父
今日一番の溜め息をついて仕方なく座席に座った。扉の前に集まって話をしている女子高生たちが不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
この電車はどこに向かうのだろうか、自分の行く先すらわからない僕にはそんなことを考えても仕方がなかった。僕は座席の向きに従うことなく首を横にして窓からの景色を眺めていた。
あちこちの建物から光が漏れ出ている。こんな時間でもまだ働いている人たちがいるのだ。早く家に帰りたい、眠たい、仕事終わらない。彼らの声が電車の音を通して聞こえてくる気がした。
しばらくして心の深い海に慣れてきた僕は、浮き輪で浮かぶような気持ちで落ち着きながら、一方ではその深さに圧倒され深海の底まで引っ張っていかれそうな心持ちだった。
月の光に照らされた僕の心にふと父の姿が思い浮かんだ。記憶の中の父はいつも笑顔で優しい顔をしている。しかし皮一枚剥ぎ取ってみれば、薄汚くどぶのように濁った彼を感じる。
つい先程まで父に助けを求めていた僕はきっと、一瞬の焦燥感に駆られていただけだったのだろう。こんなにも僕は恨んでしまっているのだから。女に騙され家族を捨てたあの人のことを。
僕の父は、本当に優しい人だった。休日はいつも近所の公園で遊んでくれた。グローブの握り方も、逆上がりの仕方も全部父が僕に教えてくれたことだった。父のことが大好きだった。
周りの幼稚園の友達だって、いつも僕の父を羨ましがっていた。だから僕は将来こんなお父さんになるんだと小さいながらに決意していた。そう、あの日までは。
あの日は朝から晴れていて、僕は窓から空を希望に満ちた眼で見つめていた。ちょうどその日は昼から友達と公園で遊ぶ約束をしていた。ところがそんな僕の希望も虚しく、昼前になって突然雨が降り出した。
綺麗な空を雨雲に奪われて落ち込んでいた僕に、母は父の会社まで歩いて傘を届けに行ってあげようと言った。母の笑顔とその言葉で僕の心は再び快晴の空を取り戻した。
僕はすぐに立ち上がってお気に入りのかっぱに着替え、同じ色の長靴を履いた。遅れて玄関にやって来た母は、ごめんねと少し笑みを浮かべながら僕の手を取って玄関を出た。
父の会社までの道を母と一緒に歩いた。ちょうど夏手前ぐらいの時期だった。公園の葉っぱも雨に打たれて音楽を奏でていた。雨なんてお構いなしに僕は笑顔でスキップしていた。
「あの人しっかり仕事してるかしら」
母は誰かに聞くわけでもなく、不安そうに漂う雨雲を見つめながらそう呟いた。曇りがかった顔の母は雨粒の音にかき消されてしまいそうな声で今度は僕に聞いた。
「ねえ、お父さんのこと好き?」
僕は少しの迷いもなく、もちろんと答えた。母は数回頷いてから、そうだよねと言葉とは裏腹に少し不満げな顔をした。
今思えば、この時既に母は何かに勘付いていたのだろう。しかし、確証も掴めず眼前に漂う幸せを崩すのが容易なことではないことを痛い程に分かっていた。きっと母はずっと独りで悩んでいたのだろう。そんなことも知らずに僕は幸せだけを見ていた。
それから母はそんなことを忘れたかのように、今夜のご飯は何にしようだとか、今度旅行に行きたいねだとか、そんな話を僕に投げかけた。母の話は僕が期待できるようなものばかりで、僕は上げる足をさらに高くしてスキップした。踏まれた水溜まりから水が飛び跳ねる。跳ねる水さえ踊っていた。
突然、笑顔で話していた母が足を止めた。一歩多く踏み出してしまった僕は、振り返って母の顔を見た。母の顔から表情というものが消え、目はただ一点を見つめていた。
そして僕は母が見る方向へと恐る恐る目を移した。喫茶店から父が知らない女と一緒に手を繋いで出てくるところだった。女は高級そうな服を身に纏っていて、手には高級そうなバッグが煌めいていた。
溢れそうな程の笑顔を浮かべた父の頬に、女は少し踵を上げて顔を近づけ唇でそれに応えた。そのまま抱き合って微笑む姿は他の人から見れば幸せのたった一言で済む、そんなものだったはずだ。
女と見つめ合う父はとても笑顔だった。僕と遊んでいる時に浮かべる笑顔よりも輝いていた。そんな現実をまざまざと見せつけられ、僕の前で見せた父の笑顔が偽りだったことに気付かされた。
母はしばらく固まっていた。何も考えることが出来ないというより、ただ目の前で起きていることを理解しようとすることに精一杯という感じだった。ずっと信じてきた人に裏切られるというのはこういうことなのだろう。今だから理解できる気がする。
突然、母が走り出した。持っていた手提げかばんと二本の傘が母の手を離れ哀しい音を立てて地面に打ちつけられる。今から何をするのか僕には分かっていた。僕も同じ気持ちだった。
それからのことはあまり記憶に残っていない。ただ鮮明に残っているのは、倒した父の上に覆いかぶさるようにして、怒りを露わに父の胸ぐらを掴む母の姿だった。母は何かを叫んでいた。母の口から節々に聞こえてくる僕の名前に母の愛と怒りを感じた。
目の前に広がる景色によって動けなくなってしまった僕を、次第に大きくなってしまった人だかりから誰かが引っ張り出してくれた。祖母だった。祖母の右手には買い物バッグがぶら下がっていて、パンパンに膨れ上がっていた。祖母は僕にまで聞こえるように溜め息をついて、僕の手を強く引っ張った。
僕は口を開くことも出来なくて、同じく口を開かない祖母と水溜まりでまだらになった道を歩いた。
祖母の家に来るのは何度かあったが、いつもは父と来ていたから、緊張して水も上手く喉を通らなかった。祖母は自分のコップにも水を注いで、僕の顔も見ずに退屈そうにテレビを眺めていた。
夕方ごろになると祖母は台所に立って夕食を作り始めた。料理を皿に盛り付ける音が聞こえるのと同じタイミングで祖父が帰ってきた。祖父は居間に入るなり僕がいることに驚いて、それから笑顔で僕のもとへ近づいてきた。僕の頭をわしゃわしゃとしながら、祖母に何故一人でうちに来てるのかと聞いたが、祖母は適当なことを言って誤魔化した。祖父もそれを適当に流してから、飯だ飯だと言って祖母が料理を運ぶのを手伝いに立った。
祖母の作った夕食は母の料理の味に似ていたが、僕には母の作った料理のほうが美味しいような気がした。祖父は器に盛られたお米の山を頬張りながら、何かしたい遊びがないかとしきりに僕に尋ねた。祖父のほうが僕より目が輝いていて、活気に満ちあふれていた。
祖父はそれから夜中まで僕の相手をしてくれた。居間に布団を敷いて、祖父と同じ布団で寝た。祖父はすぐに眠りについてしまったが、僕はその日の出来事のせいで眠れずにいた。静かな夜の闇は僕を不安の渦へと誘い、口を開けて眠る祖父の隣で僕は涙に枕を濡らしていた。
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