外伝:従者の他愛もない思い出

  スレイブは、生まれたときから奴隷(スレイブ)でした。

 いつ、どこで生まれたのかは覚えていません。親の顔など、知るはずもありません。だけど、スレイブであることは確かでした。

 気がついたら奴隷として売られ、買われ、働いてきました。スレイブは、奴隷なのです。


「さっさと働け、ノロマが!!」

町より少し外れたところに立つ、小さな娼館。そこがスレイブがいま飼われている場所です。いつものように、ご主人さまから物を投げつけられます。いいのです、スレイブは奴隷ですから。

「部屋を掃除してこい!」

スレイブは営業で使われた部屋を片付けに走ります。この娼館に来てから、三ヶ月ほどが経ったでしょうか。

 スレイブの他にも奴隷はいて、延々と下働きをし続けています。食事は一日ひとつのパン。毎日食事をいただけるだけ、ここは良い場所です。

 部屋を掃除して出た瞬間、ご主人さまに頬を拳で殴られました。

「次はあっちだ! さっさとしろ、ノロマ!」

「はい、かしこまりました」

スレイブはご主人さまの言う通りに走ります。


 「お前、すげぇよな……」

朝方、客が途切れ、つかの間の休憩時間。

 スレイブたちの寝床で、隣の奴隷が声を掛けてきました。ここは物置も兼ねているので、たくさん物があります。寝床と言っても、足を広げて眠れるようなスペースはありませんので、皆、膝を抱えて眠ります。

「ご主人に怒鳴られても殴られても顔色ひとつ変えねぇで。怖くねぇの?」

顔色。そういえば、昔、泣いたりしたら大変殴ってくるご主人さまのもとで働いたことがあり、そこから顔色などというものは変わらなくなった気がします。

 それと同時に、感情というものも、抱かなくなったような気がします。それで困ったことがないので、スレイブはこう答えるしかありませんでした。

「すみません、よく分かりません」

「はは、変なやつ」

隣の奴隷は力なく笑い、カビの生えたパンをかじりました。スレイブも同じように、配給されたパンを食べました。

 もうすぐしたら、また仕事が始まります。体力を温存するため、パンを食べ終わったスレイブは少しの間、目を閉じました。


 今は冬です。この季節、外では雪がたくさん積もります。

「おい! 外の雪かきをしてこい!!」

ご主人さまがスレイブにスコップを押し付けながら言いました。ちなみに、スレイブたち奴隷はたった一枚の肌着に裸足です。後ろの奴隷が、自分に当たらなくてよかったと心底ホッとしている様子が見て取れました。

「はい、かしこまりました」

確かに寒くて死ぬほど痛いですが、これがスレイブの仕事です。スレイブはスコップを受け取り、娼館の外に出ました。

 お客様の邪魔にならないよう、入り口に積もった雪をどかしていく作業です。早く済ませないと、またご主人さまがお怒りになられるでしょう。スレイブは感覚の無くなっていく足を気にせず、黙々と雪かきをしました。

 そうして、大方の作業が終わるころでした。

「よぉ、ここは娼館か?」

背後から、ひとりの青年に声を掛けられました。色黒で背が高く、大変身なりがよい方です。お客様でしょうか。それにしては、少し若い気もしますが。

「はい、ここは娼館です」

スレイブは手を止め、深く頭を下げながら言いました。身なりのよい方はとくに、スレイブたち奴隷と目が合うことを嫌がられます。話をすることも本来は避けられるのですが、この方は特に気にしていないご様子です。

