それに直接だったとしても刺さらないと思う。直前で折れてしまう。

待ちゆく人の胸に物騒なものを刺してみようとしたんだ。でも誰の胸にも刺さらなかった。身の回りのことに無関心で心臓に違和感を覚えたって知らん顔でそのまま歩いていった。姿を現したり、消したりが出来る僕の姿は見えない。矢も見えない。だけど胸の中で何かが濁る感覚はあるはずだ。どうにもそれを当たり前に抱えている人が多いらしい。

「あと、頼みごとを聞いて」

「いいよ」

「天使ってなにも断らないの?この先、わたしはどうなりたいのか、聞いて」

「断る天使もいるよ。塑羽はこの先、どうなりたいと思ってるの?」

「わたし、は幸せになりたいよ。わたしの思う幸せってものは陳腐かもしれないけどご飯が食べられて、生きていくためだって割り切らなきゃ我慢できないようなことしない。それが仕事になるような人生を死ぬまで送れたらそれでいいんだ」

「人間界でそれがどのくらい難しいのかは分からないけど塑羽にとっては、難しいこと?」

「うん。すごくね」

自分の足をバレリーナさながら動かしているのを見ている横顔を眺めていた。急に頬に水滴が当たった。もしかして泣いているのかもしれない。そう思って頬に手を当てたけれどそれよりも先に雨が頬を全て濡らした。僕が泣いているのかは分からなかった。

「雨!?最悪!天使の力で止ませてよ!」

「天使が何でも出来ると思わないでよ!天気は神様の仕事だからね!」

踊り場に避難して顔を見合わせた。そして塑羽は体を折り曲げて、腹を抱えて笑い始めた。さっきまで仏頂面で地面を眺めていた。なんなら死のうとしていた人が急に笑い始めたことに驚きを隠せなかった。

「僕くんさー、本当に天使なのかもしれないね」

「そう言ってるじゃんか」

「信じられると思う?20年近くの人生でそれまではめちゃくちゃしんどくても誰も助けてくれなかった。死のうとしたら目の前に天使が現れて、意味的には殺させてくれないか。初めてだからね。信じられるわけない」

「でも僕は天使だし、塑羽に衝動を刺さなきゃ帰れないのは事実」

「帰れなかったらどうなるの?」

「人間界に留まるよ」

天使じゃなくなることは言わなかった。意味を感じるために死に急がれても、生き急がれても困るから

「リベラって人は?天界にもう戻った?」

「今も、人間界にいるはずなんだけど会ったことはない」

「天使ネットワークみたいなのはないんだ。どこにいるのかが分かるみたいな」

「ないよ、そんなの」

でも帰ろうとすると拒まれるんだ。矢を作り出せない天使はそうそういない。だから僕は父さんから譲ってもらった刺々しい弓を持って人間界をさまよっている。その刺々しい弓で刺した衝動が塑羽や、塑羽の周りの人を傷つけることがないように。何よりもそれを一番に祈りながら撃つ。そう教わってきた。

「いつかわたしに矢が刺せるといいね。わたしは意味を探す。僕くんは刺せるようにする。あぶれ者同士頑張ろうよ」

「うん」

雨に濡れた塑羽は僕の方を見て微笑んだ。

真っ直ぐ前を向いて歩く塑羽の背中にくっついていた。人混みに慣れていないから姿を消していた。

「臆病な天使ね」

「仕方ないだろ…」

「なにがよ」

花で笑われて行く先も分からないけれど塑羽について行く。

「ねえ!どこに行くの!」

「承認欲求を満たしに」

「どういうこと?」

それ以上の説明はしてくれなかった。ただたまにスマホを確認しながら歩いて行く塑羽の後ろに付き従うだけ。普通に天使に人間が従うのに。これじゃあどっちが天使様か分からない、と不機嫌になりかけた。

「も、もしかしてウミちゃん?」

「そうでーす。ナオヤさんですか?」

「そう!じゃあ早速行こうか」

塑羽は肩を抱かれてそのまま繁華街の方へ歩いて行った。


「は?」


見失いそうになるくらい離れるところまで僕は追うことを忘れていた。この後に起こることは何となく分かったけど想像したくなかった。僕に向けたような楽しそうな顔をナオヤとかいう男に向ける。弓を引いて塑羽の心臓を狙った。

気付け!

