第四章:ブランシュ学院、新入生

「おい、亜人女。テメェ、調子に乗ってっと痛い目見るぞ!」

舎弟を従えて私に詰め寄る強気な男子。

 わあ、お手本みたいなイジメっ子だぁ。私は思わず感心してしまった。



 ──数週間前。

「ハヅキちゃんには入学してもらうぜ、学院にな」

首都、ダウム家別宅の応接間で、ジルさんがとても楽しそうに言う。私はぱちくりと瞬きした。

「学院に入学……?」

「ああ。ブランシュ家はな、慈善事業として本宅の敷地内で孤児向けの学校、ブランシュ学院ってのを運営してんだ。孤児なら基本受け入れてくれる。潜入調査にはもってこいだろ?」

なるほど、そういうことだったのね。

「でも私、亜人の姿ですけど、大丈夫かな?」

「亜人が入学したってのは聞いたことがないが……まあ、ハヅキちゃんなら大丈夫だろ。あとは裏から手を回して採用担当に金でも握らせれば問題ない」

「お、おう……」

ナチュラルに賄賂で裏口入学。

「ブランシュ学院はブランシュ家当主が自ら理事長を努めている。理事長室にもなにか手がかりがあるかもしれねぇし」

「そうですね、理事長室と、可能であれば本宅の屋敷を調べたいところです」

ノアくんはもうすっかりやる気みたい。

「ブランシュ学院は生徒、教師ともに敷地内で全寮制です。夜にでも抜け出せれば色々と調べることができると思います」

「くく、やる気があるのはいいことだ、ノア。手回しには少しかかる。しばらく待っててくれるか」

「はい」

ノアくんは真剣に頷く。

 学校かあ。制服を着て通学なんて、高校以来だわ。こんな歳でまた学校に行ってもいいのかななんて思ったけど、見た目は十代くらいだしな。

 なんだか不安も残るけれど、ノアくんのためだもの。精一杯学生として頑張りましょう!


 それから数日して。

 ディーターくんが用意してくれた制服は、紫がかった紺色に銀のラインがおしゃれな私立っぽいデザインだった。私立っぽいっていうのは私の偏見だけれど。ブランシュ家が運営してるんだから合ってるわよね。

 制服に袖を通す。姿見で確認した自分の姿は、我ながらいい感じに似合っているんじゃないかと思った。翼がちょっと気になるけど。

 部屋のドアがノックされる。どうぞ、と声をかけるとノアくんが入ってきた。

「わ……ハヅキさん、素敵です」

「そ、そう? えへへ、ありがとう」

ノアくんは魔術師の教師として潜入するらしいので、服装はいつものまま。

 ただ、髪を後ろに掻き上げ、丸眼鏡を外している。なんだかそうしてみると弟や後輩っぽさが抜けて、なんというか……。

「かっこいいね……」

普段は前髪と丸眼鏡で隠れていたノアくんの顔は、思った以上に整っていた。いつものノアくんじゃなくて、なんだかドキドキする。

「へぁ!? いいいいまなんて!?!?」

中身はいつものノアくんだ。思いっきり動揺する彼になんだか安心感を覚え、私はふふっと笑ってしまった。

「ううん、ノアくんも素敵だよ」

「はわ……そんなことないですぅ……ありがとうございますぅ」

その格好でそのリアクション、ギャップがありすぎて風邪引いちゃいそう。

「ブランシュ家当主……母方の祖父とは赤ん坊の頃に一度会ったことしかないんですが、今の僕の特徴を知っている可能性もなくもないので、軽い変装です」

えへ、えへ、と照れるノアくん。なるほどね。でもその変装で新しい先生として赴任しちゃったら、女性の先生や女子生徒にモッテモテなんじゃ……ちょっと想像した私は、なんだか若干もやっとした。

 もやっと? なんで?

