2、

 それから四年が過ぎ、ぼくは十一になった。十五になった姉は、家族の食い扶持を稼ぐため、花街に働きに出るようになった。とはいっても、下働きも下働きだ。洗濯や洗い物をしたり、掃除をしたり。水仕事のせいか、姉の手はいつも荒れていた。

 ぼくも、学校に行きながらとむらい屋を手伝った。近頃騒がれている「近代化」によって、ぼくみたいな子どもでも学校に通えるようになったが、影響はそればかりではなかった。とむらい屋の仕事は、少しずつ減ってきている。お役所がなきがらの処理を受け入れ始めたのだ。お役所が預かったなきがらは、そのまま機械的に処分されるらしい。主に若い人たちを中心に、なきがらはお役所に引き取ってもらう風潮が広まってきている。父が酒を飲みながらぼやいていた。

 それでも、信心深い人たちは、変わらずこの「とむらい屋」を利用する。とはいえ、生活は姉の稼いだお金を中心に成り立っているようなもので、食事はいつも粗末なお粥ばかりだった。

 そんな折、父が腰を悪くした。重いものを運ぶとむらい屋の仕事は、思うようにできなくなった。父は毎日のように安酒を浴びるようになり、お粥に入れる雑穀は日に日に少なくなった。言葉少なだが、淡々と仕事をこなしていた、かつての父の姿はなくなった。父は最近ずっと不機嫌で、虫の居所が悪い時には、殴られることもあった。

 家の中にいれば父の暴力に遭い、かといって学校に行けば、誰もぼくと目を合わせてくれないし、話しかけてもくれない。時には、「死体くさい」と言って、ぼくが教室に入るだけで鼻をつままれる。……慣れては、いるけれど。次第に学校には行かなくなった。

 そんなある日。ぼくが空の荷車を引いて帰ってくると、父と姉の口論する声が聞こえた。

「こんなにいい話はないんだ。お前みたいな忌み子を、『これほど器量のいい娘はめったにいない』なんて言ってくれているんだぞ。今までよりずっといい暮らしもできる。玉の輿だって狙えるかもしれない」

「でも……私は……」

「もらえる金だって、今とは比べ物にならないだろう。リイチやおれの暮らしだってずっと楽になる。……とにかく、もう決まったことだ」

「だけど……」

「いい加減にしろ! 親に口答えするのか!」

 大きい物音がして、ぼくは慌てて家の中に飛び込んだ。暗い顔をした姉の傍らで、見たこともないようなごちそうが、無惨に床の上に散らばっていた。

 ぼくに気づいた二人は、そろってばつの悪そうな顔をした。姉はそのままうつむいていたが、父はすぐに上機嫌に戻り、「お前も飲むか?」と杯を進めてきた。ぼくはふるふると首を横に振る。

 その瞬間、姉は勢いよく立ち上がり、玄関から走り出て行ってしまった。

 ぼくは急いで姉の後を追った。姉は家から少し出たところで、ぼうっと立ち尽くしていた。

「私、売られるのよ……。もうここには帰って来れない……」

 話している途中で、姉の声には嗚咽が混ざりはじめた。

「リイチ。私のかわいい、弟……。姉さんのことを忘れないでね」

「うん……」

 ぼくまで少し泣きそうになった時。姉が息を呑む音がした。

「姉さん、どうしたの?」

 ぼくが尋ねても、返事はない。姉は吸い込まれるようにどこかを見ていた。ぼくもつられて視線の先を見るが、そこにはいつもと変わらぬ街並み以外、何もなかった。

「姉さん?」

 ぼくの声に、姉ははっと我に返った。

「なんでもないの……。ねえ、リイチ、先に戻っていて」

 どこか胸騒ぎがしながらも、ぼくは大人しく言うことに従った。ぼくが途中で振り返ったとき、姉はまだ虚空を見続けていた。

 次の日、姉は豪奢な馬車に迎えられ、花街へと旅立っていった。

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