第17話 出場権



 パンパンパン、とサンドバッグを叩く乾いた音、南方ボクシングジムから小気味よくそんな音が聞こえるが、サンドバッグを打つ張本人は浮かない顔をしていた。


「……どうした覇気がねえぞ覇気が。糞の詰まった犬みてえな顔をしてるんじゃねえ」


 熊三が注意するも、東谷の顔はどこか納得のいかぬ顔をしていた。


 あの夜、トーナメントの出場権を賭けた西山との勝負から一週間がすぎていた。


 受けた体のダメージは良くなったが、心はそうはいかない。


 東谷は一人の『漢』として勝負に負けたのだ。西山は強かった、単純に技量の差が目に見えて違い、特にスピードに関してはお手上げだ。


 それに一番奴の強さを感じたのは、その精神力──胸の内に宿る恐ろしく強い信念のようなものを、攻撃を通じて感じさせられた。


 まさに手も足も出ないとはこの事だ。自分は負けたのだとここまで強く痛感したのはいつ以来だろうか、いつも上がり調子な東谷だがそのショックは大きい。


「お父さん……ケンちゃんは──」


「みなまで言うな洋子、わかっとる。喧嘩自慢の自分が負けたのがショックってとこ……だが、これでよかったんだ。これで奴はボクシングに集中できる訳だ、あんな危ねえ大会なんぞ出る必要はなくなったんだ」


 熊三はうんうんと頷きながら己を納得させる。


 すると、古びたジムの扉が不快な音を立てながら開いた。


「──拳、体調はどうだ?」


 扉から入って来たのは中嶋監督であった。


「監督……! すまねえ、俺──」


「おっと詫びはいらん。まあ座って話そう、南方さん達も少しいいですか」


 中嶋監督はそう言うとパイプ椅子に腰掛ける。南方親子も含めて全員が集まると、監督は渋い顔をして話し始めた。


「まず、先日はお疲れ様だったな拳。惜しい試合だった、相手が上手うわてだったな」


「……惜しくもなんともねえよ、ありゃ俺の完敗だ。自分の弱さに腹が立つほどにな……」


 俺は拳を握り、わなわなと震える。


「監督さん、今日はどういった用件で……?」


 熊三がどこか警戒しながら聞く。


「はい、今日は──」


「監督! もう一回なんとかできねえか!? 俺、このままじゃ駄目になっちまいそうだ。あいつに負けた日からこの胸のモヤモヤが取れねえ! 俺にもう一度チャンスをくれ!! 次はぜってえ勝つ!!」


 監督が話し出したタイミングで、俺は机を"バン"と叩きながら立ち上がり言った。


「お、おい拳坊、おめえまだあのリングに立ちてえのか」


「──中嶋監督さん、私からもお願いしたいです。ケンちゃんを……もう一度あのリングで戦わせてあげたいです」


 熊三はうろたえたが、洋子は東谷の意見を尊重するように訴えた。


「アホ! 洋子おめえ拳坊がボクシングできなくなってもいいのか!?」


「違うわ、このままケンちゃんはボクシングをやっても絶対結果が振るわない。お父さんは今の状態を見てわからないの? ケンちゃんはあのリングで全てを出さない限り、一生負けた気持ちを引きずる事になるわ! それは一番よくない──結果はどうあれ、全力を尽くしてもう一度戦うべきだと私は思うのよ」


 意見の食い違いに南方親子は対峙するよう睨み合う。


「まあまあお二方、どうか落ち着いて下さい。誠に残念ですが先日の試合結果は見ての通りです。我々野球協会は負けたので、今トーナメントには本選選手として出場できません。これは変わらぬ事実です」