「頭を上げろよ。お前は奴隷か?」

「はい、スレイブは奴隷です」

頭を上げろと命じられたので、スレイブは頭を上げました。質問にお答えすると、なぜか笑われてしまいます。

「自分のこと奴隷(スレイブ)なんて呼ぶなよ」

スレイブが奴隷なのは本当のことなので、そのご命令はよく分かりません。

「まあいいや、また来るよ」

彼は、ひらひらと片手を振って踵を返して行かれました。娼館のお客様ではなかったのでしょうか。しかし、それはスレイブにあまり関係のないことです。

「おい!なにボーッとしてやがんだ、ノロマが!」

「はい、申し訳ありません」

またご主人さまを怒らせてしまいました。スレイブは急いで娼館の中へ戻り、部屋の掃除の仕事へと移りました。


 次の日も、また雪かきの仕事を任されました。

 足が凍ってしまうと歩けなくなり、仕事ができなくなります。なるべく速やかに終わらせたいところです。

「よぉ」

外へ出ると、昨日の身なりのよい方が木にもたれかかっておられました。彼は不意にスレイブに近づくと、スコップを取り上げてしまわれます。なにをされたのか一瞬理解できず、スレイブは固まってしまいました。

「ここで使い潰されて死ぬか、俺のもとに来るか、どっちがいい?」

なにを仰っておられるのでしょう。それよりも、スコップを返していただかないと仕事ができません。

「すみません、よく分かりません。スコップを……」

「おい、検めろ!」

彼はスレイブを無視して、どこかに声を掛けました。すると、物陰からぞろぞろと衛兵の方々が現れます。

「な、何事だ!?」

ご主人さまが外に出てきて、大変驚いておられます。身なりのよい青年は、ご主人さまに言い放ちました。

「あんたがここの主人か? ダウム家の領地で許可も取らずに好き勝手商売してくれてるみてぇじゃねぇか」

「な、まさか、あんたは……っ!」

「俺はジルヴェスター・ダウムだ。あんた、ダウムの領地が奴隷禁止なのは分かってるよな?」

ご主人さまは膝から崩れ落ちました。ジルヴェスター・ダウム。奴隷のスレイブにとっては聞いたことがありません。偉い方とは縁がありませんから。

 娼館はあっという間に衛兵たちに検められ、ご主人さまは縄で縛られてしまい、どこかへと引っ立てられて行かれました。

 奴隷や娼婦たちは戸惑いながら玄関から外を覗いています。身なりのよい青年、ジルヴェスター・ダウム様は彼らに言いました。

「安心しろ。あんたらにはちゃんとした居場所を用意してやる。まずは温かい服と飯と寝床だな」

奴隷と娼婦たちは衛兵に案内され、大きな馬車へと乗せられました。

 スレイブもそれについていこうとしましたが、ジルヴェスター様に引き止められます。

「あんたは俺と来いよ」

スレイブはどういう意味か分からず、小首を傾げました。

「まずは名前だ。お前はもうスレイブじゃねぇ。これからは“ディーター”と名乗れ」

ディーター。復唱すると、ジルヴェスター様は嬉しそうに頷かれました。

「ディーター、今日から俺の従者にならねぇか?」

「……はい、かしこまりました」

どのみち、ご主人さまが捕まってしまって行く場所もありませんでした。

 ジルヴェスター様は、スレイブを……ディーターを、買ってくださるそうです。



 ジル様の馬車に乗せていただき、着いたのはダウム家の本宅です。

 ちなみに、ジルヴェスター様とお呼びしたら「ジルでいい」とおっしゃられました。ご主人さまのお名前を省略するなど初めてのことでしたが、ジル様がそうご命令になられたので仕方がありません。

「とりあえず服だな。腹は減ってるか?」

「はい、空腹です」

素直に現在の状況をご報告したら、ジル様は軽快に笑いました。何故でしょうか。

「ま、そりゃそうか。奴隷だったもんな。好きなもんはあるか?」

「好きな、もの……?」

「ねぇなら適当に用意させるぜ」

ジル様は、執事の方に頷かれます。ディーターは執事の方に連れられ、身体を洗われ、服を着させていただきました。今まで触れたことのない高級な生地。あまりの暖かさに、さすがのディーターも驚きの感情を抱いた気がします。

