終点の椅子

美平圭介

「こんな時間まで何してたの!」

 今から家に帰れば母はきっとそうやって僕を叱るのだろう。そして母は、心配したんだよと続ける。僕の母はそんな人だった。僕の一番尊敬している人だった。

 怒られてでもいいから、母に出迎えて欲しかった。今さらそんなことを思う。今さら、そう願う。

 もう目を瞑って眠りについてしまおう。夜が明ければ悪夢が覚めるかのように、こんな現実も姿を消してくれはしないだろうか。そんな悲しい妄想はすぐに形を失って煙のように消えていった。

 僕の視界は晴れて、また現実を映し始める。僕は電車に揺られていた。独りで揺られていた。向かいの窓に映る車内の景色には座席にぽつんと座る自分の姿だけが見える。僕の後ろには夜が流れていて、光が点いては消えてを繰り返している。

 車両の中は静けさに包まれ、いつかの休み時間のような空気はどこかへと消えてしまった。電車が線路一つひとつを踏みしめる音だけが僕の耳を占領する。

 もう一度、母の姿を記憶の中から掬い出す。声は僕の耳元で聞こえるというのに、記憶の中の母はこっちを向いてくれない。見慣れた顔ほど思い浮かばないのはなぜだろうか。疲れ切った思考が僕を暗闇へと誘い込む。

 「次は〜、〇〇駅、〇〇駅〜」

 その声に釣られて車内に貼られている路線図を見る。文字が小さすぎてここからは見ることもできないが、自分の帰るべき場所ではない何処かへと向かっていることは分かる。

 僕の家は今頃、どうなっているのだろうか。家の前まで行けばいつものように電気が点いていてはくれないだろうか。そんな希望が湧いてきて、それと同時に重たい何かが胸の奥底に落ちるのを感じた。

 母と二人で住んできたあの家。どれだけ疲れ切って帰っても、そこには母が居た。母は笑顔だった。気づけば僕も笑顔だった。いつでもこんな僕を照らしてくれていたのは、母だった。

 どれだけ悔やんでも今の僕には何も出来ない。目の前に広がる暗闇にすら、もう立ち向かうこともできない。母が居れば、なんて矛盾した感情ばかりが頭上を浮かぶ。

 何度、自分に言い聞かせただろうか。そして今も自分に言い聞かせる。


 母は死んだのだ。


 バイトから帰ってきた夕方、家の電話が鳴った。相手は警察官を名乗ったが、彼の発する言葉を僕は信じることが出来なかった。取り乱していた僕に、警察官は矢継ぎ早に母親がいる病院まで来るように伝えた。

 母の死に顔は思っていたよりも綺麗だった。

 交通事故に巻き込まれて死んだ。衝突したトラックの運転手が酒の回った状態でハンドルを握っていたようだ。その運転手もハンドルを横に切って、電柱にぶつかり病院に運ばれて死んだという。母は跳ね飛ばされて頭から転倒した。すぐに病院へと運ばれたが、到着してまもなく息を引き取った。

 警察官は淡々と僕に語った。何も言葉が出てこなかった。こんなにも人の命はあっけなく終わるのだということに気付かされた時、初めて僕の目から涙がこぼれた。

 息が上手く出来ない。ただ母を一点に見つめていた。目の前に置かれた現実を認めることも、それから目を背けることも今の僕には出来なかった。視界の縁が暗闇に覆われていく。ようやく僕の口から出てきたのは、どうしての一言だった。

 その後別の場所に移り、いくつか話をされてからようやく解放された。病院を出ると、親戚数人が入り口のすぐ外で立ちながら話をしていた。あの子をどうするだとか、誰が引き取るのだとか、話してる内容は聞かなくてもわかる。

 大きな足音を立てながら入り口の階段を降りた。わざとらしく口を塞ぐ大人たちの横を通り過ぎて、駅の方へと向かおうとした。歩く僕の後ろから少し早歩きになった親戚数人が声をかけてきた。可哀想だとか他人事のように話す癖に、こういう時は積極的に動く素振りを見せてくる。そんな彼らに腹が立って彼らに耳も傾けずに無心で前を向いて歩いた。

「もう遅い時間だし、送っていこうか?」

 疲れ切った僕の足と心がその言葉に反応したが、顔も向けずにさらに歩く速度を上げて彼らを置いていった。後ろから僕を揶揄するような言葉が聞こえた気がした。もともと母を嫌っていた彼らにとっては今の僕ですら格好の的なのだろうか。そんなことを考えながら足を進めるうちに彼らの声は聞こえなくなった。僕は一度も振り返らなかった。

 

 スマホを開いて近くの駅まで案内させた。それに従って何も考えずにただ歩き続けた。ここで少しでも止まってしまえば、もう戻れなくなる気がした。夜道を歩く僕を見守るのは雲に隠れてぼんやりと浮かぶ三日月だけだった。

 途中である公園に目が留まった。少し窮屈なその場所にはベンチもなく、あるのは誰の為ともなく立つ滑り台と、持ち主を忘れたブランコだけだった。

 来たこともないのに何故か無性に懐かしく感じてしまう。すこしベンチで休みたい気分だったが、ブランコに座って行き先を失ったその両足で小さく漕いだ。

 こんな子供染みたことをすれば、思い出が脳裏に浮かぶ気がした。それなのにこんな時に限って浮かぶのは辛そうな母の顔だった。

 ブランコを最大限まで高く漕いで勢いよく飛び跳ねた。思いの外高く飛んでしまい、仕切りのポールにぶつかりかけた。胸に手を当てながらそのまま閑散とした空を見上げる。溜め息が夜空に溶けていく。

 もう帰ろう。とっさに僕は呟いたが、自分はこれからどこに帰ればいいのだろうか、そんな疑問が僕の頭を支配した。疲れ切った僕の心は答えてくれない。

 とにかく帰ろう。腑に落ちない気分で立ち上がり、ズボンについた砂を叩き落した。

 公園を後にして駅へと向かった。

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