しかし直前で水にわた飴がとけるようになくなってしまった。どうしてわた飴を知ってるかって?天界は雲の上だから似てるもの見つけて同業者?と思えば違ったからだよ!

当たり前のようにピンクの分かりやすいホテルに入って行った。仕方なく僕もついて行く。風呂場にいる塑羽の前に姿を現した。声を小さくして話しかけた。

「ねぇ!何してるの?」

「見ての通りパパ活だけど?」

「意味ってこれのことかよ」

「これは結構日常茶飯事だから違う。金稼いで、その後、どうしようかな、って感じ。見たかったら見てていいけどホテルの前で待っててくれてもいいよ。消えちゃってもいいし」

「それは隠れてる消えろってこと?」

「いや?人助けは趣味だからね。そのままの意味。いてくれてもいいし、いなくなってもわたしは気にしない」

イヤリングを外しながら、その他のアクセサリーにも触れていく。

裸は緊張しないけど人間の情事を見るほど天使も知りたがり、なわけじゃない。死にたがりの女の子と、恐らく不倫の既婚男性の情事なんて特に。

ホテルを出て路地裏で待っていた。べろちゅーしに来る輩はいるし、昼なのに実にお盛んだった。

見たくない、見たくない。

段々と空は曇って来ていた。

大体運命の大時計の長針が2周くらいした時。ホテルから出てきた塑羽を見つけた。

「僕はここだよ」

「あ、待っててくれたのね」

「まあ、天界に帰るためだし」

「そうよね。金は手に入ったし、次はどこに行こうかな」

「承認欲求は満たされたのか?」

「2時間はね」

じゃあその期限が終わった今は?求められている間しかそれを感じられないのなら?深く考えるのをやめてただただ着いて行った。ゲームセンターの中の小さい箱に入って加工が効いた写真を買ってみたり、クレーンゲームでせっかくの金をぼろぼろ落としていた。これは実際に床に落としていた。小さい子や、卑しい奴が拾っていた。

僕はだんだんと塑羽のする行動に腹が立っていた。命の使い方は自由だから好きにすればいい。意味を見つけようとしている行動には思えなかった。する行動全てが無意味に思えた。

「それっていつか繰り返していたら意味が発生するの?」

「分からない」

「なんで可能性がありそうな方に動かないの?」

「無意味な行動をしていたら意味は見つからないの?」

「っ…」

「そういうことだよ」

頭の後ろで組んだ腕に体重をかけて背を逸らした。踏切を待っている。

「スーパーでご飯でも買おうかな」

「何食べるの?」

「いつもはカップラーメンか、菓子パンだなあ。弁当ってあんまり好きじゃない」

「ふーん」

「興味ないのね」

誰もいない夜になりかけ。昼が脱皮をするその様は美しい。

向かい側と、こちら側の踏切のランプが赤色に光る。バーが上に昇っていく。対岸へはかなり距離がある。何も話さず。塑羽も、僕も何も口を開かずにただ淡々とコンクリートの上を歩いて行く。

「ギリギリになるもんなんだね。」

「いつもそうだよ。わたしさ」

塑羽が僕を振り返って固まった。

「続きは?」

僕を見透かしたその先にある何かを見ようと僕も振り返る。押し車が線路の溝にはまってしまって動けなくなっているようだ。カンカン鳴り響く警報に焦って動きは鈍くなる。人は少なく、気づいている人も助けに出るだけの勇気はない。

迫りくる電車。あの人の人生のラストは決まってしまった。天使とはいえど、決まった運命を変えられはしない。ただ居合わせた宿命として、目を逸らさずにいよう。天使の正義感。


___プァー


うるさい音が耳の奥で鳴って血管や骨に響いて、体中を駆け巡り心臓を掴んだ。その時僕の後ろにいた人はいなかった。僕の髪の毛が真横ではなく斜め前に流れたのは塑羽が僕の脇を駆け抜けていったから。

僕はそれに気づいていた。そして行動に移したはずだった。過去ないくらいの速度と、集中力。正確さを問われる場面でミリ単位のミスも犯してはいけない緊張感の腕の震えも感じる暇がなかった。鮮明にそれを覚えている。