 生まれて初めての温かい食事をいただき、ここでディーターは、大変良いご主人さまに買われたのだということを理解しました。

 食事が終わると、ジル様の自室へと案内していただきました。部屋へ入った途端、ここは奴隷が入っていい場所ではない、貴族様のお部屋だと感じましたが、ジル様がソファで手招きをされています。ディーターはジル様の元へと駆け寄りました。

 ジル様はディーターをまじまじと見つめ、満足気にされました。

「いい感じだな。奴隷にはもう見えねぇぜ。あとはもう少し飯を食って太れよ」

ジル様は、ディーターの痩けた頬をぺちぺちと叩いて言いました。食事をいただくことがご命令だなんて、そんなことがあっていいのでしょうか。

「ディーターはなにをすればよろしいのでしょうか」

「当面は勉強だな」

「べんきょう」

ディーターは勉強というものをしたことがありません。奴隷でしたから。

「いいか、お前はもう奴隷じゃねぇ。ダウム家次期当主、ジルヴェスター様の従者だ」

「はい」

「ひと通りの教養と作法を身に着けろ。俺のことを手伝えるくらいになってくれよ」

「はい、かしこまりました」

ディーターは深々と頭を下げました。


 その日から、様々な勉強が始まりました。

 座学から体術、作法からお茶の淹れ方まで。様々な先生に、様々なことを教えて頂きました。奴隷一匹にここまで時間と労力を使って頂いてよいのでしょうか……。


「っ」

そうして数週間したのち、本日はジル様の前で初めてお茶を淹れる日でした。ですが、ディーターは細かい作業が苦手です。つい、カップを落として割ってしまいました。

 殴られるでしょうか。そう思いましたが、ジル様はにやにやと面白げにこちらを見るばかり。見世物……ということでしょうか。

 ディーターはカップの破片を拾い上げながら謝罪します。

「申し訳ありません。お茶を淹れるのはまだ苦手でして」

「はは、ゆっくりでいい。カップも好きなだけ割れ」

変わったご主人さまです。

 そのあと、なんとかそれなりのお茶を淹れ、ジル様に差し出しました。おそらく、美味しくないとお怒りになられるでしょう。

「ふむ、苦手にしちゃ美味いな」

「そう、でしょうか」

ジル様は、いつも楽しそうに笑っておられます。今までのご主人さまとは違い、殴ったり、怒鳴ったりしません。

「ああ、ディーターは頑張ってるよ。失敗ならいくらでもしていい。自信を持って、目一杯学びな」

「はあ、かしこまりました」

本当に、変わったご主人さまです。お茶をもう一口啜り、ジル様はソファに身を預けました。

「そういや、あんた、体術は得意なんだってな」

「はい。ディーターは帆船で奴隷をしていた頃、マストに登る作業を多くしていましたので、身体は身軽な方です」

「こんな小さなガキにマストに登らせるなんて、奴隷を使う奴の神経が分からねぇな……。でも、そうか。じゃあ戦闘技術の有名な教師でも呼ぶか」

「ディーターのためにそこまでしていただかなくても……」

「いや、従者が強いのはこの上なく心強いだろ? 頑張れよ」

「はい、かしこまりました」

ディーターはよく分かりませんでしたが、ジル様がそうおっしゃるならば。

「ディーターはなにか好きなもんはあるのか?」

「好きな、もの……?」

「食いモン聞いたときもそんな反応だったな。好きなもんだよ。欲しい物とか、やりてぇこととか。あんたの希望も聞いておきてぇ」

ディーターは数秒考えましたが、なにも浮かびませんでした。

「すみません、よく分かりません」

「そうかぁ。じゃあ嫌いなもんはあるのか? これは嫌だってのはよ」

「特にありません」

そう答えると、ジル様は少し困ったように笑いました。なにかいけなかったでしょうか。申し訳ありません、と頭を下げると、謝らなくていいと言われてしまいました。

「じゃあ、宿題だ」

「は、宿題?」

ジル様がディーターの目をしっかりと見つめて言います。

「好きなもんと嫌いなもん、考えとけ」

「はあ……」

「好きなもんはそうだな、取られたら嫌なものだな」

ジル様は顎を撫でながら思案されます。

「ずっとそこに在ってほしいと願うものだ」

嫌いなもんはその逆だな、とジル様は言います。取られたら嫌で、ずっとそこに在ってほしいと願うもの。

 今のディーターには、そんなものはないと思われます。

 ジル様の宿題は達成できないのでしょうか。

「思いついたら教えてくれ。そのうち、いつかな」

ディーターはジル様のご期待に添えないかもしれません。そう思いながら、ディーターはかしこまりましたと頭を下げたのでした。



 それから、三年が経ちました。

 ディーターは勉強をほぼ終え、ジル様の従者として日々働いています。お茶も随分と上手く淹れられるようになったと、ジル様のお褒めの言葉を授かりました。

「好きなもんと嫌いなもん、見つかったか?」

ジル様の自室でアフタヌーンティーの準備をしていると、そう声を掛けられました。

 ジル様はこの三年、時折この質問をしてこられます。ディーターはその度、首を振りました。

「すみません、よく分かりません」

「ははっ、相変わらずか」

ジル様の面白げに笑うこのお顔も何度も見ました。

 大変申し訳無いことなのですが、宿題は未だに達成できておりません。それでも、ジル様はディーターを捨てることなくずっとお側に置いてくださっています。

 ありがたいことです。ディーターはもう奴隷ではないのだということは、この三年でさすがに理解しました。ジル様のご期待に応えるためならば、なんでもして差し上げたいと思っております。