そこで、ドアが再びノックされた。廊下からディーターくんの声がする。

「ジル様がお呼びです」


 いつもの応接間に通されると、ジルさんはいつものソファに座っていた。

「いいねぇ、謎の美少女転校生って感じで」

ニヤニヤと私を眺めたジルさんは、ぐっと親指を立てた。ふふ、お気に召していただけてなによりです。

「ノアも大丈夫そうだな。あんまり普段のハワワ~ってやつ出すなよ」

「だ、出しませんよ!!」

どうだろう。結構な確率で出ちゃう気がするけど。はわわな自分をジルさんにものまねされて怒るノアくんを横目で見つつ、ちょっと心配な気持ちも湧いてしまう。

 いつもの向かいのソファに座るよう勧められ、私たちは腰を下ろす。

「さて。手筈は全て整った。あとはあんたらがブランシュの領地へ行って、学院に入るだけだ。馬車は用意させる」

だが、とジルさんの顔から笑みが消える。

「ブランシュ家の敷地内に入っちまったら、ダウム家のオレは何もできなくなる。いいな、入学したらあんたらふたりでなんとかするんだ」

「はい、分かってます」

ノアくんがこくりと頷いた。私も続いて同じように頷く。

「ジルさん、ありがとうございます。きっとこれはダウム家のための仕事ではないはずなのに……」

私の言葉に、ジルさんは微笑みながら首を振った。

「いや、オレもブランシュ家が何を企んでんのか気になっちまったからな。調べてきてくれるなら願ってもないことだ。もしかしたら、今後ダウム家に降り注ぐかもしれねぇ厄を払える可能性だってある」

ジルさんは顎を撫でながら思案する。

「ブランシュ家は魔術が得意な家だ。ブランシュ学院も魔術教育に特化している。中ではなにが起こるか分からねぇ。十分に注意して仕事してきてくれ」

「はい、ありがとうございます。しっかりお仕事して帰ってきます」

「はは、頼もしいな、ハヅキちゃんは。頼むぜ」

「僕だって頑張りますから!!」

ふたりで話を終えようとしていたところに、ノアくんが慌てて割り込んできた。

 私とジルさんは顔を見合わせ、笑ってしまったのだった。


 一応用心して、私とノアくんは日を別にして学院に入ることになった。

ノアくんが先に出発して、三日ほど経ってから私はリーテン共和国の首都を出発した。ブランシュ家本宅までは馬車で二日くらいかかるらしい。ということは、ノアくんはもう到着して学院に入り込んでいる頃だろうか。

 数日そばにいられないからと、出発前に一晩しっかり抱き締めて魔力補給してくれたノアくんを思い起こす。大丈夫かな。馬車酔いしたかな。ちゃんと学院に入れたかな。新しい場所でハワワってなってないかな……。

「ノアさんが心配ですか」

馬車の中からぼんやりと窓の外を見ていたら、向かいのディーターくんが声を掛けてきた。なにかの報告の類以外で彼から声を掛けてくるなんて、珍しすぎて少し驚いてしまう。

「あ、うん、ちょっとね」

「馬車酔いに関しては同行した召使いに話しておきましたので大丈夫でしょう。採用手続きも手回しは完璧ですので問題ありません」

まるで心を読んだかのようにつらつらと私の心配事を潰していくディーターくん。

「その後のことは、『これからハヅキさんがやってくる』と分かっているので、きっと大丈夫だと思われます。ノアさんは、ああ見えて意外とやる方ですから」

「……ふふっ」

ディーターくんのこと、ずっとロボットみたいだと思っていたけど、そうでもないな。自分の中の彼の印象を改め、私はありがとう、とお礼を言った。

「いいえ、ディーターに分かることでしたら何でもお聞きください」

話しぶりは相変わらすAIロボットみたいだけれど。ディーターくんのおかげで心が軽くなった私は、これからやってくる学院生活に思いを馳せた。


 ブランシュの領地に入ると、のどかな田園地帯が広がっていた。時折、羊や牛が草を食(は)んでいるのが見える。そこから数時間後、私たちは大きな大きなお屋敷の前に到着した。