「どうして…僕は、刺したはず…」

横殴りに降り始めた雨が僕の立っている踏切の外側に向けて塑羽の血を流してくる。周りから見えないのをいいことに電車が通り過ぎてからすぐに駆け寄った。僕は轢かれることはないけど足が動かなかった。

塑羽の体は見る影もなくバラバラになっていた。手足は四肢全てが形さえ怪しいほどにひしゃげ、頭蓋骨が潰れたのか粉砕した骨が散らばっていた。飛び散る内臓が赤色の水たまりを作っていた。お皿のように転がっている頭蓋の中に脳みそのスープが作られていた。髪の毛がテーブルクロス。血液の塩味が濃すぎたから雨水で薄めようって?

僕は確実に衝動を刺していた。刺せていた。走り始めた塑羽を止めようと、弓を思いっきり引いて、矢も放ったはずだった。塑羽の胸に確実に突き刺さっていた。触感を見送る時にはすでに塑羽は線路の中に飛び出していて渡り切れていなかったおばあさんを突き飛ばした。そして自分の生に意味を与えてから死んでしまった。

僕は確かに念じて撃った。そして刺さった。

行くな、と。

行ったらどんなに急いだって助からない。走り出そうとしている塑羽をどうしてでも止めなければ、と思った。おばあさんにはなんの思い入れもないから申し訳なかったけど塑羽に生きていて欲しいと僕は願ったんだ。だから撃った。刺さっていた。黒いオーラを纏った父さんの矢が左寄りの中心部に刺さっていたのを僕は見た。

「どうして…塑羽…」

「僕様、天界に戻りますよ」

「お前、なんで…」

「リベラ様がお待ちです」

「リベラはもう人間になってどこかに消えちゃったんだ!」

「それは違いますよ。早く天界へ参りましょう」

着いていくしかなかったから僕は天界でのお目付け役、ペシの後ろを飛んで空の膜に直進した。

「リベラは?」

「大神様は誰の目にも触れることがないのはご存知ですよね」

「知ってる」

「隠された神殿。リベラ様、大神様が許した方でないと天界の中で見つけることも出来ませんし、入ることも出来ません。僕様、お入りください」

重々しい扉を開いた。柱と柱の間は空間が開いているはずなのに夜の空みたいに無限の空間が広がっている。等間隔に、左右対称のシンメトリーで作られた宮殿の精巧な文様が彫られた扉。思いのほか力を込めなくても簡単に開いた。

青々しい草木が広がり、禍々しい人間界を見ている空間とは打って変わっていた。花が咲き乱れ、木々が生い茂り、水が流れ出ている。

「リベラ?どこにいるの?僕のことを呼んだの?」

「おお!僕くん!」

天使のはずだったのに纏っているのは女神の衣。弓は隠された神殿の柱や壁と同じ材料で作られている白い石で出来た机に立てかけられていた。光に照らされて蜘蛛の糸が張っているのが見えた。

「よく来たわね。今までずっと待ってたのよ!」

「待ってたってどういうこと?リベラは天使の弓矢も翼も奪われたんじゃないの?」

「半分あってて半分違う。天使の翼は奪われてしまったよ。わたしは神になったからね」

「神に?でも天使の家系じゃない」

「突然変異っていうものは生まれるのよ。わたしは人間界に送り込まれて、人間と触れた。くそったれな人間も多く見たのよ」

甘やかす声とは真逆の敵意を感じる声に足が竦んだ。次に僕の顔を見た時にはリベラはいつもと変わらない笑顔だった。

「人間の思考回路がどうしてこんなにも馬鹿げているのかが全く分からなかったのよ。だから私は優しい天使でいることを諦めた。そしたら僕くんが連れてこられた時みたいに天界に戻っていいって言われたの。隠された宮殿で神になることを条件にね」

「じゃあ僕は神になるの?」

「そういうこと」

よくやったとばかりに頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。

「塑羽は?塑羽はどうなったの?」

「あの子は死んだわ。ペシが老婆を助けろ、という衝動の矢を撃ったからね。それを引き留めようと優しい天使サマが衝動の矢を撃てるようになるだろう、とわたしが指示を出したのよ」

