第18話 名探偵に憧れた男


 人は人生の中でどれほど他人と違う生き方をし、誰と出会い、何かに影響され、そして終えて行くのだろう。


 ──私のこれまでの人生はとても"普通"だったと思う。


 両親がいて、友人がいて、時には恋人がいた事もあった。他人と足並みを揃えるようにそこそこ勉強をし、成績は中の中より少し上くらいで満足して、そこそこの高校と大学に入ると特にトラブルの無い学生生活を過ごした。


 さらに社会人になってからも普通であった。地元でまあまあ景気のいい会社に入社すると、そこで営業マンとして良くも悪くもない成果を出した。


 この普通の人生、生活は決して悪いものでは無い。職に困ったりだとか、人間関係のトラブルに巻き込まれるような環境で無いだけましだ。


 私に『夢』と言うものは特に無い。現状の給料にも不満は無いし、やりたい職も無ければ好きな女性も今は特にいない。


 ああ、"普通"だ。こんな普通な生活を私はもう30年も続けている。無味無臭の人生かも知れないが、一般人の人生などこんなものだろう。


 例えば私が画家だったり、歌手だったり、プロスポーツ選手だったら人生に色どりを持てたのかも知れないが、それは考えるだけ無駄だ。


 他者と比べたらきりがない、私は私らしく生きるのがもっとも幸福なのだ。


 そもそも私はもう30歳、いまさら何かをやろうとするような野心も起きないさ。


 ……そんな風に思いながら私は仕事終わりにコンビニで弁当を買って帰る途中、ゴミ捨て場に大量の文庫本が置いてあるのが見えた。


 それを横目で見て去ろうとしたが、そこにある一冊の本が目に入った。


 その本は『シャーロック・ホームズ』の小説だった。


 懐かしい本だ、子供の時に読んだことがある。私は本を手に取りページをパラパラとめくった。


 名探偵が活躍をする文章を見て子供の時を思い出した、そう言えば私はホームズのような"名探偵"に憧れていたな、あの時は叶いもしない『夢』を純粋に見ていたなと思った。


 めくっていたページに水滴がこぼれ落ちた。雨かと思ったが、違う、それは私の涙であった。


 いつから私は"普通"になったのだろう、いつから私は"普通"に生きようと思ったのだろう、いつから私は『夢』を見るのを諦めてしまったのだろう。


 止まらない涙、私は小説を握りしめてうずくまった。人通りの少ないゴミ捨て場の前で、大の大人が嗚咽混じりに泣いたのだ。



 ──変わろう、変えよう。今日から変わるんだ。



 気づいたら私は会社を辞めていた。自分でもよくわからない程に私の心情は大きく変わろうとしていた。


 今思えば私はずっと"私"が嫌いだったのだ。味気のない生活をした自分自身がどこか気に入らなかったんだと思う。


 そこからの私の行動力はすごかった。使う予定が無かった貯金を全て使って探偵事務所を立ち上げた。


 私だけの事務所、そして私が名探偵となる『夢』の場所。今ここから、私の人生は油を差した歯車のように動き出すのだ。




 ──探偵事務所設立から三年、私は私立探偵として食っていけるレベルにはなっていた。


 舞い込んでくる依頼はペットの捜索と不倫調査が主だ。残念ながらホームズのように大きな事件を解決するような事は現実には無いが、それでも探偵の肩書きを名乗れる自分が誇らしかった。


 あの時にゴミ捨て場であの小説に会わなかったら、私は今も波風のない人生を歩んでいただろう。


 無論それは不幸では無いが、幸福も無い。探偵になってからは様々なトラブルや困りごとがあって毎日がてんてこ舞いだ。


 しかし私は、それでもこの人生の選択肢を選んで正解だったと自負する。


 以前の私よりかは、今の方がよっぽど生きている・・・・・と言う実感があるからだ。


 そんな今までとは違う人生の波風を楽しみながら、探偵業を続けていたある日、私にとって思っても見なかった依頼が舞い込んできた。


 その依頼は、とある殺人事件の真相究明の依頼であった。


 今から一年前、都内で罪のない女子大生が殺された殺人事件があった。


 被害者が見つかった場所は雑居ビル四階にあるトイレの中、このビルは二階と三階がスポーツバーとなっており、四階は従業員の事務所と離れにトイレがある。


 殺された女性はこのスポーツバーで働いていたアルバイトであり、それが見るも無惨な姿で発見されたのだ。


 そしてこの事件──実は犯人がもう捕まっているのだ。


 犯人の名は『屋久 透やく とおる』。屋久は殺された被害者の近くにいた男で、血のついたナイフを持っていた所、駆けつけた警官に容疑者として逮捕されている。


 血のついたナイフからは被害女性のものが検知され、屋久は即刻御用となった。


 だが、実はこの事件──完全に解決はしていないのだ。


 まず一番に問題なのが、屋久が麻薬中毒者であることだ。屋久は事件の起こるずっと前より麻薬で正気を保っておらず、取り調べに対しても意味不明な供述をし、なかば廃人状態であったのだ。