「監督……どうにかなんねえのか!?」


「拳、ガキじゃねえんだ。勝ちは勝ち、負けは負けだ……だが、今日はそのトーナメントについてちょっと話しがあって来たんだ」


 往生際が悪いのは承知だ、しかし今の俺は藁にもすがる思いだ。そんな俺を見て、監督はもったいぶるように話し始める。


「この『スポーツマンバトルトーナメント』はスポーツ協会の他に一般職から参戦できる枠があるんだ。俺はそこに賭けてたんだが……」


「おおおお! そんじゃあ俺がそこから参加して勝てば出場できんのか!?」


「……その予定だった・・・・・・・。だが駄目だ、一般枠からの出場権を賭けた大会は我々が試合をした当日に、もう終わっていたのだ。そんな裏技はできないってことだ」


 思わぬ朗報に飛び跳ねた俺は、つかの間の杞憂であったことにガクっと肩を落とした。


「なんだよ! それじゃ本気の手詰まりって訳かよ……」


「中嶋監督さん、もう本当に無理なんでしょうか」


 洋子が懇願するような目で訴える。中嶋監督は口をへの字にして頭をかしげた。


「中嶋監督さんよ、なら今日は拳坊をねぎらうために来たんで?」


「いえ……私──いや、野球協会はある賭け・・を打って今日はここに来ました。その結果がそろそろ電話にかかってくる筈です」


 そう言うと監督は自分の携帯電話をテーブルに置いて、じっと見つめた。


「賭け……? いってえどんな──」


 熊三が不思議がると、携帯電話がピロピロと鳴り出した。


「──! 失礼」


 監督が急いで携帯を取ると、静かに話し始める。


「……はい……はい、ええ……なるほど──わかりました。では、そのように──」


 どこか重い雰囲気の電話、一同はそれを黙って見守る。


「──ふう」


「監督、なんの電話だ? ずいぶんと緊張感があったじゃねえの」


 俺が頭を掻きながらたずねると、監督はこちらを真剣な目で見てきた。


「拳──やったぞ、お前の『スポーツマンバトルトーナメント』の出場権を勝ち取った……!」


「────へ?」


 しんと静まりかえるジム、一同は互いの顔を見合ってぽかんと口を開けた。


「えっ、俺、出れんのか!?」


「出れる。いま野球協会は出場権を勝ち取った・・・・・、とりあえずは一安心と言うことだ」


 監督は冷や汗を拭いながら一息つく。


「お、おう?? 一安心なのか??」


「監督さんケンちゃんは出れるんですね! でもどうやって……?」


 俺と洋子ちゃんが不思議な安堵と混乱をする。


「どういうこってす? まさか買収とか──」


「いえ、順を追ってお話しします。実は先日の負けで出場権を失った野球協会ですが、このままでは終われないとの事でゴネ・・ました。

その結果──敗者となった協会の中で出場枠を"2枠"だけ貰えたんです。その2枠を賭けて本日オークション形式で競りが行われました。それで先程の電話で見事に競り落としたと連絡が入った訳です」


 クマのオッサンが聞くと監督は淡々と事実を述べる。


「そ、そんなことありなんですかい!?」


「"あり"にしました。スポーツ協会の中でも我々『野球』ははっきり言ってかなり強い発言力があります。とは言ってもタダ・・じゃありません、恐らく相当な金額を各方面に献上した事でしょう。

そしてオークションでもかなりの大枚を叩いたに違いないです。それほどまでに野球協会は本気です、あのごうつくばりの会長もだいぶ無理をしたと見えますね」


 監督は自分でも言ってる事に現実味が無いように、深く息を吐いた。


「あの会長クソ、よっぽど優勝したいらしいな……! よっしゃ、ならその権利俺が充分に活かして、優勝してやらーな! しかし笑えるな、俺と監督が会長てめえの首を狙ってるのを知らずにここまで追い風吹かしてくれるとはな、たっぷりあだにして返してやるぜ……!」


 俺は笑いながらガッツポーズをする。このチャンスはデカい、これで奴とももう一度戦える──!