 ただ、宿題だけはいつまでもよく分からないまま。早くお答えしなければと思いつつも、なにも浮かばないのが現状でした。

 ずっとそこに在ってほしいと願うもの。ディーターに、そんなものができる日が来るのでしょうか。

「うん、やっぱり茶も上手くなったな」

「ありがとうございます」

ディーターが用意したアフタヌーンティーを楽しみながら、ジル様は優しく微笑まれました。



 ディーターがダウム家に来てから、三度目の冬がやってきました。 

 外ではしんしんと雪が降り積もっています。屋敷の廊下を歩きながら窓を眺めるジル様は、後ろに付き従うディーターに言います。

「あんたが裸足で雪かきしてたのが懐かしいな」

あの娼館で初めてお会いしたとき。あのとき、三年後にはこうなっているなど、想像もしていませんでした。

「最初は驚いたんだよ。顔色ひとつ変えずに、雪の中、裸足で作業してるガキがいてな」

ジル様は少しこちらを振り向き、にっと白い歯を見せました。

「そのガキが一体なに考えてんのか気になっちまってよ。連れて帰っちまった」

「ディーターは、特になにも考えておりません」

そうお答えすると、ジル様は笑い声を上げます。

「ディーターの心、いつか見てみてぇもんだな」

そんな、お見せするほどのものはなにも持ち合わせていません。この三年でわかったことですが、ジル様はディーターを困らせるのがお得意なのです。


 ジル様とディーターは、そのまま玄関を出て、馬車に乗り込みました。

 我々は今日から数日掛けて、領地の村々の視察に回ります。ジル様はもうすぐ、現当主様から家名をお継ぎになられるとのこと。大変おめでたいことです。

「冬は生活も厳しくなるからな。よく見て回らねぇと」

ジル様は真剣な顔で呟きました。ディーターははい、と静かにお答えします。御者に合図をし、我々は出発しました。

 村の人々は、冬の厳しさを生きながらも、ジル様のお姿を見ると大変喜びました。ジル様は丁寧に、困ったことはないかと聞いて回り、貧しい者に手を差し伸べました。

 本当に、立派な方だと思います。ディーターも、幸運にもこのジル様に助けられたひとりなのだと、今ではひしひしと感じることができます。

「きゃー、ジルヴェスター様!」

「素敵……! 握手して下さいっ!!」

ジル様にお会いできて特に喜んでいたのは村の女性たちでした。よっぽど信頼が厚いのでしょう。さすがジル様です。

 そんなふうにゆっくり村々を見て回り、数日後、最後の村に到着しました。

 ここはダウム家本宅からは随分と遠い、小さな小さな村です。村長に挨拶をすると、「こんな辺境まで……なんと素晴らしい御方なのでしょう」と感涙していました。

 今までと同じように村を見て回り、特に女性たちに歓迎されながら、ジル様は話をして、温かな笑顔を村人たちに向けました。

 ここもやはり冬で厳しい生活を送っていました。

「流通をもっと……街道の整備を……」

ジル様はぶつぶつと呟きながら村の中を歩いています。ディーターはその後ろを付き従っていました。

 その時でした。

「う、うわああ!!」

何者かが突然、ジル様に飛びかかったのです。ディーターは咄嗟にジル様の前に出ようとしましたが、間に合いませんでした。

「ぐっ……」

「ジル様!」

ジル様がゆっくりと倒れてしまいます。脇腹には刃物が刺さっています。真っ赤な血が、じわじわと洋服に染み出していました。