 それは今でも変わらず、屋久は牢の中で精神が常に錯乱しているようだ。


 このことから屋久が何故女子大生を殺したのか? その動機がわからないまま捜査は警察の独断で進められた。


 その結果、薬物中毒者が起こした衝動的で理不尽な殺人……そのように世間には報道され、事件は幕を閉じた。


 しかし、私のところに来た依頼者はこの警察の下した答えに納得などしてはいなかった。


 依頼者は数多の探偵に依頼を頼んだが、どこも取り合ってはくれなかったらしい。そして何とか藁をもすがる思いでこの私の探偵事務所の門を叩いたと言うのだ。


 私は依頼者のその鬼気迫る表情から事情を察し、この事件を必ず真相へと導くと約束してみせた。


 事件当日の状況を深く知るために現場周辺での聞き込みや、被害女性の交友関係などを徹底的に独自で調べ上げた。


 すると、現犯人の屋久以外に容疑者となりそうな人物を三人発見した。この内の二人は店の常連であり、事件当日に現場となるスポーツバーにいて、被害者に好意を寄せていた可能性がある。


 だが、二人は被害者が発見された四階には行ってないのだ。その証拠に二人が犯行推定時刻の間、防犯カメラにしっかりと映っているのだ。


 そして防犯カメラの映像から犯行推定時刻の間に四階にいたのは、仕事の休憩中であった被害者と犯人の屋久だけなのだ。


 残念ながら四階の防犯カメラは被害者が発見されたトイレ付近には設置されてないため、周辺は確認できなかった。


 しかし、関係者の証言で間違いなく当時四階にいたのは被害者と犯人だけだったと言う。


 ならばこの事件、やはり屋久が犯人以外ありえない……だが、私は依頼者から見せられた被害者の遺体写真を見て不思議に思う所があった。


 それは被害者がまるで獣に襲われたかのような、そんな傷跡を顔から身体中に刻まれているのに違和感を感じた。


 明らかにナイフ以外の凶器が使われたと見られる。依頼者もそこに何か怨恨のようなものを感じて、真相を暴きたい様子であった。


 犯人の屋久は限りなく怪しいが、被害者の女性とは面識がまるで無いのだ。


 そこで私は思い切って、本人・・に聞こうと思った。


 そう、犯人の"屋久"の元へ私は足を運び、何とか面会に至るまで事を進めた。


 面会室に現れた屋久は、目の焦点が定まらない典型的な薬物中毒症状が出ていて、口もまともに回ってはいない。


 恐らく警察も匙を投げたであろうなと言うのが一目で伝わる。しかし私は諦めない、少なくとも私が尊敬するホームズはこんな事では決して諦めず、必ずや事件の解決までその身を費やすだろう。


