終点

 父が家を出ていってから母はスーパーのパートに入って毎日のように働いていた。僕はそんな母の姿を見ていたから、友達がゲームを買って貰ったり、休日どこかに出掛けた話を聞いても我慢が出来た。

 中学に入ってからは母に心配を掛けないために勉強はしっかりしていたし、先生からの評価も良い方だった。

 二年生の半ば頃から、国立大学の合格率の高い私立高校を目指し始めた。ただ、私立に通う為には特待生として入学するしか手が無かった。合格するだけでも難しいのに、その中でトップの順位で受かるには生半可な努力では足りないと自分が一番分かっていた。だから、死にもの狂いで勉強した。

 そんな僕のもとへ母がコーヒーと袋菓子のドーナツを持って来てくれたことがあった。普段僕が勉強している時は部屋に入ってこないし、母がコーヒーを淹れてくれることも珍しかったから、僕は少し不思議に思っていた。

 トレーを僕の机に置いてから母はベッドに座って勉強している僕を少しの間眺めていた。妙に緊張して、僕のペンは止まってしまった。止まった僕のペンを見てから、母は突然肩揉んであげようかと言ってベッドから立ち上がった。まだ僕がうんともすんとも言ってないうちに母は僕の背後に回っていた。

 机に向かってばかりですっかり肩が凝ってしまっていたから、ありがとうと言ってペンを置き背中を椅子に持たれ掛けた。

 母は僕の肩を揉みながら、勉強の調子はどうだいと尋ねてきた。僕はまだ湯気の立っているコーヒーを啜りながら、なんとか頑張ってるよと答えた。母はそれを聞いて微笑んだ。

 それから母が僕に何かを聞いて、それに僕がぼそぼそと答えるのが数回続いて、突然母は息を詰まらせたかのように、ごめんねと一言呟いた。僕は黙って母の次の言葉を待っていた。

「こんな私でごめんね。本当はもっとしたいこともあったでしょ?欲しい物だって、行きたい所だって本当はあったでしょ?いつも我慢させてごめんね」

 背中に母の涙が落ちるのがわかった。母の涙は温もりに溢れていて、それが肌ではなく心で伝わってきた。母の優しさが僕の体全身に染み渡っていった。

 僕は母の言葉に首を振ってから、母のもとに産まれてきて幸せだったと少し上の方を向きながら答えた。涙がすぐそこまで込み上げてきていた。

 母はしばらく何も言わずに僕の肩を揉んでいた。涙がぽつぽつと落ちる音と秒針が時間を刻む音だけが聞こえる。

「絶対にあなただけは幸せな道に行けるように、お母さんも頑張るね」

 母は何度も言葉を詰まらせながらそう言った。

 次第に僕の方も涙が溢れてきて、それが頬を伝っていくのを感じた。今の僕には振り返って母の顔を確かめる必要もない程に母の想いが伝わってきていた。僕の胸に宿る小さな火に薪が焚べられ、大きな炎となって僕の胸を明々と照らした。

 母はしばらくしてから、はいと言って僕の両肩をぽんと叩き、おしまいと明るい声で言った。ありがとうと言って振り向いた僕が見たのはいつもの母だった。

 言葉というものは面白い。僕の胸を大きく引き裂きもすれば、その傷すら優しく包み込んで暖かなものにしてしまう。あの時ばかりは傷の痛みも感じなかった。

 しかし、現実は甘いものではなかった。なんとか合格は勝ち取れたものの、トップには遠く及ばずの結果だった。気分は晴れなかった。今までの自分の努力が僕を責めるかのように重くのしかかってきた。

 僕は滑り止めに受けていた近所の公立高校に行くと母に伝えた。

 「本当にその高校に行きたいの?」

 母は僕の目をしっかりと見ながら僕に詰め寄るように言った。僕が何も言えずに居ると、短く息を吐いてこう言った。

「わかった、あなたが行きたいって言った私立高校に行きなさい。学費は私が働いてなんとかするから心配するんじゃない」

 母は笑顔だった。本当は母も不安しか無かっただろうに、その笑顔に僕は救われてしまった。

 高校に入ってからは勉強とバイトとの両立に専念した。部活にも興味はあったが、それよりも少しでも母の為に行動したかった。授業が終わってからすぐさま近所の飲食店へと自転車を走らせた。家に着くのはいつも外が真っ暗になってからだった。

 夜ご飯を食べてから夜遅くまで勉強していた。授業のレベルが高く課題も多かった為、そこまでしなければみんなについていくことが出来なかった。

 そんな無理した生活が長く続くわけもなく、五月頃から頻繁に体調を崩すようになった。バイト先の店長は厳しい人で、学校を欠席した日でも弱った体に鞭打ってバイトへと向かうしかなかった。体も心も休む暇がなく、ほとんど学校に行けなくなってしまった。