「なんで、そんなことしたの…?」

「じゃないと、僕くんは天界に戻って来れなかったし、神にもなれなかった。わたしが次の大神様に推薦したのは僕くんだからね。天使と神。両方の性質を持っている人じゃなければいけない。そういう決まりなの」

「塑羽は、もしかしたらリベラなのかもしれないって思ってたのに」

リベラが人間界で天使や天界、神様のことを全て忘れていたとしても塑羽を救うことで、リベラを救ったことになるかもしれない、と淡い期待を抱いていたのに。

「あながち間違いではないわ。塑羽という子はわたしの未来。わたしが大神をやめたら塑羽として生まれ変わる」

「どうやって?もう塑羽は死んだんだよ」

「下の時の流れと上の時の流れは違うのよ。だからわたしが大神を辞めて、下に戻る時と塑羽が生まれる日は同じ。下に戻るまでの滑り台は長くて長くて、記憶が消えるには十分なの。だからわたしは天界で大神だったことも忘れているし、問題は無い」

「その時、僕はまた干渉するの?干渉しなければ死ななかったりする?」

「いや、しないわ。2回目の人生は天界の者が誰も触れずに歩むの。また別の誰かが、大神候補が君の未来を助ける」

「出来損ないの天使からしか生まれないの?」

「そういう訳じゃないのよ。適材適所のように天使が稀に神様のような力を強い割合で持つことがある。そういう子が大神になる可能性が多いってだけ。隠された神殿にいるしかないから出来損ないって呼ばれることを知らなかったりするし。大神様が人間界に送り込むんじゃなくて、他の天使とか神様が突き落とすのよ」

僕は父親に弓矢だけ渡されて気づいたら人間界に落ちていた。リベラが言っていた滑り台とは違うルートで人間界に戻されたんだと思う。ベシが僕を拾いに来た道も。

「隠された神殿の中はこんな感じだったんだね。たくさん草とか、木とか、花がある。水も綺麗なのが流れてるね」

「それは人間界の文明の犠牲者たちよ」

「文明の?」

「切り倒された神木や、街路樹。除草剤や、開拓で不必要に枯らされた花や、草。環境破壊や、水質汚濁で本来の美しさが失われてしまったものたち」

腕を回せないくらいに太い気には縄が巻き付けられていた。コケが見えるその木の幹のでこぼこをなぞった。

「強い感情は衝動や、集中力、突発的な行動力を生み出すの。僕くんは塑羽に生きてい欲しい、と強く願ったから天使の矢が撃てたのよ」

「そうなんだ…じゃあリベラも何かが重すぎたんだ」

「そういう聞き方を出来るから僕くんを選んだのかもしれないわね。美しいものを踏みにじってそれが嬉しいことのように報告する人間に対しての憎悪が増えすぎちゃったの。この世界そのものに衝動を突き刺してやりたいと思ったし、変えたい、と思った。先代の大神様はそういうところを見たのかもしれないわ」

衝動を打ち込むまでもない人間に対して僕は半ば諦めのような気持ちを抱いていた。けれど諦めきれなかったリベラはそういう人間に対して強い反発を抱いて、嫌いになって、憎かったんだと思う。

「そういえばここに生き物はいないね」

「えぇ、そう。ここに入れるのは価値がないと捨て去られ、犠牲者となり、いつの間にか忘れ去られた虚しい万象。ただの生き物はふさわしくないの」

「どうして?」

「さぁ?わたしは知らないわ。前の大神様も、その前の大神様もそうしてたの。僕くんが新しい大神様になるんだから好きなようにしていいんだよ。木々を無くしたいならそれでもいいし、鳥の鳴き声を聞いていたいならそうしていていい。馬や牛を置いておきたいならそうしていい」