「ここが、ブランシュ家……」

馬車から降り、私はお屋敷を見上げる。さすがにグラン王国のアズナヴールのお屋敷と比べると少しだけ地味かもしれないけど、それでも大きくて、敷地はとてもとても広い。

「目の前の屋敷が本宅で、あちらがブランシュ学院です」

ディーターくんが横にやってきて、指をさす。本宅の斜め後ろ。横に長い大きな建物が見えた。ああ、学校っぽいわ。

「児童部、中等部、高等部に分かれていて、全校生徒は五百名ほど。地方の学院ではリーテン共和国内で最大級になります」

では、参りましょう。とディーターくんは門番に一言声を掛ける。

 すぐに迎えに来た、四十代くらいの女性の後に続いて、私とディーターくんはブランシュ家の敷地内に入った。


 私たちは学院の応接間に通されたけど、ディーターくんはそのままテキパキと入学手続きを済まし、では、と一礼して去っていった。

 部屋を出る直前、ディーターくんが「幸運を祈ります」と小声で言いながら、微笑を浮かべてくれた気がしたのは、気のせいではなかったと思う。

「さて、あなたがハヅキさんね」

ディーターくんが出て行ったドアの方をぼんやり見ていた私は、向かいの女性の声に、はいっと急いで前を向いた。ちなみにこの女性は教頭先生だそうだ。

 教頭先生は羊皮紙を見ながら話す。

「商船の中で売り物にされようとしていたところを、ダウム家の方に助け出されたと。亜人でありながら大変高度な人語を解するところをジルヴェスター様に気に入られ、教育を受けさせるためにブランシュ学院へ……。あなた、とっても運が良かったわねぇ」

「あはは……」

ジルさん、そんな設定にしたんだ。

「じゃあ、早速教室に案内するわね。行きましょう」

「あ、あの」

「あら、どうしたの?」

思わずノアくんのことを聞こうと思ったけど、怪しまれてもいけないわね。考え直した私は、いいえ、と首を振った。


 二階にある教室に案内される。ドアの札を見ると、1-Aとこの世界の言葉で書かれていた。私は高等部の一年生です。

 ちなみにこの世界の言語に関しては、こちらに喚ばれたときから問題なく読み書きできることが分かっていた。なんだかものすごく変な感覚だけど、読めるし書ける。不思議よね。だから授業も滞りなく受けることができると思う。

「ヘレナ先生、朝に話していた新入生です」

ドアを開けて、教頭先生が中の先生に声をかける。ヘレナ先生と呼ばれた人がドアから顔を出した。

「ああ、はい、分かりました」

少し目付きが悪くむすっとした感じだけど、そばかすが可愛らしい女性。歳は三十代前後、いわゆるアラサーくらいかしら。前世の私と同年代っぽいわね。

 教頭先生はヘレナ先生に私を預けると、じゃあねと立ち去った。

「入って」

手招きされて、私は教室の中に入る。すこしざわついていた空間が、私の姿を認めた瞬間しんと静まり返った。

 教卓に手をつくヘレナ先生の横に立たされ、私は教室の中を見渡す。

 おおよそ三十人くらい。広めの部屋に椅子と机が綺麗に並んでいる。印象的には日本の一昔前の田舎の学校っぽいなと思った。

 生徒全員の奇異な視線が注がれる。多分、亜人だから特に興味津々なのでしょう。

 普通なら緊張するところなんだろうけど、授業や仕事で色々と人前に立った経験を持つ私は特に心乱れることはなかった。ふふ、こんなところで大人の余裕でちゃったわ。

「今日からこのクラスに入った、新入生のハヅキさん。皆、仲良くしてあげて」

はぁ~い、と間の抜けた声がぽつぽつと上がる。私はぺこりと頭を下げて元気に挨拶した。

「ハヅキと言います。今日からよろしくお願いします!」

「わ、亜人ってこんなに喋れるっけ」

「いや、普通は無理だよ、話せてもカタコトだもんあいつら」

こそこそ喋ってるの、聞こえてるぞぉ。

「えーと、じゃあ、寮はコリーと同室ね。コリー!」

「は、はいっ」

ヘレナ先生に呼ばれた窓際一番うしろの席の男の子は勢いよく立ち上がり、椅子を思いっきり倒してしまった。あわあわとなっている彼を、クラスのみんなが笑う。

 一瞬で彼のクラス内の立ち位置を理解してしまった。

 なんだか学生時代のノアくんを見ているようで、微笑ましくもありつつ心配でもありつつ、彼を温かい目でみてしまう。

 ……というか、ちょっと待って。今、寮の同室って言った?

