始発
気づけば僕は芝生の上で寝転がりながら、雲一つない空を見上げていた。太陽が眩しい程に照りつけて、芝生はより青さを増していた。
後ろから声が聞こえる。次第に大きくなって、はっきりと聞こえてきた。その声を僕は知っていた。
振り返ってみると、大きな木のすぐ側でレジャーシートを広げて休む父と母の姿があった。父は座ったまま後ろに手をついて空を眺めている。母は僕の方に手招きしている。
少しも待たずに僕は走り出して、二人のところへ向かった。僕も二人と一緒に座ると、父が笑い出した。母も笑っていた。だから僕も笑った。
父とキャッチボールをした。母とバトミントンをした。三人で縄跳びもした。時間を感じることなんてなくて、ただ楽しかった。父の大きな手で、母の小さな手で何度も僕の頭を撫でて貰った。
遊びに夢中になっていたら、母の姿がないことに気が付いた。父は僕の前で不思議そうな顔をしている。周りを見渡すと、母は公園の丘の上にひとり立ってこちらを見ていた。母は笑顔で僕に手を振っていた。何か言葉を口にしていたが僕からは口の動きしか見えなかった。
僕も手を振り返したが、よく見ると母の目からは涙がこぼれ落ちていた。それを見た僕の胸は一気に不安で埋め尽くされていった。
グローブを投げ捨てて、母のもとへ走り出した。母の顔から笑みが消えていく。気持ちだけが先走って足がもつれた。父はそんな僕にすぐ追いついて僕の手を強引に引っ張った。早くいかなければならないのに、父のせいで一歩も進めなかった。僕は父の手を振りほどこうとしたが、父は僕の手が千切れる程に強く握っている。父は少しも笑顔ではなかった。
母は丘を越えていって、僕の方からは見えなくなってしまった。僕は父に掴まれた腕を振り回して、もう片方の腕を母の方へと伸ばしながら何度も母の名前を叫んだ。
自分の声が頭の中で何度もこだまして、僕はハッと目を覚ました。
混乱していた僕の頭は次第に落ち着きを取り戻して、自分の置かれた状況を思い出してきた。夜は明けたようだが、空はまだ少し暗い。鳥の鳴き声が聞こえ、風の微かに吹くのを感じる。
何も考えずにぼーっと前のホームを眺めながらまた眠りについてしまいそうだったが、携帯が鳴っていることに気が付いて眠気が吹き飛んだ。
携帯を開くと、一度も見たことのない電話番号から電話が来ていた。不審に思いながら携帯を耳に当て電話に出た。僕が出るや否や、すぐさま相手が叫ぶようにして、もしもしと言った。
聞き覚えのある声だった。一度も忘れたことのない、父の声だった。僕も同じ言葉を返そうとしたが、緊張で声が裏返って上手く声に出せなかった。そんな僕の声でも父は安心してしまって、一気に息を吐いた。
父は言葉を探すようにして少し経ってから、元気かと僕に尋ねた。元気だよと僕が戸惑いながら答えると、父は良かったとだけ言ってそれからまた黙ってしまった。
僕が何も出来ずに居ると、父が突然口を開いた。
「お母さん、最期の日はどんな顔してた?」
僕はその父の言葉に静かな愛を感じた。笑顔だったよ、僕の口が自然と動いてそう言った。
それから父と色々なことを話した。あの日の後悔。あれから一度も女性と関係を持っていないこと。僕に会うのを母から止められていたこと。僕のことをずっと想っていたこと。
本当は僕も父のことを想っていた。ただ、あの日の父の顔が目に焼き付いてしまって、父への想いが全て恨みに変わってしまった。
「お母さんに言われてたんだ、私に何かがあったらあの子をよろしく頼むって。僕に任せるのなんて本当は嫌だったはずなのにね」
電話越しに聞こえる父の声はまだ少し暗く、抱えた哀しみと罪悪感が僕の方まで伝わってきた。
母はきっと死んでも僕を守るつもりだったのだ。母の笑顔をまた思い出して胸が締め付けられる思いになった。
父は一呼吸置いてから、少しだけ声を張って言った。
「一緒に住まないか」
僕の心は揺らいだ。もう一度裏切られるのではないか、もう一度僕のことを置いていくのではないか。父を頼るしかないと思えば思う程に父への疑念が邪魔をする。
父はずっと黙ったままだ。次第に人が増えていくホームで二人の静寂が強調されていく。もう僕は父と過ごしていけない気がした。人を疑いながら笑顔を偽って生活するぐらいなら、ひとりで野垂れ死ぬ方が僕にはマシに思えた。
諦めかけていた僕の脳裏に夢での母の顔がよぎった。涙に顔を濡らしながらそれでも笑顔だった。母は何かを僕に伝えようとしていた。声は聞こえなかったし、よく分からなかった。でも母は確かに僕に言っていた。生きて、と。
母の声がもう一度聞こえた気がした。
ホームは電車を待つ人々が点々と列を織りなしていた。みんな下を向くばかりで、空を眺める人も朝の澄み切った空気を堪能する人もいない。
電車の到着を伝えるアナウンスが聞こえる。もう昨晩何度も聞いたというのに、今はそれが少し新鮮に感じる。
大きく深呼吸をした。
「わかった」
その言葉が僕の口を出てから、少し間があった。父は自分の聞き間違いだと思ったのか、もう一度僕に聞き返してきた。
「お父さんと一緒に住みたい」
僕が少し声を落として言うと、父は大きく深呼吸をして、よかったと微笑んだ。それから矢継ぎ早にあれこれと準備しないといけないことを独り言のように挙げ始め、早口で僕に父の家の住所を伝えた。不思議なことにこの駅から三駅行った所にあった。
電車がやってくる。一晩経って生まれ変わったようにさっぱりとした顔に見えた。ホームに居る人々とは違って活気に満ち溢れていた。
ようやく僕は椅子から立ち上がった。体の節々から痛みが溢れ出て、悲鳴が出そうな程だった。しかし、椅子と僕をがんじがらめにしていた鎖が心地良い音を立てて切れるのを感じた。不思議と背中を押してくれた気さえした。
僕は電車に乗るからと言って父の電話を切った。携帯をポケットに入れて背伸びをした。新鮮な空気を沢山吸って、それから大きく息を吐いた。
電車の扉が開いた。笑顔で僕を迎えてくれているような気がする。一歩一歩踏みしめて電車に乗った。僕が乗ってすぐ閉まった扉からホームがよく見えた。僕が座っていた椅子も見える。
線路を踏みしめる大きな音を立てて電車が走り出した。一秒も経たずにホームの景色は窓から流れて行って、薄い水色に澄み切った空と沢山の家々が見えた。
僕は外の景色がよく見えるように座席に座った。大きな窓からはもっと綺麗に空が見えた。どこまでも続く空の色がなんとなく僕の心と一つになった気がした。
昨夜、僕は終点に居た。みんなに置いていかれた、捨てられたと思っていた。しかし実際、そんなことはなかった。母は死んでも僕を守ろうとしていた。父はいつまでも三人で暮らせる日々を待っていた。誰も僕を見捨ててなんていなかった。
今、僕は始発に居る。ここから全てが始まる。
何があっても生きよう。そして母が望んだ通りの幸せな道を歩もう。
遠くの空で母の笑顔が輝いた気がした。
終点の椅子 美平圭介 @ishimitsu0905
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