迷い

 どこを通ったかあまり覚えていない。活気を失った町を呆然と歩いていた。気づけば駅の目の前まで来ていた。せっかく夜風に当たって僕の心は落ち着いてきたというのに、駅についてまた騒がしくなってしまった。

 ショッピングモールと併設しているタイプの駅で、こんな夜遅い時間だというのにどこから来たかもわからないような人々が大きな声で笑い叫び散らかしている。そんな彼らを横目に僕は駅へと入っていった。

 見慣れない路線図の中から自分の最寄り駅を探すのは一苦労だった。母は見つけるのが早かったなと、そんなどうでもいいことを考えながらなんとか見つけて切符を買った。改札を通って標識に従いながら目的のホームへと辿り着いた。

 電車がホームに来るまで、明日からのことを考えていた。まずバイトを増やさないといけない。料理は母の手伝いをしていたからなんとかなるだろう。しかしすべての家事を自分でするとなると話は別だ。本当に自分ひとりでやっていけるのだろうか。

 もやもやした感情を抱えながら突っ立っていると、ようやくホームに電車がやってきた。電車の扉が開く。僕からは車内の様子がよく見えた。

 子供を抱えながらうたた寝している母親が見える。小さな子どもをおんぶして立っている父親もいる。大きく口を広げて寝ている子供と、それに負けじともっと大きく口を開けて寝ている父親が二人で並んで座っている。

 何気ない日常がそこにはあった。疲れ切ったその幸せが僕の目に焼き付いて離れなくなっていた。

 ワンテンポおいてホームに居る人々が一斉に動き出した。その流れに身を任せるように動き出してすぐに足を止めてしまった。

 車掌の笛が鳴っている。後ろの中年が僕を睨みつけてくる。車内に充満するその幸せが僕を見つめている。

 僕以外の世界は変わらずに動いていた。

 何も考えれなくなった。それより今は何も考えたくなかった。心のなかで我儘な自分が暴れ回っている。

 僕は逆の方向に向き直して、すいません、すいませんと謝りながら列から抜け出した。

 次の電車に乗ろう、次の電車に乗ればそんなに遅い時間にはならないはずだ。自分にそう言い聞かせながらとぼとぼと反対側に歩いていった。電車はホームから足早に去っていき、ホームには静けさだけが残されていた。静けさの中で僕はひとりホームにある椅子に腰掛けた。

 動力を失った歯車のように、我儘な自分が力を失っていくのを感じた。代わりに現れた冷静な自分が僕を慰めた。

 電車が去ってからしばらくして、自分のいるホームにまた人が入ってきた。誰も居ないよりも数人居るというこの状況が静寂をより際立たせている。向かいのホームにはまだ人が溜まっていて活気に満ち溢れていた。まるで線路が僕たちと彼らを隔てる境界線に感じた。

 羨ましそうな目で向かいのホームを見つめる。端から端までおそろいのものを持ってつまらなそうに話す女子高生たちが居た。上司らしき男の話に付き合わされている若い男も居た。それでも彼らの顔には確かに笑顔が浮かんでいた。

 口角を上げても僕の強張った顔は笑顔になってくれない。またいつものように笑える日が僕にも来るのだろうか。自分の頬をほぐしながら考え事をしていると、あるものに目が留まった。向かいのホームの階段から降りてくる男。見覚えがある。違う、あれは僕の父だ。

 気づけば走り出していた。ホームに居る人なんてお構いなしに全力で走った。階段を二段飛ばしで上がっていく。先程まで考えていた沢山のことがまるで泥のように自分の体から振り落とされていくのを感じた。

 もう父は母が死んだことを知っているのだろうか。自分を助けてくれる人はもう彼しか居ない。頭が真っ白になるほどに走って向かいのホームに着くと、父が電車に入っていくのが見えた。追いかけるようにして車内へと駆け込み、膝に手をついて何度も息を吸い込んだ。

 会社帰りらしき中年たちの話し声が耳に入ってきた。その方向に視線を送ると、二人のうちの片方が先程見かけた服を着ていた。それは父ではなかった。落ち着いて見てみれば、顔も大して似ていない。

 落胆するとともに必死に走った自分が馬鹿らしくなってきた。なぜ父を見つけたと思って走り出してしまったのか、今考えれば可笑しなことだ。

 ようやく息が落ち着いてきて、ふと我に返った。扉は既に閉まっている。今さら出ようとして張り付いたが、頑なに閉ざされた扉はまるで動こうともしなかった。置いていかれるホームの姿が窓に映っている。

 電車は音を立てて動き出した。

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