第21話



 それでも、今、わたしにできることをーー



 ついに扉はバキッという音を立てて、大きな亀裂が走った。


「ヴヴヴヴゥ……」


 扉の隙間から、低くおどろおどろしい唸り声が聞こえてきた。

 けれど、琵琶琴をポロンと爪弾くと、こんな状況でも慣れ親しんだ音にこころがほっと安心する。


 正式に守護術師として学んだことがないわたしは、こういうときに選ぶべき「唄」がなんなのか分からない。

 知っている「唄」にも限りがある。

 だから今この時に口ずさみ奏でるものを迷う隙もなく、直感で頭に思い浮かんだ一節を、身体が音として響かせはじめる。



     まぶたを閉じて 今日はお眠り

     恐れはいらない 悪夢は他所に…



 幼い頃に、なかなか寝付けないわたしのために父母が口ずさんでくれた子守唄だった。

 子どもの夢に忍び込む悪夢を払って、健やかに眠れるようにと願いが込められている。

 わたしが歌いはじめると、少しだけ妖の唸り声が小さくなった気がした。



     可愛いあなたに 安らかな夜を

     朝日がのぼりて 明日も始まり…



 単純な旋律が何度も何度も繰り返されていく、とても耳馴染みのあるもの。

 それは、親たちがうとうとしている子どもの背中を、やさしく一定の拍子で叩くような、そんな安心感のある曲調。

 もともとは術師の間で歌い継がれていたと言うけれど、いつしか広く生活に根付くようになった唄だ。

 子どもが寝つくまで、根気よく繰り返せるように、終わりなく続く旋律。

 少しだけ部屋の温度が上がり、灯りがふわりと揺れた。



     まぶたを閉じて 今日はお眠り

     恐れはいらない 悪夢は他所に…


 

 そのとき、バン!!という音がして、ついに扉が真っ二つに割れた。


「ヴゥーー……!」


「ひっ!」



 薬師殿が短く悲鳴をあげて慄いた。


 わたしも妖のことはやはり怖い。

 でも、でもーーそれ以上に何もできずに固まってしまい、わたしの目の前で傷つく人を見るのは堪らない!



 入り口を見据えて、手と歌い続けるのはやめない。

 繰り返し子守唄を口ずさむたびに、かすかに震えていたわたしの身体が落ち着き、身体中を温かい血潮が巡るのがわかった。


 まるで背中に父と母が手を当てて「だいじょぶだよ」と言ってくれているみたい。



     可愛いあなたに 安らかな夜を

     朝日がのぼりて 明日も始まり…



 ついに扉を破って入ってきた、わたしが初めて目にする妖は、どす黒い狼のような姿をしていた。輪郭は、身にまとった紫がかった黒い靄に溶けて、定かではない。



「ヴゥ……!」



 けれど、その口元や前脚には、おそらく村人を襲った際のものだろう、こびりついた赤黒い血液が見えた。

 ポタリ、と口元から滴った涎とともに瘴気が床に落ちる。

 妖の赤く燃えるような瞳がこちらを見据えた。


 わたしも目を離さずに睨み合う。


 最初、見合わせた赤い瞳からは、チリチリと痛いくらいの強烈な憎しみや怒りが伝わってきた。



「ウゥ……」



 低い唸り声。

 けれど不思議と家の中には足を踏み入れない。



     まぶたを閉じて 今日はお眠り

     恐れはいらない 悪夢は他所に…

 


 妖が片脚を持ち上げて、扉のうちに入ろうと差し入れるけれど、その脚はまるで目に見えないさざなみに触れたように瘴気が揺らいで、妖は火傷したかのように慌てて後退する。

 その動作からは、かすかな驚きがあるように思えた。



     可愛いあなたに 安らかな夜を

     朝日がのぼりて 明日も始まり…



 わたしはそんな妖と見つめ合ううちに、なんだか不思議な気持ちになっていった。



(この子ーー)


 一番強烈なのは、やはり憎しみだ。けれど、この妖がわたしに向ける感情には、それだけではない複雑なものを感じた。



(それは、なに?)



     まぶたを閉じて 今日はお眠り

     恐れはいらない 悪夢は他所に…



 らんらんと赤く光っていた、恐ろしい瞳がしだいにうっすらと細められ、閉じられていく。


(この子ーーなにに…怯えているの?)



 いつの間にか、唸り声は止んでいた。

 大人しくなった妖は、こころなしか纏っている靄も小さくなったようだった。



(この妖から、どうしようもなく寂しい感情が伝わってくるのはなんでーー?)



 まるで、夜の闇にひとり眠ることに怯える子どものような、そんな怯えと孤独がこの赤い瞳に宿っている。



     可愛いあなたに 安らかな夜を

     朝日がのぼりて 明日も始まり…



 ふっと妖が両の瞳を閉じた時、わたしもつられるように目を閉じていた。


 体は意識せずとも、何かに動かされているかのように楽器を奏で、わたしの体の底から声が自然とこぼれ出してくる。

 わたしは閉じたまぶたの裏に、ふわりと明かりを感じた。

 そして、まるでその光に吸い込まれていくような……。



     ⌘ ⌘ ⌘

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