 私は根気強く事件当日の事を問いただした。


 屋久の口からは支離滅裂な言葉ばかりが飛び出す。聞いてもいない女の趣味や昨日の昼食の文句などを延々と喋る。


 やはり廃人同然の者に事情聴取は厳しいか、と私が思った瞬間──屋久は虚空を見ながらこんな事をつぶやいた。



『ぐくっ、俺は悪魔に会ったぬだ。悪魔が地獄から這い上がって来たんぁ、そんで、女を殺したんぁ』



 たわけた戯言ざれごと、だがどこかその発言は私の中に引っかかった。


 帰り道に屋久の言った言葉を脳内で反芻はんすうすると、ある可能性が浮かび上がった。


 もしかすると──、私は急いで事務所に戻り事件を洗い直す。


 すると、今まで全くノーマークだった容疑者三人の内の一人が猛烈に怪しくなった。


 そのは事件当日にあの現場ビルにはいなかった……だが、そいつ・・・ならこの事件を不可能から可能にするある"力"を持っていることに気づいたのだ。


 私はその男について調べに調べた。大変な作業であったが、数ヶ月の調査でその男の過去や素性を丸裸にすると、やはりきな臭い・・・・


 男は被害者の女性に会いに頻繁に店に通い、好意を持っていた可能性が大である。もしや何か痴情のもつれがあったのかも知れない。


 屋久に続く、犯人にもっとも近い男はこいつだと私は確信した。


 時間はかかったが私はこの依頼の成果を依頼者に報告すると、依頼者は深々と頭を下げてお礼を言ってきた。


 後はこの報告書を彼が警察に見せ、隠れた事件の真相を暴き、本当の意味で解決することを望むだけだ。


 探偵として私は全力をそそいだ。その努力が報われたのか、また私に大きな依頼が舞い込んだ。


 今度は、数ヶ月前に亡くなった親族の事故の真相について調べてくれとの依頼だった。


 依頼者の女性はとても強い怒りをあらわにしていた。どうやらこれも何か"裏"がありそうな事件だと私は踏んだ。


 依頼者の親族はどうやら今度の東京オリンピックに関する者達で、事故死をしたのだがどうもこれが不自然だ。


 私は前の依頼の経験則から、手際良く事件を細かい所から洗っていく。


 すると、きな臭い話題が出るわ溢れるわで思わず我が目を疑ってしまった。


 五輪会長の死による席の争い、オリンピックを巡る各スポーツ界のバトルトーナメント、容疑者となる者があまりにも多数…………まるで非現実的な事件に思える。


 しかしどこか嫌な予感があった。実は先の依頼、私の調べたあの殺人事件の容疑者もスポーツ界の関係者だったからだ。


 今この日本のスポーツ界は、どこか陰惨な雰囲気が漂う。私はこの事件とは別にしても、プロスポーツ界隈における様々な調査をする必要があるなと確信した。


 私は事件当日の被害者の動きから周辺の聞き込みと、防犯カメラのチェックをさせて貰いながら穴を埋めていった。


 すると、やはり事件数日前に被害者が乗る車に何者かが近づいていた情報と映像を入手することができた。


 依頼者に電話で進展について軽く報告をすると、喜んでくれた。後はこの映像を解析し、怪しい人物を絞り込んで行くだけだ。


 私はさっそく整理のため事務所に戻ろうと自分の車に乗る。すると、首筋にバチッと衝撃が走り、私は意識を失った。





 ──気がつくと、辺りは夜になっていた。外からは波の音が聞こえる……波の音……?


 そう、何故か私は知らない漁港にいた。頭が混乱するが、それ以上におかしな点が沢山あった。


 私の手は車のハンドルに紐でガッチリと固定されており、足はアクセルを踏むように固定されているのだ。


 なんだこれはと、叫ぼうにも口にはガムテープが貼られていて声も出せない。


 するとエンジンのかかった車が急に進み出した。当然だ、私がアクセルを踏んでるのだから進むに決まっている。


 問題なのは目の前が夜の闇に染まる"海"だという事だ。私は塞がれた口から目一杯の叫び声を上げる。


 一瞬バックミラーに人影が映り、顔が見えた。そうか、奴は私が追っていた犯人に違いなくて、真相に近づいた私を消そうというのか。


 そんな事が頭によぎった瞬間には、もう車は漁港から勢いよく飛び出して夜の海へとダイブした。


 深く、暗い海に沈む車のフロントガラスから見える景色はまさに暗黒そのものだった。そしてその闇が隙間から徐々に車内を浸水する様子を見て、私は震え上がった。


 迫りくる確実な死の恐怖、私は現実逃避するように走馬灯を正面のガラスに映した。


 ──ああ、私は、私の人生は"普通"だった。普通とは違う人生を望んだ結果が、この人生の終着に行き着いたのだ。


 私は一時いっときであるがシャーロック・ホームズになれたのであろうか、数々の依頼者達の役に立てただろうか。


 迂闊うかつであった。さながら相手はモリアーティ教授と言った所か、ああホームズなら、私がホームズならばこんなヘマはしなかっただろうに。


 もう海水は腰をつかり、ものの一分もすれば私はこの海と一つになるだろう。


 最後に思うことは何か──生んでくれた両親への感謝、もう十年はあってない友人達への別れ、真相を暴けなかった依頼者への謝罪…………。


 私を、私の人生を変えたあのゴミ捨て場、名探偵に憧れを抱いた私は間違いなく今この瞬間まで生きていた・・・・・よ。




 ああホームズなら、彼ならば最後に何と言って死ぬのだろうな。









 ──美しい満月の夜の事であった。海に映る月は溶けるように輝き、その月下で名探偵は静かに姿を消した────。







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