幸せ

 数日経って、母と父が僕を迎えに来た。昼前だったから祖父はまだ仕事に行っていて、祖母が玄関に出た。祖母は母の顔を見るなり、どうして人が大勢いる場所であんな騒ぎを起こしたのかと問い詰めた。母は何も言い返さず、目を虚ろにして下を向いていた。父は祖母を止めようとしたが、そんな父にも祖母は罵声を浴びせた。

 父も母も祖母に色んな言葉を浴びせられ、下を向いて立っていた。そんな二人を僕は玄関の角の柱から顔を覗かせて見ていたが、少し顔を上げた母と目があった。僕は焦って身を隠した。それから祖母の言葉を遮って母は声を少し荒らげて言った。

「もういいですか、うちの子を連れて帰らせていただきます」

 祖母は一瞬口を詰まらせて、拍子抜けした顔をしていた。母は玄関に上がって角にいた僕の手を取り、帰るよと静かな口調で言った。そのまま母は僕を引っ張って家の前に停めていた車に乗らせた。祖母は少し経ってからようやく自分を取り戻して、母に対してぼそぼそと文句を言い始めた。母はそれをあしらうように、ありがとうございましたと言って車に乗った。

 車の外から祖母が何かを叫んでいるのが聞こえてきたが、父はすぐに車を走らせた。母は助手席で何も喋らず窓から景色を眺めていた。父の方は運転しながら前だけを見つめていた。僕は後部座席で車に揺られながら、一度も口を開かない二人の姿を見ていた。

 家に着いてから僕は母と食卓に座り、父はリビングに入ってからも棒立ちしていた。母は父とは反対の方向に顔を向け頬杖をついていた。僕が訳もわからずに居ると、父は突然膝を床に付けて僕たち二人に土下座した。顔を床すれすれに近づけながら必死に何かを言っていたが、母はそれでも父を見ることはなかった。

 父が喋り切ったあと、静寂がその空間を覆った。僕は父と母を交互に見ていた。しばらく時間が経ってから、父は立ち上がって何も言わずに僕を抱きしめた。いつもの何倍も長い時間僕のことを抱きしめて、それから父は名残惜しそうに僕から手を離すと、壁にかけていた自分のカバンを手に取り玄関の前まで行って立ち止まった。

「元気でね」

 父はその一言だけ僕のもとに置き去り、それから二度と帰ってくることはなかった。父が出ていってすぐ、僕は家のあちこちを見て回った。父の荷物は何一つ残されていなかった。それどころか、父の写った家族写真も父の使っていたグローブも何もかも無くなっていた。笑顔に溢れた僕の家から父の姿だけ綺麗に切り抜かれたように物が消えていた。三人で過ごした思い出もまるごと消し去って、僕は母と二人、この家に取り残された。

 それから母は変わってしまった。母の明るい笑顔を見ることは殆ど無くなった。次第に僕に出す料理は冷たくなっていき、交わす言葉も少なくなっていった。

 気が付けば母はいつも化粧台の前に座っていた。何かをぶつぶつ喋りながら化粧品を手に取ったり、自分の顔をつねってはぎこちない笑顔を鏡の前で作っていた。その姿を見るのが僕には辛くて仕方がなかった。母の姿を不気味と感じる自分も居たが、誰のせいでこうなってしまったのか、僕は分かっていた。

 だから僕は、あの人も、あの人の優しさも全て憎んでいた。

 僕が中学生になる頃には母も元の姿に戻りつつあった。僕はずっと笑顔でいるようにしていたし、母もよく笑ってくれた。

 母の笑顔がまた脳裏を浮かんで、涙がすぐそこまで込み上げてきた。どうして僕は母に、いってらっしゃい以外の言葉を掛けなかったのだろう。どうして、感謝の言葉をもっと伝えなかったのだろう。

 やるせない気持ちになって考えるのを止めた。家に帰る気にもなれない。どこかに行く気にもなれない。もうこのまま、何もせず物思いに耽るのも良いかもしれない。ゆらゆら電車に揺られながら心の中でそう呟いた。


 一時間ほど経っただろうか。窓に映る自分の顔を横目に、考えることもせず流れていく景色に身を委ねていた。窓に映る黒色のキャンバスに何度も母の顔が浮かび上がる。僕を叱るときの顔、僕を褒めてくれるときのあの笑顔、そして僕の為に涙を流してくれたあの時の顔。

 どうして人は失ってからそのものの大切さに気づくのだろう。そんな疑問を何度も自分に問いかける。頭を項垂れてそんな問いを吐き捨てるかのように溜め息をついた。

「次は〇〇駅〜〇〇駅〜、終点です」

 どこまでも電車は走っていく気がしていたから、僕にとっては終点に着くことが少し煩わしく感じられた。疲れ切った電車は長距離走のラストのように音を上げながらゆっくりとホームの前に止まった。

 音を立てて扉が開く。座ったまま居る気だったが、扉からの無言の圧を感じてようやく座席から立ち上がった。痺れてしまった両足を交互に擦りながら駅へと足を踏み入れた。

 ホームの地面を踏みしめてすぐに駅を見渡した。都会の駅のような華やかさを削ぎ落とし、そこに寂しさが詰めた、そんな駅だった。きっと隣の駅も同じような見た目なのだろうが、ここは違う。終点、終着点、行き着く先。そっと受け止めてくれるような、かといってそのまま捨て去られてしまいそうな、そんなどっちつかずのもやっとした空気が流れている。

 端に建てられたフェンスの外側には藪が広がっていて、虫たちの耳障りなオーケストラが聞こえてくる。静かな電車の中に慣れた僕の耳が、虫たちの声に苛立ちを感じていた。

 階段を少し降りた先に見える改札は捨てられたぬいぐるみのような色をしていて、隣に置かれた駅員用の質素な部屋に電気は点いていない。

 ホームにはいくつかの椅子が地面に取り付けられていた。とても年季の入った椅子だった。きっと座れば硬いだろうに、何故か今の自分はそこに愛嬌を感じてしまう。

 吸い込まれるようにして歩いた僕は、その簡素な椅子の一つに腰を下ろした。想像していたよりも硬く痛みが骨に染みた。ゆっくりと傾けるようにして椅子に体全身を預けると思いの外しっくりくる気がした。

 僕が椅子にぐったり座っていると、少し遠くの方から二人の高校生の声が聞こえた。どちらも慌てて電車から出たきたようだが、顔には眠気が少しだけ残っている。電車の方にはテキパキと車内の点検をする車掌が見えた。

 二人の高校生たちは気だるそうに足を動かしながら改札の方へと歩いていった。電車から少し離れたところで片方が突拍子もなく笑い始めて、それにつられてもう片方も笑い始めた。二人して寝過ごすなんて、と口にする彼らは自分と同じぐらいの年だろうに、彼らと僕の間に見えない壁を感じて息が詰まるような思いがした。

 もし僕にも「友達」というものが居たなら、こんな状況でも僕を笑わせてくれるのだろうか。僕の背中を擦って涙を受け止めてくれるのだろうか。僕の手を取って再び前を向けるようにしてくれるのだろうか。

「友達」その言葉を心の中でもう一度呟いて苦しくなる。過去にできた傷が今まで何度も僕の足を引っ張ってきた。僕はあの日、「友達」を失った。

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