第33話 逃げろーっ!
国境を越えて、歩き続けた。ムーテは、外の世界を知らない。
それなのに、目を瞑ったままのオレの手を引き、楽しそうに駆けていく。
「あはは、あははははっ」
「……そう楽しそうにしてると、こっちも笑顔になる」
ムーテに無理やり引っ張られようと、足がもつれたり、腕が痛かったりはしない。オレが手を引くときには、そうはいかないが。
「だって、こんなに広いの、初めて!すごく、楽しいっ」
心の底から楽しんでいたのだろう。――少しすると現実が、膨らむ気持ちを押しつぶしてきて、ムーテの横顔に恐怖が浮かぶ。
「お仕置きされそうになったら、オレが守る。心配するな」
「……鞭が、どんなに痛いか知ってるの?」
ムーテの声は鋭く、本当に打たれているみたいに、心がきゅっとすぼむ。
「知らない。でも、逃げない」
「逃げちゃうよ。きっと」
「逃げない。痛みを耐えるのに必要なのは、痛みを知っていることじゃない」
「じゃあ何?」
レイノンの怪我を庇うとき。本当は、いつも怖い。それでも、おっちょこちょいなレイノンを、庇い続けてきた。――すべてを庇いきらなくていいと知っていても。
「誰かの痛そうな顔が、オレはすごく苦手なんだ。それだけだ」
レイノンが痛そうにしていると、オレまで、泣きそうになる。それで、助けなかったことを後悔する。
ムーテは、痛そうな顔なんて一切、見せない。けれど、それがかえって、オレには痛い。
「変なの」
――と、遠くで、声が聞こえた。最も聞き慣れた声の一つ。
「トーリス!」
ルジの声だ。きっと、オレたちの居場所を、絶えず使用している魔法により、把握していて、追いかけてきたのだろう。
何の魔法かは分からないが、オレの頭を撫でた跡、心臓が割れるんじゃないかと思うくらいに、脈打っていたのを知っている。魔法が途切れないように、その瞬間、最大限の魔法圧をかけたのだろう。
まだ、視認できる範囲にはいない。ただ声だけが聞こえる。どうしてここにルジが。いや、今は――。
「ムーテ、逃げてくれ。追手だ」
「――とうもろこしさんのこと?」
「いや。ルジだ」
「ルジかー。よし、逃げよう!」
ごてごての山道を、ムーテに引っ張られるようにして走る。できる限り足を上げて、小さな石に躓かないように。
「なんで逃げてるのかな、私たち」
「その方が楽しいからだ!」
ムーテはまだ、外の世界に満足していない。満足するまで、とことん、付き合おう。
「あははっ」
ムーテの心からの笑みを、もう少し、聞いていたい。そう思うのが、同情から始まったのかもしれなくても。無意識の偽善だとしても。
「わー。すっごく赤いね。なんで?」
川を覗きこんで、ムーテは言う。
「魔力がたくさん含まれてるからだ」
「ふーん」
気味が悪いと、思うだろうか。魔族の目は、血の色だから。
「なんか、かわいいね」
「え?」
「とーりすは、赤が嫌い?私は好きだよ」
それは、本心からの言葉だった、と思う。
「オレもだ」
「えへへ」
それからムーテとオレは、山奥へと進んでいった。ルジもオレたちが遊びで逃げていることには気づいたようで、手加減して追ってきてくれた。あまり早いと、レイノンがついてこられないというのもあるだろう。
「スクラバダケって、美味しいの?」
「ああ。美味いな」
「へー。私も食べてみたいな」
「引っこ抜いてから食べられるようになるまで、結構かかるからな」
ムーテはしゃがみこんで、目の前のスクラバダケの群生地を、つぶさに観察していた。
「この辺りに、誰かいるのかな?」
「どうしてだ」
「ほら。よく見ると、キノコを採った跡があるでしょ、って見えないか」
オレたちが採ったのは三つで、あるいはその事を言っているのだろうか。ルジがいるからと気を抜いて、道を覚えてきていない。
オレたちも、スクラバダケを抜いたあとは、土を埋めるなどするので、同じだろうか。
「ほら、このコケって、もともとこっちにあったものだよ。やっぱり、誰かいるか、いたんだと思う」
それは、相当に観察しないと気付けないほどのものだろう。山に慣れているオレたちでは見落としてしまうほどの、些細なもの。
オレが入国前に感じた気配は、幽霊ではなく、生身のヒトだったかもしれない。
「私、あの子が気に入った。採ってくるね」
「おう」
崖の際に生えたそれは、こだわり抜いた一つなのだろう。落ちたら危ないと、オレもついていくことにする。人間なら大怪我をする高さだが、オレなら大惨事にはならないだろう。
「あれ。なかなか抜けない……」
スクラバダケの抜き方にはコツがあり、どうしても引っこ抜きにくい個体というのは存在する。
「グラグラさせず、軸を真っ直ぐに抜くのがコツだ」
「うん、分かった――」
次の瞬間。スパンと、何かが切れる音がした。切れる音だったのは間違いないが、何が切られたのかまでは分からなかった。
次に、ドゴゴと、地震のような音が鳴り始め、地面が動き出す。状況を理解してすぐに、ムーテを抱きかかえ、全速力で崖から離れる。
崖の一角が、斜めに切り取られたのだ。このままだと、大地ともども、ぺしゃんこになる。
「トーリス!」
ルジが崩れた崖を滑って下り、オレに手を伸ばした瞬間――崖が自由落下を始め、その一瞬の動きのズレで、手が宙を切る。
「ルジ――」
せめて、ムーテだけでもと、投げようとするが、しがみついて、引き剥がせない。仕方なしと、座布団になる覚悟を決める。
「うわああああっ!?!?」
自分が叫んでいることに、後から気づき――全身を、衝撃が駆け抜けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます