外伝:兄と、弟。

 ──俺は、弟が嫌いだ。

「にいさま、にいさまっ、ふぎゃっ!」

今しがた俺を追いかけて屋敷の廊下を走り、何もないところで盛大にころんだ、この弟、ノアが。

 俺はため息をつき、嫌々後ろを振り返る。顔面から転んだらしいノアは、大きな瞳に涙を溜めながら俺を見上げていた。

「何をやってるんだ、ノア」

「ごめんなさい、にいさま……」

もう五歳にもなるというのに、まともに歩けすらしないのか。

 俺は首を振り、仕方なくノアを起こしてやった。服の埃を払い、ぼさぼさの髪を梳いてやる。

「へへ、へへへ、ありがとうございます」

ふにゃっふにゃに笑うノア。俺の中の苛つきは更に増幅した。

 こいつには、アズナヴール一族の本家の子供であるという意識が全くない。いつもへらへらふにゃふにゃ笑い、俺のあとを追いかけては転ぶ。本当に勘弁してほしいものだ。

「お前、召喚術は出来るようになったのか」

「ふえ」

俺の質問に、ノアは思いっきり目を泳がせる。案の定だ。

「俺はお前の歳くらいには、弱い魔獣くらいは普通に召喚できたぞ。全く、そんなだからエステル母様に厳しい言葉を掛けられるんだ」

「ぅう、ごめんなさい……」

うつむき、心底申し訳なさげな顔をする。俺は再びため息をついた。

「謝れば済む問題じゃない。俺を追いかけてなんかいないで、ちゃんと勉強して練習もするんだ、いいな」

「はい、にいさま……」

しょんもりと口を尖らせるノア。俺は若干心が痛むのを感じつつ、立ち上がった。

「……で、なにか用があったんじゃないのか。それともまた特に用はないが追いかけていたパターンか?」

ノアは俺の言葉にぱっと顔を上げ、嬉しそうにその場でぴょんぴょんとジャンプを繰り返す。

「あのっ、用、ありますっ!」

これ! と一冊の絵本を手渡される。

 これは父上の書庫にあった古い絵本だ。最強の神獣、バハムートの伝説を描いたもの。

「これがどうした?」

「しんじゅうバハムート、すごいです! 召喚できたら、すごいですっ!」

「神獣バハムートを召喚……?」

俺の眉間に思いっきり皺が寄る。よくもまぁそんな大それたことが言えたものだ。

「お前には無理だぞ、ノア」

キラキラの瞳で見上げていたノアに、俺は冷たい言葉を吐く。

「神獣なんてアズナヴール家の長い歴史の中でも二、三人しか召喚できた記録がないんだ。ましてや最強神獣だなんて。あんまりそういうことを外で言うんじゃないぞ」

「ちがいます、ぼくじゃないです」

ノアは、俺の服をちょんと掴み、引っ張った。こちらを見上げてくる。

「にいさまなら召喚できるとおもったです」

「はあ?」

「にいさま、すごいから! きっとできるとおもいますっ」

ノアの言葉に、俺は思わず乾いた笑いが出てしまった。本当に馬鹿な奴だ。

 俺は確かに幼少期から優秀で、母様にも、お忙しい父様にも、次期当主としての期待を掛けられて育ってきた。俺はずっと、それに応えるために必死に努力し続けてきた。自分でも優秀である自覚はある。

 だが、それでも神獣バハムートはあまりに夢物語だ。

「俺でも無理だ。無意味な期待を掛けるな」

「えぅう……」

ノアは絵本を抱き締めながら、また悲しげに顔を伏せる。期待なんてもうこれ以上は要らない。やめてくれ。

「……銀の花、あったらできますか?」

おずおずと、ノアは絵本のとあるページを見せてくる。

 召喚された神獣バハムートが還る時、その場に銀の花が咲き誇ったというシーンだ。銀の花には不思議な力が宿っていて、再び自分の力が必要になったときはこの花に祈りを捧げろと神獣バハムートが言い残す。

 俺は知っていた。その絵本は小さい頃になんども読んだからな。

「銀の花があっても無理だ」

俺は首を振る。絵本を真に受けているようでは、ノアが召喚師として立派になる日は遠いな。俺に絵本を差し出した体勢のまま落ち込むノアを置いて踵を返す。

 早く勉学と修練の続きをしなければ。

 俺はもうすぐ十歳の誕生日を迎える。誕生日パーティーが開かれるその時には、アズナヴールの一族を集めて修行の成果を発表しなければならないんだ。

 これ以上馬鹿な弟に構っていても時間の無駄だ。俺は若干心に湧いた後ろ髪を引かれる思いを無視し、その場から立ち去った。


 家庭教師の授業を受け、その後、自分で勉学を進める。

 自室で黙々とペンを進めていたら、背後のドアがノックされた。

「どうぞ」

入ってきたのは、母様、エステル・アズナヴールだ。召使いを従え、いつものように扇で口元を隠しながら、うふふと俺に笑いかける。

「レオ、調子はどうかしら」

「はい、問題なく」

「それはよろしいことね」

母様は、俺にはとても優しい。何故だかは分かっている。俺が期待通りに優秀だからだ。

「もうすぐ十歳の誕生日パーティーね。楽しみだわ」

「はい」

おそらく、というか確実に、誕生日パーティーよりもその後に行われる俺の召喚術のお披露目のほうが楽しみなのだろう。

 母様のお眼鏡に叶う召喚獣を召喚し、一族の者たちを驚かせなければならない。全くもって気が抜けないことだ。

 母様は俺の頭を撫でながら、猫なで声で言う。

「愛しいわたくしの息子……きっと立派な王家召喚師になるのでしょうね」

なるのでしょうね、ではなく『なれ』ということだ。俺はよく分かっている。

「はい、母様、ご心配なく」

「うふふ、さすがわたくしの息子だわ。期待していますからね」

「はい」

母様は優しい微笑みを見せてから、部屋を出ていった。

 母様はよく俺のことを『わたくしの息子』と呼ぶ。まるで息子はただ一人だとでもいいたげに。

 母様は俺には優しいが、ノアにはとても厳しい。

 一般的な召喚師が出来ることがなかなか出来ないノアに、母様は最近興味を失ってきている様子すらある。だが、ノアはまだ五歳だ。もうすこし様子を見てもいいと思うが、それを言うと機嫌を損ねてしまうので俺は黙っていた。こんな兄の行動に気づいた時、ノアは失望するだろうか。

「……」

はあ。雑念が入ってしまった。俺は顔を振り、余計な思考を消す。

 今は頑張らなければいけないときなのだ。母様や父様、一族の期待を裏切る訳にはいかない。

 俺は勉学を、修練を続けた。寝る間も惜しんで、連日ずっと。


 そうして俺は、誕生日前日に体調を崩したのだった。


 はあ……。

 母様の深い深いため息が聞こえる。

「旦那様が明日のパーティーは中止にしろと仰せになったわ。このまま寝てなさい」

寝室のベッドで横になる俺に、母様は吐き捨てる。父様がそんなことを……。

「いえ、俺は……」

「旦那様、当主のご決定よ? 逆らうんじゃありません」

すっかり不機嫌な母様に、俺は申し訳ありません、と小さな小さな声で呟いた。

「全く、体調管理の一つもできないなんて、貴方にしては珍しいことね、レオ」

「はい……」

ふんっと鼻を鳴らし、母様はあとのことを召使いに命じて去っていった。ドアが強めに閉められる。ああ、怒っていらっしゃる。

 正直、無理してでも出席したかった。我ながら本当に馬鹿だ。こんなことで倒れるなんて。熱のある頭でぐるぐると後悔と懺悔が駆け巡る。

 どうすればいい。ここから挽回するには。期待を取り戻すには、どうすればいいんだ。本当に情けないことだが、目頭が熱くなり、泣きそうになってしまった。

 その時、きぃ……と控えめにドアが開く。

「にいさま?」

ノアか。ぽてぽてと駆け足でベッドまで駆け寄り、そばに置いてあった椅子によじ登って、ノアは俺の顔を覗き込んだ。

「にいさま、だいじょうぶですか?」

「……ああ」

俺は頬の裏を噛み締め、出そうになっていた涙を必死に抑えた。ノアの前で泣くわけにはいかない。兄の威厳としてもあるが、俺が泣いたらおそらくノアも大泣きする。面倒なことになりそうだった。

「にいさま、おねつ?」

「……ああ」

さっきと同じ返事をしてしまう。ノアはその小さな手で俺の肩をぽんぽんと叩く。寝かしつけるように、優しく。

「にいさま、あしたはパーティーしないのですか?」

至極純粋に聞いてくるノアの言葉に、俺の心は揺れる。

「そう、だ。父様が中止にしろと仰った」

「そうですか」

いやだと駄々をこねるでもなく、ノアはこくりとひとつ頷き、俺の寝かしつけを続ける。

「……俺は」

どうしてだろう。ノアに言っても仕方がないのに。気がついたら、弱音が口から出ていた。

「もう、駄目かも知れない」

「えっ」

ノアは驚いたように目を丸くする。そして、くしゃりと顔を歪めた。

「にいさま、しんじゃやだぁ……」

「あ、ああ、そういうことじゃない。俺は死なないよ」

体調のことだと思ってしまったらしいノアは、ほんとうですか? と唇をかみしめている。

「いや……すまない。今回は母様と父様の期待に応えられなかったからな。そういう意味でもう駄目かもしれないということだ」

「どういういみですか……?」

ノアには少し難しかったようだ。俺は、少し苦笑を浮かべた。

「すごい召喚獣をお見せしなければいけなかったが、それが出来なかったから嫌われてしまうかもしれないということだ」

「にいさま、きらわれるんですか?」

そうだな。きっとここから挽回しなければ。

「ぼくは、すごい召喚獣いなくても、にいさまのことすきです」

へにゃ、と笑うノア。俺は心の奥が温かくなるのを感じた。それはもしかしたら発熱のせいかもしれないが。

「ふ、ありがとうノア」

「えへへ」

どうやったら、こんな家に生まれてそんな純粋な笑顔を見せることが出来るのだろう。どうして、こんな兄にその笑顔を向けることが出来るのだろう。本当に理解が出来ない。

「そろそろ自分の部屋に戻りなさい」

俺はノアを促す。彼は少し名残惜しそうにしつつ、大人しく部屋を出ていった。

 ノアの純粋さ。あれだけは、あいつの才能なのかもしれないな。俺はぼんやりとそんなことを考えながら、いつの間にか眠ってしまっていた。


 何時間経ったのだろう。廊下の騒がしさに、俺は目を覚ました。

 窓を確認する。月明かりが照る夜だ。多分、あのあと半日ほど寝たのだろう。頭が少しだけすっきりしている。熱が下がったのかもしれないな。

 それはそれとして、この騒がしさは何なんだ? 俺はベッドから出て、靴と上着を身に着け、廊下の様子を確認する。

 召使いたちが慌てた様子で駆け回っていた。

「おい、何があったんだ」

目の前を通りかかったひとりの召使いをつかまえて尋ねる。召使いは、真っ青な顔でああ、レオ様……! と声を上げた。

「ご体調はもうよろしいのですか? 申し訳ありません、今大変でして」

「だから、なにが大変なんだ」

「ああ、ああ、実は……ノア様の姿がどこにも見当たらないのです」

「ノアが?」

どういうことだ? あいつがこんな夜中に姿を消すなんて、今まで一度もなかったぞ。

「屋敷の中は探したのか?」

「はい、召使い総出で探しておりますが、未だどこにも……」

「外に出た可能性は?」

「なくも……ありません。屋敷の扉は施錠されておりませんでしたので……」

その時、もうひとりの召使いがこれまた慌てた様子でこちらに走り寄ってきた。

「大変です! 庭師の者が日が暮れる頃に屋敷を出ていくノア様を見かけたと申しております!」

「日が暮れる頃!? もう数時間は経っているじゃないか!」

俺の怒号に、ふたりの召使いは縮こまってペコペコと頭を下げる。

「くそっ、どっちの方角へ行ったか分かるのか!?」

「確か、北西の森の方だったと……」

なんだって? あっちの方角は魔物が出るんだぞ!

「レオ様! お待ち下さい!」

気がついたら、召使いの制止も聞かず、俺は全速力で廊下を走り出していた。


 今日が満月で良かった。

 月明かりが大変明るく、夜の森でも十分な光源。ランタンも持たずに出てきた自分に舌打ちをしたが、なんとかなりそうだ。

 俺は屋敷から北西に位置する森に来ていた。ここはアズナヴール家の敷地の中ではあるが、そのまま進めば首都の外の山の方へと続く森。野生動物や魔物も入り込んでいたりするため、普段は人が寄り付かない場所である。

 こんなところにノアが来たのか? あの怖がりのノアが?

 にわかには信じられないが、屋敷にいないのであれば外を探すしかない。俺は注意深く周囲を見渡しながら、なるべく音は立てないように森を進んでいく。

 そうやって数十分歩き回った。

 さすがに体調を崩していた身だ。頭が回らなくなり、足取りも重くなってきた。一度帰ったほうがいいだろうか。そう思った時だった。

「ひいいっ!」

右方向から悲鳴が聞こえた。ノアだ!

 俺は力を振り絞り、その悲鳴の元へと走った。


 草木をかき分け辿り着くと、今まさに、ノアが魔物に襲われているところだった。

 涎を垂らしながら唸り声を上げてノアを追い詰めている一匹の怪物。それは狼型の魔物、オルトロスだった。

 ノアは木を背にし、今まさに食い殺さんと口を開けるオルトロスを見上げている。

「やめろッ!!」

俺は咄嗟に、足元にあった石をオルトロスに投げつけた。それは奴の背中に当たったが、特にダメージを負った様子もなく、オルトロスはゆっくりとこちらに気付く。

「にいさま!?」

くそっ、杖か武器を持ってくればよかった。俺は木の枝を拾い上げ、こちらに向き直るオルトロスに突きつける。

 どうする、どうする。また熱が上がってきた気がする。思考が上手くまとまらない。とにかく、なんでもいい、なにか魔獣を召喚して、倒すんだ。

「こ、来い! 魔獣キマイラ!」

過去、召喚したことがある魔獣の名を呼ぶ。しかし、何も起こらない。

 くそっ、全く集中できていない!

 オルトロスはじりじりと俺に近づいてくる。獲物を、体の大きい方の俺に切り替えたようだ。次の瞬間、オルトロスが俺に飛びかかってきた。

「っ!」

後方に跳んで避ける、が、その鋭い牙が俺の腕をかすめた。

「ぐあっ」

「にいさま!!」

血が吹き出す。俺は握っていた枝を落としてしまう。腕を抑え、再び距離を詰めてくるオルトロスから必死に距離を取った。

 なんて情けない。あれだけ優秀だなんだと持て囃されておきながら、肝心な時に何も出来ないのか。こんなだから、母様や父様にも見放されるのだ。

「にいさまっ!!」

その時、ノアが俺とオルトロスの間に飛び込んできた。その小さな両手を広げて、必死に俺を庇っている。

「に、に、にいさまに、てをだすなぁ!」

ノアははち切れんばかりに叫ぶ。小さな体は震えていた。

 どうして、俺を庇ってくれるんだ。こんな、弟ひとり満足に助けられない情けない兄を。お前は、どうして。

 俺の目からは、気がついたら涙が零れ落ちていた。死にたくない。弟を死なせたくない。もう、優秀じゃなくて良い。

 これが最後のチャンスだ。俺は召喚術の詠唱を呟く。

「頼む、弟を……」

俺は強く強く願いを込めた。俺を中心に風が吹き荒れる。オルトロスは、ふたりまとめて仕留めようと地面を蹴った。

 牙と爪が眼前まで迫る。俺は、右手を天に掲げた。


「弟を、助けてくれ!!」


 闇。紫を帯びた強い闇が俺の頭上で爆発した。

 オルトロスが驚いて後ずさる。

「これ、は……」

俺とノアは闇を見上げる。そこから出てきたのは、三つ頭を持つ、あまりに巨大な犬の化け物。もちろん、その名前は知っていた。

「幻獣ケルベロス──」

幻獣ケルベロスは三つの頭をもたげ、オルトロスを睨みつける。その瞬間、真ん中の顔がオルトロスを丸呑みにした。小さく短い悲鳴をあげ、オルトロスは幻獣ケルベロスに食い殺されてしまったのだった。


「はわ……」

ノアがへなへなと地面に座り込んだ。幻獣ケルベロスに目を奪われていた俺は、我に返ってノアの元へ駆け寄る。

「おい、大丈夫か!?」

「は、はいぃ、にいさまぁ」

あんな状況だったのに、ノアはへにゃりと笑う。ノアは俺よりもずっと強い。俺は心からそう思った。

 その時、幻獣ケルベロスがゆっくりと鼻先をこちらに近づけてきた。俺はその鼻先にそっと手を置き、一瞬躊躇った後に優しく撫でる。幻獣ケルベロスは嬉しそうに鼻を鳴らした。

「俺と、契約してくれるのか、幻獣ケルベロス」

ぐるる。幻獣ケルベロスは、小さく鳴く。

「ありがとう。ありがとう、弟を助けてくれて……」

俺はまた涙が溢れてきてしまった。いけない。これはきっと体調不良のせいだ。

「幻獣ケルベロス、すごいです。さすがにいさまです」

ノアが小さくつぶやき、なにかを服の中から取り出した。

「これ、ひつようなかったです」

「?」

それは、小さな白い花だった。

「銀の花」

ノアは、白い花を月明かりに掲げながら言う。

「さがしたんですけど、みつからなくて。すみません。こうしたら……銀色にみえるなあっておもって」

確かに、月明かりが反射した白い花は、銀色に輝いているようにも見える。

 俺は全てを理解した。

 昼間、「すごい召喚獣を見せられなかったから嫌われるかもしれない」と言ったこと。ノアはそのことを気にして、絵本の中にある銀の花を探しに森まで来たんだ。俺に、神獣バハムートを召喚させようとして。

 全ては俺のため、俺のせいだった。

 俺は息を吐き、目を伏せた。

「ノア……悪かった」

「にいさま?」

そして、なるべく優しく微笑んでやる。

「もう大丈夫だ。ありがとう、お前のお陰で、幻獣ケルベロスが来てくれた」

「ほんとうですか? よかった……」

ノアは、心の底から安心したように笑った。ノアから受け取った白い花を、俺は木の根のそばにそっと置いた。

「神獣バハムートはそれに相応しい人間のもとへ顕れるさ。きっと、素晴らしい人間のもとにな」

幻獣ケルベロスがふんふんと鼻を鳴らす。どうやら屋敷まで送ってくれるようだ。

「ノア、幻獣ケルベロスの背中に乗せてやろう。おいで」

「わあ……!」

俺はノアを抱きかかえ、幻獣ケルベロスに乗せる。その後俺もよじ登り、幻獣ケルベロスの硬めの毛を撫でた。

「すごいです、にいさまっ」

弟が嬉しそうで良かった。ノアをしっかりと抱きかかえ、幻獣ケルベロスに合図する。

 幻獣ケルベロスは高く高く飛び上がり、満月を背にしながら、屋敷まで俺たちを送ってくれた。

 そのあと、俺は熱がぶり返して盛大に倒れてしまったのは、言うまでもないことだ。



 ──俺は、弟が嫌いだ。

「にいさま、にいさまっ、うぎゃっ!」

屋敷の廊下で俺を追いかけて来たと思ったらまた何もないところで転んだ、このドジで間抜けな弟、ノアが。

「はあ……」

俺はため息をつきながら振り返る。しょうがないと肩をすくめ、顔面から床に突っ伏すノアを起こしてやる。

「なんだ? なにか用か?」

「はいっ、用です!」

ノアはばっとひとつの絵本を差し出してきた。

「みつけましたっ! 幻獣ケルベロスの本です!」

「なんだ、お前、そんな物を探していたのか」

表紙には猛々しいケルベロスの絵が描かれている。地獄の番犬、幻獣ケルベロスの伝説を描いたものだ。これも、俺は何度も読んだことがあった。

「おいわいですっ」

「お祝い?」

はいっ! とノアは元気よく返事をする。

「王家召喚師のしけんのごうかく、おめでとうございますっ!」

「ああ」

俺はそういえばそうだったな、と頷いた。

 十歳の誕生日パーティーは中止になったが、あのあと体調を取り戻した俺は父様に試験の申し入れをし、幻獣ケルベロスを見せつけて“王家召喚師”の資格を得たのだ。十歳で王家召喚師になったのは歴代の中でも相当早く、ほぼ最年少といってもいい。

 あのときの母様と父様の驚いた顔、今でも忘れられない。挽回はおそらくこれで十分だろう。

「ありがとう」

俺は素直に、ノアから絵本を受け取った。

「だが俺のことなんかより、お前はちゃんとやってるのか、術の練習」

「うっ、や、やってます……」

おそらくそれは本当だ。やってるけどできない。それがノアだから。

「はあ、なにか分からないことがあったら遠慮せずに聞け。いいな」

「はい、はい、にいさま。ありがとうございます」

気の抜けた笑顔を見せるノア。本当に大丈夫なのか、こいつは。

 いつだって心配になる。ドジで間抜けで何も出来ない弟。だが、ノアは俺よりもずっと強くて優しくて、勇気がある。


 俺はノアの頭を撫で、慣れない微笑みを返した。

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