 ディーターはジル様を襲った者を見ました。浮浪者のような格好をしていて一瞬分かりませんでしたが、彼はかつての娼館の主人、ディーターの前の飼い主でした。

「く、ふ、ははは、はははははっ!! ざまあみろ! お前が俺の人生を狂わせたんだ!! 死んじまえ! はははははっ!!」

死ぬ? ディーターの頭は真っ白になりました。

 男は村の男性たちに一斉に取り押さえられ、ジル様には女性たちが駆け寄っています。

「ジルヴェスター様! 死んじゃいや!!」

「早く室内に運べ!! 手遅れになるぞ!」

死ぬ。ジル様が。死んでしまう。そうなったら、ディーターは。


 胸の奥底から、強い感情が溢れ出してきました。それは焦燥、混乱、不安、動揺、後悔……。今まで感じたことのない強い、強い思い。


 嫌だ。嫌だ。

「ジル様ッ!!!」

ディーターは、初めてこんなに大きな声を出しました。村人たちに運ばれていくジル様に飛びつきます。

「ジル様、死なないでください、ジルさま!!!」

「……っ」

ジル様は、かろうじて意識を保っておられました。

 血で真っ赤に濡れた手で、ジル様はディーターの頬に触れます。

「は、はは……ディーター、あんた、そんな顔……できたんだな」

ディーターは、とてもとても泣きそうな顔をしていました。

 お願いします。いなくならないでください。ディーターを貴方のお側にずっと置いてください。ディーターは願いました。

 取られたら嫌なもの。そこに在ってほしいと、願うもの。


 ディーターは、やっと宿題の答えを見つけたのでした。



 その後、ジル様は村で介抱され、治癒魔術を受けるために本宅へディーターとともに戻りました。

 幸い傷は思ったよりも浅く、急所も外れていたため、ジル様は命に別状はありませんでした。しばらく療養すれば問題ないと、ダウム家が抱える優秀な医者も申していました。


 ディーターはジル様の自室の前で立ち尽くしていました。

 思えば、ディーターがきちんと護衛の役目を果たしていればジル様は怪我をなさらなかった。ディーターは役に立たなかったのです。

 今のディーターは、ジル様にお目通りする権利はあるのでしょうか。

 気がつくと、目頭が熱くなっていました。何年ぶりかわからない涙が、ぽつりと床に落ちます。

「おい、ディーター」

すると、ドアの向こうからジル様の声がしました。

「そこにいるんだろ。なにしてんだ、入れよ」

ディーターは急いで涙を拭き、ジル様の自室に入りました。

 ジル様はベッドに半身を起こしておられました。

「……泣いてたのか?」

ジル様はなんでもお見通しでした。ディーターは必死に抑えつけていた涙腺が崩壊しました。ぼたぼたと涙がこぼれます。ジル様は、すこし驚いたように目を見開きました。

「ディーター……」

「もうし、わけ、ありませんでした……ディーターが、きちんと仕事をしなかったばかりに……」

「……ディーター、来い」

そう言って、ジル様は両手を広げました。ディーターは躊躇いがちにジル様に近づきます。手の届く距離まで来ると、ぐいと引き寄せられました。

 まるで赤子をあやしつけるかのように、ジル様はディーターの頭を撫でました。

「よしよし。びっくりしたよな。大丈夫だ、俺は生きてるよ」

「……っぅう、ジル様、ジル様ぁっ」