「先生……私、女なんですけど」

ヘレナ先生にこそ、と耳打ちする。すると彼女はえ~? と面倒くさそうな顔をした。

「亜人に性別の概念あったの? でも寮、コリーの同室しか空いてないのよ。急だったからね。うーん、嫌なら物置倉庫しかないけど……」

ええ、そんな。亜人の扱い雑じゃない? まあ、一般的には魔物だから仕方ないのかもしれないけれど。

「大丈夫さ! コリーの奴に変なことする度胸なんてねぇよ! それともおれとコリーをチェンジしてやろうか? その方が嬉しいだろ? なあ、亜人さんよ」

真ん中の方の席から、ひとりの金髪の男子がニヤニヤしながら叫ぶ。あ、この子ガキ大将ね。周りの男子女子も、彼に同調するように笑っている。

 コリーくんの方を見ると心底恥ずかしそうに縮こまっていた。全く、どこの世界に行ってもスクールカーストは存在するのね。

「いいわ。ヘレナ先生、コリーくんと同室でお願いします」

全く動じず、鼻で笑い飛ばした私に、金髪の男子は面白くなさそうな顔をする。

 ヘレナ先生は特に何も気づいていない様子で首を縦に振った。面倒くさいことにならなくてよかったと言いたげだ。

「そう、じゃあコリーよろしくね。このあと学院内を案内してあげなさい」

「は、はい……」

コリーくんは本当にいいの? と言いたげにチラチラこちらを見てくる。私は、よろしくね、と心からの笑顔を返した。


 そのあと、ヘレナ先生の歴史の授業を少し受けたのち、昼休みになった。

 ガキ大将の男子に絡まれる前に私はコリーくんの席に直行し、行こう! と明るく声をかける。

「あ、う、うんっ」

後ろからガキ大将の男子に睨まれている気がしたけれど、まあ放っておきましょう。

 コリーくんと並んで廊下を歩きながら、校内を見学する。建物は、あんまり詳しくないけどゴシック様式というか、柱なんかの細かい装飾が素敵。少し古い感じもいい味出してるわ。異世界の学校、なんだかわくわくしちゃうわね。

