第17話



「銀狼、黄蓋……。起きていますか?」


 そろそろと戸を叩いてから返事があり、


「ふぅ、姫さんか。お疲れさん。こっちは一段楽したとこだ」



 ばたん、と音を立てて黄蓋が戸を開けて入れてくれた。いつも以上に髪が乱れて、疲れが顔に浮かんでいた。

 奥から銀狼が現れる。



「美雨、急とはいえ薬師と貴女を手助けできずにすまなかったなーー。大丈夫だったか?」



 銀狼はほとんど普段と変わらないように麗しく、背筋を真っ直ぐに伸ばして現れたけれど、よくよく見ると少しだけ疲れが顔に浮かんでいた。

 目元にうっすらと影が差し、こころもち顔色も悪いようだった。さらさらと美しい髪が少しだけ乱れ、白い頬に一筋かかって影を作っていた。


 それでも凛とした眼差しや指先まで神経を行き届かせ張り詰めたような上品な所作は、彼の生まれがなせるわざだろうか。もしくは、上に立つものとしての矜持がそうさせるのかもしれない。


 つい一瞬ぼうっと見惚れてしまったようで、銀狼が目を瞬いて問いかけてくる。



「どうした? やはり疲れたか、美雨」


「あーー、いえ! すみません。ぼうっとしてしまったようです。こちらのお食事を預かって参りました」


「おぉ、ありがてぇ! 腹減ってたとこなんだよ」



 腕に抱えていた荷物を黄蓋が受け取って卓の上に広げていく。湯(スープ)は鍋で一度温めとくか、とつぶやく声が聞こえた。



「うー、肩が凝ったぜ!」


「それもそうだな、これを食べたら交代で一眠りしよう」


「お疲れなのですね……」



 こちらを手伝ってから、寄り合い所へ戻った方が良いだろうか? 少し悩む。こちらでわたしができることにも限りがあるだろうから、銀狼の判断に任せよう。



「すぐに寄り合い所に戻ろうかと思ったのですが、こちらでなにか家事を片付けてからに致しますか?」


 けれど、銀狼が静かに首を横に振る。


「美雨。ーー貴女こそ疲れているだろう。そちらも急場を超えたからやって来てくれたはずだ。ゆっくりする時間はあるのだろう。さぁ、入って」



 彼にしてはやや強引にわたしの腕を引いて、戸の内側への誘った。


 中は暖かく、沸かされたやかんが湯気を吹いて、充分な湿度があった。怪我人たちは、奥まった部屋に寝かされているようだった。


 入ってすぐの部屋は卓といくつかの椅子が並び、壁一面の棚には乾いた薬草や瓶詰めがところせましと置かれていた。

 普段はその卓で病の相談にのり、壁の薬草を煎じて差し出しているのだろう。いまそこは黄蓋が並べた食事でいっぱいになっている。



「さぁ、座って」


 銀狼はわたしがお茶の支度をすることにすらも首を振って、席に座らせた。


「銀狼、もしこちらでやることがないのなら、わたしは戻ろうかとーー」


「お食べ」


 わたしの言葉を遮って温まった湯(スープ)の器を銀狼が持たせた。


「あの、しかし銀狼より先に口にするなんて」


「ほら、口を開けて」



 銀狼にあーんと言いながら木匙を差し出されて、戸惑いながら口を開く。親鳥がするかのように給餌されて恥ずかしかったけれど、そっと口に含んだ温かい食事にわたしは目を見開いた。



「おいしい……」


「ふふっ。そうだろう」



 思えば、丸一日ぶりの食事だった。

 一口飲み込むと、食道を通ってその暖かさが胃に落ちていくのがわかった。そして、いかにわたしが空腹かも思い出す。

 ひもじい思いなど慣れっこだったはずなのに。



「もっとお食べ」



 さらにふた匙目を差し出される。とても幸せそうに笑って促す銀狼を断れず、頬を赤ながらも口に含んだ。



「君が食事している姿を見ているだけでほっとする。まだあまり多くを食べられないのは知っているけれど、気に入った食事があったら教えてくれ。これからもなるべく取り揃えよう」