わああ、と声を上げて泣きました。ジル様に縋りつきました。こんなことをしたのは何年ぶり……いえ、もしかしたら生まれて初めてのことかもしれません。

 ジル様はディーターが落ち着くまで、ずっと頭を撫で続けてくれました。


「……申し訳ありませんでした」

ひとしきり泣いたあと、ディーターは後悔の念でいっぱいになっていました。ベッドの隣の椅子で肩をすくめ、小さくなるディーターを見て、ジル様は笑っています。

「いや、オレとしてはだいぶ面白かったよ。刺されてみるもんだな。クククッ、あいてて」

「申し訳ありませんでした……」

ディーターは再び謝罪します。

 ジル様はディーターの頭をぽんぽんと軽く叩きました。

「もう謝るな。お前のせいじゃねぇよ。これからも従者としてオレの側にいてくれ」

「はい、ジル様がそうおっしゃるのなら……」

言いかけて、ディーターは思い直しました。

「いえ、ディーターが、ジル様のお側にいたいので、お側にいます」

「!」

面食らったような顔をして、ジル様はディーターを見ます。ディーターは、あの時見つけた思いを、ずっと答えられなかった宿題の答えを、ジル様にお伝えしました。

「好きなもの、見つけました」

「ほう?」

「ディーターの好きなものは、ジル様です」

「はぁ~?」

ジル様は半笑いで変な声を出しました。

 取られたら嫌で、そこに在ってほしいと願うもの。ディーターにとってそれは、ひとつしかありませんでした。

「ディーターはジル様がご無事で、お元気で、ずっとそこに在ってほしいと願います。ディーターはジル様をお守りし、お手伝いしたいのです」

「……」

数秒黙っていたジル様は、軽く息を吐きながらディーターから目線を外しました。ジル様の耳が少し赤いような、そんな気がします。何故でしょうか。

「従者の忠義心が厚くなって嬉しいばかりだよ」

「はい。ディーターはずっと、ジル様にお仕えいたします」

ジル様はいつもの笑みを浮かべ、こちらを向きました。

「ちなみに、嫌いなもんはなんだ?」

「ジル様に害なすものです」

刺したあの男を思い浮かべながら、ディーターは無感情で答えました。

 ジル様は思わずと言った様子で吹き出し、大笑いなさいます。それは傷に響いてしまったようで、ジル様は痛がっておられました。

 たいへん申し訳ないばかりでございます。



 ──がたんごとんと強めに揺られながら、ディーターは他愛もない記憶を思い出していました。

 ここは馬車の中。ジル様のご命令で、ハヅキ様とノア様を、海の方までお連れしているところです。ノア様は相も変わらず窓にしなだれ掛かっておられます。大丈夫でしょうか。

 先程の休憩の折にハヅキ様が、不意にディーターに「好きなものと嫌いなもの」を質問なさったため、昔の記憶がふと蘇ってしまったのでした。

 懐かしさと、少しの恥ずかしさを覚えつつ、あの日から好きなものと嫌いなものは変わっていません。

 それにしても、ハヅキ様は不思議な御方です。ジル様と同じことをお聞きになるなんて。

「? どしたの、ディーターくん?」

ディーターの視線に気づき、ハヅキ様は小首を傾げます。

「いいえ、なんでもありません」

ディーターは小さく首を振り、また目を閉じました。

 ふぅん? という少し不思議そうなハヅキ様の声が聞こえました。

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