 コリーくんは至極丁寧に部屋をひとつずつ説明してくれる。とても優しい子だなぁとこの短時間でもよく分かった。

 彼は私よりも少し背が低くて、ベリーショートの髪に、真ん丸な目がかわいい中性的な子。もしこれで声変わりが終わってなければ、女の子だと思ったかもしれない。

「えと、この先が食堂だよ……」

ぽそぽそとコリーくんが呟きながら前方を指差す。いけない、コリーくんを見てて説明全然聞いてなかったわ。

 アーチ状の柱をくぐった先には、とても広い食堂が広がっていた。長テーブルに長椅子がたくさん並べられていて、なんだかファンタジー映画の食堂を思い出してしまった。

 これくらい広ければ昼休みに席の争奪戦になったりしないだろうなと思う。私の高校は食堂が狭くて、毎回ものすごい争奪戦だったもんなぁ。羨ましい。

 ぽつぽつと生徒が感覚を空けて座っている。あ、そういえば今昼休みだったんだ。

「コリーくん、お昼、ここで食べる?」

「あ、うん、いつもここで……え、一緒に?」

「そうだよ?」

いつの間にか厨房カウンターの方へ歩いて行っていた私を、コリーくんは慌てて追いかけてきた。

「ぼ、ぼくなんかと一緒に食べたらアクスに目付けられちゃうよ?」

「アクスって、あの金髪のガキ大将くん?」

「がきだいしょう? わ、わからないけど、金髪の、最初に絡んできてた男子」

「ふふ、問題ないよ。お姉さんは強いからね」

「お姉さん?」

同い年じゃないの? と不思議そうなコリーくん。あ、そういえばそうでした。中身は倍くらい年上だけどね。

 定食のメニューがいくつかあって、なんと無料! 私はパンとシチューの定食を頼んだ。社員食堂なんかと同じように、受け取り口でお盆に乗った食事をもらう。

 広めに開いている隅っこの方の席を選び、私はコリーくんと並んで座る。

「いただきまーす」

「? なに、それ」

あ、またやっちゃった。手を合わせた私を不思議そうに見るコリーくん。

「ううん、気にしないでっ」

ジルさんたちみたいに真似し始めたら恥ずかしいので、私は慌てて手を振る。コリーくんは少し首を傾げたけれど、静かに食事を始めてくれた。

 私もパンに手を付けながら、気になっていたことを尋ねる。

「コリーくんっていじめられてるの?」

「!?」

ぶっと水を吹き出したコリーくん。ごめん、直球すぎたかしら。

「ああ、言いたくなければ全然いいんだよ」

「い、いや、ごめん。いきなりでびっくりしちゃって」

袖で口を拭きながら、コリーくんは冷や汗をかいている。

「アクスたちのこと?」

「そうそう。一緒にいたら目付けられちゃうって言ってたから」

「毎日からかわれたり、ものを取られたり、掃除当番とか押し付けられたりしてるけど、いじめられてるってほどでは……ないかな?」

それはいじめられているのでは? まあこういうのは本人の気の持ちようなのかな。

 コリーくんはスプーンでシチューをぐるぐるかき混ぜながら、なぜか声を潜める。

「でもぼくは目付けられてるのは確実だし、ハヅキも一緒に目付けられたらかわいそうだなって思って……。それでなくてもなんかこう、目立つし、きみ」

「そうかぁ」

亜人は珍しいもんね。

「アクスくんがクラスの中心人物なのね」

「うん、だから気をつけたほうがいいよ……」

「心配してくれてありがとう、コリーくん」

笑顔を向けると、何故か顔をそらされてしまった。え、なんかいけなかったかしら。

 なんだかコリーくんの耳が赤いような気もしたけど、私はよく分からず首を傾げることしか出来なかった。

 それはさておいて、これからどうすればいいのかな。

 コリーくんが黙々と食べ始めたので、私も食べながら思案する。まずはノアくんと合流しなきゃいけないわよね。ノアくん、どこにいるんだろう。

「ねえ、コリーくん……」

ノアくんのことを訊こうと顔を上げた瞬間、私は唐突なめまいに襲われた。

 ぐらりと視界が一回転する。

「えっハヅキ!?」

ばたん! と派手な音を立てて私は後ろ向きに椅子から転げ落ちた。後頭部を打ったような気がする。

 歪む視界の中で最後に見たのは、コリーくんが慌てた顔で私の肩を揺すっているところ。私は、突如としてその意識を手放したのだった。



「──う、うぅん……」

最初に感じたのは、額の冷たく濡れた布。ゆっくりと目を開けると、知らない天井が見えた。

「あ、ハヅキ、目覚めた?」

横からコリーくんの声がした。

「先生、目が覚めたみたいです!」

「あらそう。良かったわ。もうしばらく休ませてあげて頂戴」

「はい」

ここは、医務室? 保健室? 私は白い布で仕切られたベッドに寝かされていた。

 コリーくんが後ろを向いて、多分保健医の先生と喋っている。ああ、そうだ、私は昼休みに突然倒れて。

その時、勢いよく扉が開く音がした。

「ハヅキさん!!」

ここからじゃよく見えないけど、この声はノアくんだ。

「えっ、ノエル先生!? ど、どうしてここに……」

保健医の先生が驚きつつも、ちょっと嬉しそうな声を出す。あら、やっぱりモテてるみたいね。というかここではノエル先生なんだ。そっか、本名を使うわけにもいかないか。

「あっ、えっと、せ、生徒が倒れたって聞いて……あ、教頭先生がお呼びでしたよ。ここは僕がやっておくので大丈夫です」

「あら、そうですか? 何の御用かしら。ノエル先生、またゆっくりお話しましょうね」

「? はい」

保健医の先生はノアくんにじっとりとした目を向け、保健室を出ていった。予想以上にモテてるわね……ぐぬぬ。ぐぬぬ? 起きぬけで頭が回っていなくて、自分の感情がよくわからない。