 案の定、成績はクラスで最下位を取るようになり、通知表を母に見せるのが簡単なことではなくなってしまった。

 母はそんな僕を珍しく叱った。家のことよりもまず自分のことを考えなさいと、厳しい口調でそう言った。僕は返す言葉もなく、ただテーブルに顔を伏せていた。

 それからバイト先の先輩に無理言ってシフトを減らしてもらい、夏休みはバイトよりも補習の方に力を入れた。しかし、一学期に基本を固めたみんなに追いつくのは容易なことではなかった。

 二学期もなんとか追いつこうと、家でも学校でも合間を縫って勉強したが、結果は散々だった。母は僕のことをそっと見守り、時には暖かい言葉で励ましてくれた。

 三学期になっても成績はあまり変わらず、ついに学年末になってしまった。僕は母とともに先生に呼び出された。これで三度目だったから少し覚悟はしていた。

 そこで先生の口から進級が出来ないと告げられた。成績不振と一学期の大半を休んでしまったのが原因だと先生は淡々と語った。

 母はただ先生の話す言葉に頷くだけで何も言わなかった。そんな母を横目に頭を上げることが出来なかった。うまく息が出来なくなり視界が狭くなっていく。

 僕の前に広がっていたはずの沢山の扉がどんどん閉ざされていき、目の前が真っ暗になって黒い霧に包まれていくのを感じた。

 みんなが一年間の思い出を振り返って浮かれている時期に僕だけが下を向いて歩いていた。

 家についてから母とこれからのことについて話し合った。母は終始真剣な顔で涙を流すこともなかった。僕はただ母の言うことに頷くだけだった。

 母は最後に、あなたの人生だからと言って決断を僕に委ねた。

 こうして僕は高校を中退した。これ以上、学費で母を困らせる訳にはいかなかったし、働いて母を支えていこうと既に腹を決めていた。

 それから今まで一年半程バイト漬けの日々を送ってきた。後悔はたくさんあったけれど、今自分の出来ることに集中した。最近は余裕も出来て、春には二人で旅行にも行った。

 幸せを感じていた。気づけば母の笑顔が僕の生きがいとなっていた。一生このまま二人で苦しい中にも笑い合って生きていけると思っていた。

 それなのに、どうして轢かれたのが僕の母だったのか。どうしてこんなに苦労してまで手に入れた幸せを奪われなければいけないのか。どうして僕だったのか。

 静かな溜め息が僕の口から漏れた。現実を受け止めようとする自分と、それから必死に逃れようとする自分がいる。

 今の僕に家に帰ることは出来ない。そんな現実逃避が無駄なことは自分でもよく分かっている。それでも、家に帰った僕はきっと母を探してしまうだろう。リビングの扉を開けて台所を見て、母の部屋の扉も開けて僕の部屋にも行って、すべての部屋を見渡して思い知るのだ。もう母は居ないと。

 またしても電車がやってきた。今度は先程とは違って、電車がすっかり空っぽになっている。物寂しい電車からほろほろと落ちるようにして、四、五人降りてきた。誰一人躊躇うことなく、改札へと直行していく。

 電車から顔を出した車掌がこちらに気が付いて声を掛けてきた。

「これが最終列車ですよ、乗らなくて大丈夫ですか!」

 時間が経ってようやく馴染んだ椅子が僕を離そうとしない。車掌に反応する気力もなく、僕は頭を項垂れて黙っていた。

 呆れてしまったのか、はたまた僕のことを霊的な何かだと勘違いしたか分からないが、しばらくして車掌は僕を無視して電車を走らせてしまった。

 このホームから何もかも無くなってしまった。誰かの為に生きる人も、誰かを信じて生きる人も、もうここには居ない。生きる希望も意味も同時に失った僕の行く先はいったいどこなのだろうか。それとも僕にとってもここが終点なのだろうか。

 誰も彼もが僕を置いていった。母も父も学校の先生たちも。世界から突き放された僕はひとり崖っぷちに居た。不安や恐怖を前に後ずさりしか出来ず、崖の終わりは近づくばかりだった。

 喪失感、憎しみ、後悔、全てが形となって僕を襲う。改めて思い知らされる。もう本当に僕は独りなんだと。

 そうして気が付いた。僕の座っている椅子だって同じではないか。誰かに座られて、でも結局いつもこの場所に置いていかれる。月明かりの下、誰にも必要とされずに忘れ去られて独りで夜を過ごす。そんな彼を僕だけが必要としていた。

 夜風に当たる僕の心は冷えるばかりだ。電車が行ってしまってから景色は余計に物寂しいものになった。虫の鳴き声が未だに僕の耳を突き刺すように鳴り響いている。

 僕は硬く冷たい椅子の縁を擦りながら目を瞑った。目に映るのは沢山の人の顔だった。僕を捨てた人、僕を助けた人、僕を陥れた人、僕の大切な人。

 座り始めてから時間の経った椅子は次第に暖かみを帯びていった。

 

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