「……とんでもねえ話しだったが、どこまでもとんでもねえよ。わしは今、どういう感情になりゃいいんだ」


「お父さん、ここはケンちゃんを全力で応援して私達親子も腹をくくる所よ。どうあれケンちゃんが頑張ってくれなきゃ、このジムも終わりなんだから!」


 洋子が熊三の腕を取る。土壇場なのはここにいる誰もが一緒であるのだ。


「よし拳、経緯はどうあれ第一関門は突破だ。お前はこの大会──リザーバー・・・・・として出場するんだ」


「よっしゃーー!! 出場だあッ!! 大会だあ!! リザーバーだあ!! ……………………ん? リザーバー??」


 高く上げられたこぶし、しかし俺は何か監督の言葉に違和感を覚えた。


「リザーバー……ってなんだっけ」


「リザーバーはリザーバーだ。つまりお前は出場者の誰かが辞退したり、途中で戦えなくなったりした場合のみ、本選で戦う事ができるんだ」


 またしてもジム内がしんと静まり返った。誰もが顔を見合って状況を確認するように様子を伺う。


「え……じゃあ、俺は、なんだ、あれか? "代打"ってことか…………?」


「そうだ、代打だ。これしか方法は無かった、無理矢理に大会にねじこんだだけでもラッキーだと思った方がいい」


 がくーーッ、と力が抜けた。地面に落ちたソフトクリームのように俺が伏すと、南方親子もまた口をアホのように開けてぽかんとした。


「な……なんだそりゃ……代打なら、出れないで終わるかも知れねーじゃねえか……」


「我々は一度負けたんだ、仕方あるまい。だが逆に考えればリザーバーは一番美味しいポジションでもある。例えば決勝戦で片方の協会が棄権すれば、それだけでお前は一勝もせずとも決勝の舞台に立てるんだ。タイミング次第ではかなり有利な状況で大会に参戦できるとも言える」


 監督は渋々と懐から出したタバコを吸いながら話す。


「リザーバー……あっ、もしかしてそれって──」


「お嬢さん察しがいいですね。各スポーツ協会がこのリザーバーシステムを採用したのにはちゃんと理由があります。

そう、奴等は"保険"が欲しい訳です。もし本戦中に自分の闘技者が続行不能となった時に『代役』が欲しい、だからリザーバーという形で敗者を本戦出場させたのです」


「やっぱり……じゃあ出場するにも"条件"がある訳ですね?」


「その通り、奴等はリザーバーを使う場面になったらこちらに条件を突きつけて来るでしょう。妥当な所で賞金の半分以上の提示、それと絶対条件でオリンピック会長の座を指名する事を言ってくる筈です。

もちろんこちらにも五輪関係でそれなりのポジションの約束や、多少の融通は聞いてくれると思いますがそれは我々には関係無い。

私と拳の目的はあくまでも野球協会の腐敗を世に暴くこと、金も地位も言ってしまえば無価値です」


 洋子が皆まで言うまでもなく監督はその一切を説明した。


「でもよ監督、もしも奴等が代打リザーバーを使わなかったらどうすんだよ」


「それは運が無かったと思うしかない。残念だが今できる全ての手は打った、後は風に乗ったボールがファールゾーンに切れるか否かは誰にもわからん。我々も腹をくくるほかあるまい」


 チリチリとタバコが燃え、やや震えた手から灰がぽとりと落ちる。心なしか監督も不安なようだ。


「……わかったぜ、明日は明日の風が吹く……なら俺も今できることをやってやらーな。監督、洋子ちゃん、クマのオッサン──皆でちょっくら地獄の綱渡りと行こうぜ……!」


「そうね、一致団結する時ね。ほら、お父さん! もっとシャキッとしてよ」


「…………わかった、わかったよ! 漢、南方熊三──責任を持ってこいつを強くしてみせらあ! 見とれ、今にこの南方ボクシングジムを世界に轟くジムにしてやるからな! そうと決まれば明日から山籠りだ! ジョー! わしの猛特訓についてこれるかあ!?」


「ジョーじゃねえっての! ……へへっ、しかしノリが良くなってきたじゃねーか大将! いっちょ必殺パンチでも引っさげてトーナメントに殴り込みに行こーぜ!!」






 ──本選トーナメントまで後、四ヶ月のことであった。


 紆余曲折うよきょくせつながらも、運命は進む。まだ見ぬ猛者達が渦巻く、過酷なトーナメントが日に日に近付くのであった────。







 日本プロ野球連盟代表──『東谷 拳』、スポーツマンバトルトーナメントリザーバーとして出場決定──!






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