このままの景色が好きだったから僕は大神様になっても変えないと思う。ただ鳥のさえずりが聞こえるのは魅力的だ。

「大神様ってどんなことをするの?僕、難しいことは分からないよ」

愛おしいものに口付けをするようにリベラは僕の頭にキスをした。

「大丈夫。僕くんがしたい世界にするの。虚しい万象を引き起こした生き物に哀れみや、罰を与えるならそうすればいい。慈しみを覚えさせるならそうしていい」

「どうやるの?」

「隠された神殿での僕くんの過ごし方だよ。怠けてだらだら過ごしたら人間界もそうなっていく。無理をしてキビキビいたら人間界の空気は今まで以上に張り詰めるわ」

「草木に言葉をかけたり、そうやって余裕がある過ごした方をしたら人間界もそうなる?」

「ええ、きっと」

「塑羽は死にたいなんて思わない?」

「それは変えられないわ。でも塑羽じゃない子が楽な感情を持って生きていけるかもしれないわね」

言葉を交わした人間の数は少なかった。でも僕の未完成の衝動を受けても何も感じないくらい心が麻痺している、無関心になっている。それがだんだんと文化になっていく。そんな社会を生きていくのが難しいと思う人の難しいが少しでも易しくなる世界を目指そうと決意した。

「塑羽が死んだり、平均的な幸せの難しさを知った時に雨が降っただろ?それは僕くんが降らせたんだよ」

「僕が?どうやって?」

「悲しみや、慈しみが慈雨となる。涙を流しそうなくらい感情が揺れ動いたら雨が降る。僕くんは神様の中の神様。大神様になるんだ。誰からの感情も受け止めなきゃいけない。憎しみも、怨念も、尊敬も、敬愛も、愛情も、希望も絶望も。何もかも。僕くんは涙は不安の証拠。怒りの証拠。誰にも見せちゃいけないよ。隠された神殿だからって油断をしないこと。ここでの僕くんの過ごし方が人間界に影響するように。いいね?」

「うん、分かったよ」

涙を流しそうになったのを隠すために雨が降ったことに気づいた。ただの夕立じゃなかった。

リベラは話し終わったのか前を見ながら僕の手を繋いで隠された神殿の中の緑地を歩き回った。爽やかな空気が頬を撫でる。

1人の肩に全てが乗っている。僕は見てきた世界が繰り返されること仕方ないとは思えない。神だから。恐らくそれは神だから。俗世と離れた場所にいても、神も元は人間だったから。人間を知り、世間を知る。滅亡への道をたどっていることはひしひしと感じている。けれど


塑羽のような子がもう生まれませんように。


塑羽のような子に救いがどうか待ち受けていますように。


その壁は乗り越えられるくらいの高さでありますように。


ただ与えられるだけでは人は何も学ばない。与えられ、過剰に受け、零した何かに気づこうとすることを学びと呼ぶのかもしれない。大神様の祈りが今まで、世界を繋いできた。その尊さは認めるしかないほどに。

そして1周回ってきて机にたどり着いた。リベラは立てかけられていた弓矢を手に取った。そして弓を構えて天井に向けて放った。綺麗な火の花が咲いた。

「わたしからの餞別だよ」

散るそれらはまるで命のようで。その赤色が、人間界の優しさの象徴に。そうとしか見えなかった。ソウとしか見えなかった。

「これからは人間界は僕くんが守るんだよ。僕くんが生きる社会はわたしが創った。けれど僕くんの次の大神様の生きる世界を創るのは僕くんの仕事」

「やってみる。塑羽になっても、出来たら忘れないで」

「はは!努力はするよ!わたしも僕くんを忘れたくはないからね。じゃあ、わたしは長い長い滑り台を降りていかなければいけないから。もう行くよ」

無限に続く夜の空の背景の中に白い穴が空いてリベラはそこに腰掛けた。

「あ、そうだ。塑羽は『わたしは、誰かに自分のありのままを見てもらいたかった』だって」

「神様って、そいう伝言サービスまであるんだ」

続きが気になっていたことを思い出して、答えをもらった。そしてリベラは滑り台の策を見つめて、もう一度僕の方を振り返って手を上げるとそのまま吸い込まれるように落ちていった。生まれ変わった先の赤ちゃんのような。純粋無垢な表情で隠された神殿から去って行った。ひゃっほー!という声が聞こえて、何度かこだました後、完全に音が消え去った。

「僕が木々たちに、声や、音を覚えさせないといけないんだね」


よろしく


【完】

あおいそこのでした。

From Sokono Aoi.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この冬、神は泣けなくなった。 あおいそこの @aoisokono13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