「君もありがとう、彼女を見ててくれたんですね」

「あ、は、はいっ」

コリーくんがあわわとノアくんに頭を下げる。なんだかこの共演、面白い。

「あとは僕に任せて。教室に戻って大丈夫ですよ」

「はいっ。じゃ、ハヅキ、お大事に……」

私に小さく手を振って、コリーくんも出ていった。うまく声が出なくてお礼が言えなかった。あとでちゃんと言おう。

 ふたりきりになったのを確認したノアくんは、はぁああ、と私のベッドにしなだれかかる。

「ハヅキさん、本当にごめんなさい……もっと早く見つけてあげなきゃいけなかったのに」

「ノアくん……?」

ノアくんは私の体を優しく起こし、そのまま抱き締めた。いつもよりも強めの力で。

「魔力切れです。すみません、日程結構ギリギリだったんです。伝えておくべきでした」

「ああ……」

なるほど、それで倒れたのね。

「それでも異界に還らなかったのは、さすが神獣ですね」

「……」

「ハヅキさん?」

なんだか、心の底からノアくんが恋しいという気持ちが湧いてきて、彼の背中にしっかりと手を回し、その胸板にぐりぐりと額をこすりつける。

 会いたかった。彼を目の前にすると、そんな思いで胸が一杯になった。

「ど、どうしたんですか? 今日はなんだか甘えん坊ですね……よっぽど魔力が無くなってたんですかね」

ノアくんの心臓がドキドキしてるのが分かる。彼の胸に耳を当てて、なんだか嬉しくなった。

 きっと魔力のためだけじゃない。ノアくんにぎゅってされるととても安心する。私はノアくんのそばにいたい。数日離れていただけなのに、なんだか強くそう思った。


 一体どれくらい抱き締め合っていたのだろう。

「……ノアくん、職員室に戻ったりしなくていいの?」

私はだいぶ元気を取り戻し、頭もすっきりしてきたころ、ノアくんがここにずっといることが心配になってきた。

「ええ、今日はもう担当してる授業は無いので」

「ふふ、授業、か。すごいね、先生」

「せんせい……すみません、もう一度言ってください」

「? 先生?」

「へ、へへへ」

ノアくん、なんだかちょっとこわい。

 そうしてから、ノアくんは名残惜しそうに少し体を離した。

「そういえば、理事長室の場所は見つけておきました」

「! ありがとう、じゃあもう夜に潜入するだけ?」

「いえ、それが……夜には部屋に鍵を掛けるようで、簡単には入れそうにありません」

「ふむ、壊しちゃってもいいけど、収穫がなかった場合に次の日騒ぎになっちゃうのは困るし……。窓からはどう?」

「窓は屋敷に面していて、もしかしたら見られてしまう可能性が」

「なるほどぉ」

私はむむむと唸る。

「鍵はどうやら教頭先生が持っているようです。どうにかして借りることさえ出来れば、型を取って魔術で複製することもできるかも……です」

「えっ、ノアくん、魔術で鍵作れるの?」

「えへ、いちおう召喚師は魔術師の上位互換なので、鍵を作るくらいはさすがの僕でもできると思います……多分」

それでも自信なさげなのはノアくんらしい。

「そうね、じゃあ教頭先生から鍵を借りるだけか……」

そう言いつつ、私はノアくんを見た。じっと見つめていると、ノアくんの顔がどんどん赤くなっていく。

「? な、なんでしょう」

「普通にノアくんがお願いすれば、貸してくれるんじゃないかな」

「え!? 本当ですか?」

「うん、あ、もし心配なら、女の人がドキッとするようなお願いの仕方とかしちゃえばいいんじゃない?」

「え、ど、ドキッと?」

うん、と頷き、私はノアくんに多分一撃必殺のお願い方法を教えてあげた。



 放課後。西日が傾き、生徒たちが寮へと帰っていく時刻。

「教頭先生、さようならー」

「はい、さようなら」

わたしは生徒を見送りながら、学院内の見回りをしていた。

「あの、教頭先生」

廊下を歩いていると、後ろから声をかけられる。返事をして振り向くと、新任のノエル先生が微笑みながら歩み寄ってくるところだった。

「あら、ノエル先生」

この学院に勤めてはや数十年。いろんな生徒や教師を見てきたけれども、ノエル先生ほどお顔の整った方は初めて見たわ。こんな歳にもなってはしたないと思いつつ、声をかけられてときめいてしまう自分がいた。

