紫苑

佐藤凛

紫苑

目が覚めた。いや、目覚めたというより目を開けたと表現する方が近いのかもしれない。

僕は2ヶ月前から眠れない体になっていた。眠ろうとしても眠れないのだ。原因は僕の彼女、明日香あすかが末期癌で入院しているからだ。

彼女には前から違和感があったのだ。デートの最中に急に腹痛で立っていられなかったり、急に食欲が減ったり。僕は心配して病院に行くことを進めたが彼女は「いつものことだから」と言って聞かなかった。ある日、公園でのデートの途中でいきなり倒れて僕は救急車を呼んだ。医師の診断は大腸がんのステージ4。末期癌だ。余命宣告も受けた。それが二ヶ月前。そこから僕は眠れなくなっていた。毎日毎日彼女がもう死んでしまっているのではないのかという妄想にかられる。妄想をしていると嫌な汗がべったりとついて僕を離さない。いつの間にかカラスが鳴き始めて、スズメが鳴き始めて朝が来る。そんな毎日。彼女の余命はあと2週間。それまで少ない時間でも一緒にいなくてはと、ベットから起き上がって、病院に行く準備を進めた。いつものことながら5分弱で準備は終わり、玄関の扉を開けた。外に出てみると、少し寒い風が僕を流した。僕は来ていたダウンコートを羽織りなおして、急いで彼女への病院に向かった。


病院に行く途中に僕は決まって花屋に行く。お見舞いに行くのだから当然かもしれないが、何より彼女は花が好きなのだ。彼女が倒れた日も公園に花を見に行くほどだった。買っていく花は決まっていて、紫苑しおんの花束だ。紫苑は紫色の少し小さめの花。最初はランダムに選んで持って行っていたが、彼女はこの花をやけに気に入り、毎日持ってきてと言うようになった。いつの間にか僕もこの花は好きな花の一種になっていた。

花屋から紫苑を買って、出るとまた肌寒い風が僕を凍えさせる。

彼女の病院に行く途中に、信号に引っかかった。信号で小学生ぐらいの子供が二人。学校に行く途中だろうか、何か雑談をしている。僕は少し小耳にはさむと、示し合わせたかのように寿命の話をしていた。

「ねぇ知ってる?人の一生を90年だとするとして、それを時間にすると788400時間になるらしいよ。」

「えぇ、マジ?じゃあもう俺死ぬじゃん。」

なんて冗談半分で言っている。そうなのか、788400時間なのか。だけれど僕の彼女はもうそんなに生きられない。もってあと336時間といったところだろうか。この事実が僕をさらに急がせた。


息を切らして病院まで駆け抜けた。心臓の鼓動が早いままに受付まで歩いていく。受付の人は少し呆れた顔をしていた。

「あの、佐藤明日香さんのお見舞いに来たのですが。」

僕はあまり言葉にならない声で言う。受付の人は本当に呆れた顔をしていた。

斎藤琢磨さいとうたくまさん、これで二週間連続ですよ。」

受付の人はため息を軽くついて言った。分かってる。そんなの知っているんだ。だけど何が悪いというのだ。もうすぐで彼女は死んでしまうというのに。受付の人は決まり文句のように言う。

「佐藤さんはもうすでに、」

分かってる。分かってるって、もう僕にそれ以上言わないでくれ。と心の中で激しく思った。

「亡くなっているんですよ。」

「分かってますって!」

思った以上に大きな声が出た。病院内が一瞬で静かになる。頭をハンマーで強くたたかれたような痛みの感覚に襲われる。病院の静けさがもとに戻るにつれ比例するように体が熱くなっていく。僕は膝から崩れ落ちて、手に持っていた紫苑の花束をドスッと床に落とした。紫の花びらが無造作に飛び散った。知っているんだ、彼女がもういないってことぐらい。分かっている。だけど、だけど、受け入れたくないんだ。いや、受け入れられないんだ。受付の人は少し間を開けてゆっくりと話しはじめた。

「斎藤さん、大丈夫ですか。彼女さんが亡くなられて辛いのは分かります。だけれどもこれは事実なんです。それでも精神に応えるなら精神科も紹介できますけれど。」

「いえ、すみません。大丈夫です。大丈夫ですから。」

僕はクラクラした頭で散らかった紫苑の花びらをかきを集めて、逃げるように病院をでた。


家に戻った時にふと携帯を見た。メール着信が一件あった。こんな精神状態で誰とも話したくはなかったが、大事なようだと後々困るので開いて見てみた。僕は目を見開いた。着信は彼女からだった。僕の頭はさらに絡まったが、恐る恐る内容に目を写した。

彼女からのメールはお決まりのフレーズから書いてあった。

「こんにちは。琢磨君。これを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないんでしょうね。突然のメールで驚いたでしょう。これはこの日に指定して届くようにしたメールなのです。なので今届いたんですね。さて、琢磨君私のいない世界はどうですか。最近よく眠れてないようですね。心配です。私がいないというのに病院に行くのも。」

僕はさらによくわからなくなっていた。なぜ彼女は亡くなっているのにも関わらず、僕の現状を知っているのだろうか。

そんな僕の感情をさらに読んだかのようにメールは続く。

「今、なんで僕の現状が分かるのかと思ったでしょう。知ってます。これは、初めて他人に話すのですが、というより最初で最後なのですが、私は未来が見えるんです。昔から結構鮮明に。だから琢磨君の苦しさは今、病室の中でいやというほど伝わってきます。本当に嫌というほどに。ならば最初から病気に気づいていたのではないかと思うでしょう。そうです。気づいていました。勿論気づいていましたとも。ならばなぜ私がギリギリまで病院に行かなかったのか、それは私は病院に行っても行かなくとも私は死んでいたのです。どういうことかというと、私は2週間前にどんな形であれ死ぬ運命だったんです。そういう未来が見えたんです。ならば私はできるだけ琢磨君と居たい。私はこの人生で死のうと思いました。私は琢磨君と会えて、お付き合いできて幸せでした。私の人生に琢磨君がいて本当によかったなと思います。だから琢磨君、貴方の手に持っている花は紫苑なんです。覚えていますか。私が倒れた日。公園でたまたま紫苑を見つけて、花言葉について話したことを。紫苑の花言葉は、」

「君を忘れない。」

僕は読むと同時に口から声が出ていた。忘れている訳がない。あの時の真剣で少し涙ぐんでいた彼女の横顔が鮮明に蘇る。僕の体温がさらに高揚していくのが自分でも分かる。

「君のこと、琢磨君のことをあの世でもずっと想っています。だから、前向きに生きてほしい。立ち直ってほしい。私は紫苑の花に願いを託しました。琢磨君。私には見えます、貴方が幸せに生きている姿が。私は先に行っています。琢磨君、私を追いかけては駄目ですよ。ですがまた会える日が来ることを私は知っています。琢磨君が私を忘れなければですが。本当は琢磨君の人生がどうなるのかをこと細やかに書きたいのですが、あんまり書きすぎても琢磨君のためにならないですよね。これくらいにしときましょう。琢磨君、私と一緒にいてくれて本当にありがとう。そして一時的にですが、さようなら。また会いましょう。」

彼女のメールはこれで終わっていた。しばらくの間僕は言葉が出なかった。ただ体が熱くなっていて小刻みに震えていた。自然に携帯の画面が消えると、手に握っている散らばった紫苑の花束が目に映る。綺麗な紫色をしていた。

僕はそれに溢れるほどの水をやった。

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