 あまりに親切を差し出されてすぎると、どこか座り心地が悪いくらいだ。わたしが慣れていないからなのか、彼があまりに甘すぎるからなのかーー。


「おいおい、俺が居ずらいだろ」


 黄蓋が茶々を入れてくれるのすら、すこしほっとする。


「だが、美雨はこうでもしないと自分を疎かにしすぎる」


 少しだけひやっとする真剣さで銀狼が言った。


「なぁ、美雨。君は自覚がないかも知れないが、自分を削ってまで人に尽くそうとする傾向がある」


「それはーー多少はそうなのかもしれませんが……」



 うれしくて安心するのはたしかだ。こんなわたしでも誰かを助けられると分かったら、動かずにはいられない。目の前の人の役に立てていることが確認できると、ここに必要とされているとホッとするーー。



「いいや、多少ではないな。黄蓋もそう思うだろう?」


「まぁ、そうっすね。姫さんのは過剰だな」


 そうでしょうかーーと、疑問に思ったのが顔に出たのだろう。


「美雨。貴女のこれまでの暮らしからすればおかしいことではない。自分の存在価値をことさらに示さなければ、居場所がなかったのだろう?」


 銀狼がその美しい顔を歪めた。


「だが、本来それは歪なことだ。とくに白家の正当なる継承者という生まれや、これから過ごす銀狼家での立場からすれば、わたしは心配せずにはいられない」


 わたしは思わず目をふせる。


「上に立つ者、力あるものは、多くの人を救える可能性がある。けれどそれは同時に、その者が判断を過てば多くの救えるはずの命が失われてしまうことも意味する。力ある者自身が倒れてしまっては、救えるものも救えないから、我々は命を賭けるべきときは賭け、そうでないときは臆病でなければいけない。周囲の人々も、上に立つ者のありようを真似ていくのだから」



 彼の言うことも最もだった。

 けれど……。

  わたしの頭の中に、傷ついて背中から血と靄をしたたらせる両親の死に際が蘇る。そして、あのとき歯をガチガチと震わせるだけだった、情けなくて歯痒かった幼い自分ーー。

 もう、あんな思いはしたくなかった。


 ごく最近まで、わたしには何も力がないと思っていたし、今だって自分の力をきちんと理解しているわけではない。

 それでも、ただ震えてうずくまるだけの子どもではないんだと、わたしにもできることがあると教えてくれたのは、目の前の彼だった。

 だからーー。



「ーーわたしは、できることがあるのに、目の前で傷ついている方を放ってはおけません」


 言ってしまったからハッとした。わたしったら、銀狼に向かって個人的な思いで反論するなんて、なんてことを……。

 けれど銀狼は目を丸くして、その後微笑んだ。


「ふふっ。そうか。君の行動は過剰な自己犠牲だと決めつけてしまったが、もちろんそれだけではないな。美雨の優しさや、自分にできることをしたいという思いがあるのだろう」


「あ、いえ……生意気を申しまして……」


 しどろもどろになってしまう。


「いや、謝る必要はない。だが、そのこころを大切にしたうえで、どうか自分のことも同じくらい大切にしてほしいのだ。そうだなーー美雨は、わたしや黄蓋が何日も徹夜をして倒れるほどの疲労を溜めながら、それでも君のために寝ないで旅をしようとしたら止めるだろう?」


「それはもちろんです……!」


「なら、わたしも一緒さ」


「あ……っ」


 言われてやっと分かった。


「だろう? まだ加減は難しいだろう。君はいつも倒れるほど働き詰めな暮らしをするのが常だったから。だが、そのもっと手前で休むんだ。余力を残しておけばいざという時に動けし、回復も早いものなんだよ。自分自身を上手く扱えるようになるのは、君だけでなくわたしも助かるし嬉しい。その具合はこれから見極めていけば良い。まずはもっと甘えて、休むことを覚える。それを心に留めてくれ」



 さぁ、これを食べたら横になって一眠りしなさいーー彼の声を聞いて気が抜けたのだろう。


 わたしは本当に子どものように、食事の最中にうとうとと眠気が襲い、いつの間にか銀狼によって仮設の寝所へと横たえられていた。




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