「学院にはもう慣れました? なにか困ったことがあったら言ってくださいねぇ」

「ありがとうございます。早速なんですが、ひとつお願いがありまして」

「あらあら、何かしら」

若干言いづらそうに、ノエル先生は切り出した。

「理事長室の鍵を、少し貸していただけませんか?」

「理事長室の鍵?」

わたしは意表を突かれて目をぱちくりとさせてしまった。

「どうしてそんなものを?」

「え……と、生徒が、理事長先生の部屋の鍵は装飾が綺麗だと言っていて、少し気になったので」

「あら、確かに特別な意匠を施した鍵ですわ。でもごめんなさい。理事長室の鍵は理事長先生のお許しがないとお貸しできないの……」

その時だった。

 ノエル先生が不意にわたしを壁際へ追い詰めた。どん、と壁に手をついて、わたしに覆いかぶさるような体勢を取る。整ったそのお顔を近づけて、ノエル先生は囁く。

「すみません。少しでいいんです、貸してください」

「……っ!」

甘い声に、わたしは固まってしまった。とどめとばかりに、ノエル先生は潤んだ瞳で見つめてくる。

 わたしは思わずドレスのポケットに手を入れ、肌見放さず持っている理事長室の鍵をそっと差し出した。

「っ、な、内緒ですわよ。見たらすぐに返してくださいね」

「ありがとうございます」

ノエル先生はにっこり笑い、大きめの鍵を受け取る。

「ああ、やっぱり素敵ですね」

鍵をまじまじと見つめ、そう言いながらむこうを向いてしまった。

「ノエル先生?」

肩越しに覗こうとすると、ノエル先生は不意にこちらを振り返る。

「ありがとうございます、満足です」

鍵をわたしに返し、優しく微笑んだ。

「ああ、はい、いいえ……」

ノエル先生はぺこりと頭を下げ、踵を返す。彼は片手をローブの中に入れていた気がしたけれど、ときめきの余韻に浸ってしまっていたわたしは、深く考えなかった。



「ハヅキさん! うまくいきましたよ!」

そう言って、ノアくんは私が隠れていた、私以外誰もいない教室に入ってきた。ドアの影から覗いていたけど、思った以上に上手くいって正直驚いてる。

 壁ドンなるものを教えたあと、やっぱり無理やりだったかなと思っていたけど、いやはやイケメン恐るべし……。

「見てください!」

ノアくんがきゃっきゃと取り出したのは、長方形の粘土。図工室から拝借してきたものだ。そこにしっかりと、理事長室の鍵の型が取ってある。

「すごいすごい、ノアくんやったね!」

ついわしゃしゃしゃとノアくんの頭を撫でてから、髪を乱してしまったことに気づいて慌てて撫でつけ直す。

 ノアくんは特に気にしていない様子で、嬉しそうに笑っている。こういうふうに笑うと子犬みたいなんだけどなぁ。今しがた淑女を落としてきた男だとは思えないわ。

「で、ここからどうするの?」

ノアくんが机の上に粘土をそっと置く。

「魔力を流し込んで成型するだけです」

「へえ、やってみて!」

ノアくんは粘土を手で覆い、目を閉じる。しばらくすると、ノアくんの手のひらから淡い光が漏れ出し、それは液体のように粘土の型へと流れ込んだ。

 型の中に光がいっぱいになると、ぱっと一瞬強く輝いて、消えた。覗き込んでみると、金色の鍵が出来上がっていた。

 ノアくんは型からその鍵を取り出し、私に手渡す。

「わあ、すごい……」

教頭先生が持っていたものと全く同じ形の鍵。だけど西日にかざすとキラキラとラメが入っているようにきらめき、本物よりもとても綺麗だった。

「ふう、ちゃんと出来てよかったです」

「うふふ、さすが召喚師さんね」

ノアくんは照れ隠しのように頬を掻く。鍵を返しながら、私は気合を入れた。

「じゃあ、今夜潜入ね?」

「いえ、ダメです」

えっ、と間抜けな声が出てしまった。どうして? そう思いながらノアくんを見たら、ちょっと怖い顔で私を見ていた。

「今日、倒れたのもう忘れたんですか? 今夜は休んでください」

「え、だ、大丈夫だよぉ」

「ダメです!」

ノアくんがぷんすこしながら首を振る。こんなに頑ななノアくんも珍しい。私はしゅんとなってはぁい、と返事をした。

 ノアくんは表情を緩め、頭を撫でてくれる。

「無理はさせたくないんです。貴女は僕の召喚獣で、大切なひとだから」

「うん、ありがと」

ノアくんの腕がこちらに伸びる。私は何の躊躇いもなくノアくんの胸の中に飛び込んだ。

「さすがに寮の部屋は一緒に出来なかったので、明日の分も補給です」

放課後の誰もいない教室で抱き合う教師と生徒。

 そう思うとなんだかすっごく危ないことをしているみたいで、ドキドキしてきてしまった。

「っ、もう大丈夫」

つい、ノアくんから離れてしまう。

「ハヅキさん?」

ドキドキがとまらない。顔が熱い。赤くなっているの、バレてるかな。西日でわからないといいんだけど。

 なんとなくノアくんの顔を直視できない。何なんだろう。

「ううん、なんでもない! 今日は寮に戻ろう。明日頑張ろうね」

私は至極いつも通りの声色を心がけて言った。


 もうほとんど日が暮れたころ、私は寮の部屋の前に到着した。二度ほどノックすると、中からコリーくんがどうぞ、と声をかけてくれる。私はノアくんに、男子であるコリーくんが同室だということは言わなかった。

「ああ、ハヅキ。もう大丈夫?」

部屋に入ると、コリーくんが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「うん、大丈夫。保健室に運んでくれたの、コリーくんなんだってね。本当にありがとう」

「えっ、いやいや、ぜんぜん、気にしないで……」

ぶんぶんと顔と手を振るコリーくん。やっぱりノアくんに似てるわ。

「というか、ごめんね、ぼくなんかと同室になっちゃって……なんなら、ぼくが物置倉庫に行けばよかったなってさっき思って、先生に言いに行こうか悩んでたんだ」

「ええ!? いいよ、そんなことしなくて! 私がいきなり転校してきたのが悪いんだし!」

思った通り寮の部屋はそれほど広くはなく、二段ベッドが左の壁際に、勉強机が右の壁際に並んで置かれているだけだ。

 男子の部屋だから散らかっているかと思ったけれど、コリーくんは綺麗好きなようで、しっかり片付けられている。えらいぞ。

「もしコリーくんが本当に嫌だったら、私が物置に行くから言ってね」

「ぼくはぜんぜん気にしないよ! どうぞどうぞ、好きに使って……!」

そう言いながら、コリーくんは二段ベッドの上段を両手で指す。えっ、上段使っていいの。コリーくんは元々下段だったのかな。なんかそんな気がする。

「じゃあ、失礼して……」

私ははしごを登り、上段のベッドを使わせていただく。

「今日はもう寝るの? ぼく、ちょっと予習復習してから寝るんだけど、蝋燭付けててもいい?」

予習復習。懐かしい響き。コリーくんは真面目でえらいわね。

「もちろん。おやすみなさい、コリーくん」

「うん、おやすみ、ハヅキ」



 翌朝、私はコリーくんと一緒に登校した。

「おっ! 一夜を共に過ごした仲がご登場だぞ!」

「ひゅーひゅー!」

教室に入るなり、クラスメイトたちにからかわれる。横のコリーくんは焦っているけど、私はちょっとからかい返してあげた。目を細め、なるべく妖艶を意識してクラスメイトに笑みを浮かべて見せる。

「あら、どんな一夜だったか詳しく聞きたい……?」

「えっ……」

「ど、ど、どんな……?」

「冗談よ」

ふふんっと鼻で笑ってあげると、クラスメイトたちは顔を真っ赤にして黙ってしまった。あらあら、初いわね。ちょっと大人気なかったかなと思いつつ、コリーくんがすごいね、と小声で感心してくれたから良しとしましょう。

「おい、亜人女」

後ろから、ガキ大将ことアクスが低い声で威圧してきた。

「なあに? 私の名前はハヅキよ」

「うるせぇ、んなこたどうでもいい。テメェ、調子に乗ってっと痛い目見るぞ」

「調子になんて乗ってないけど。それは脅迫?」

朝からご苦労なことだわ。コリーくんが怯えた様子で肩をすくめている。もう、彼を怖がらせないでよ。

 アクスは淡々と答える私が気に食わないのか、大きな舌打ちをした。

「分かんねぇなら一回痛い目みてみるか? あ?」

「うーん、痛い目はみたくないなぁ。私、か弱いから」

あんまり騒ぎを起こしてもノアくんの迷惑になっちゃうなぁと思いつつ、彼の挑発を受け流そうとした。けれど、それが逆効果だった。

「ハハッ! じゃあ痛い目見せてやるよ!」

「か弱い女に手を出すタイプなの? 最低ね……」

ある意味男女平等な子ね。最低だけど。

「ああん!?」

これはどうにも、喧嘩は避けられなさそう。ごめん、ノアくん。

 アクスはいつの間にか舎弟を後ろに従え、にやにやしながら私を指差した。

「今日の体術の授業で勝負しろ! ボッコボコにしてやるよ!」


 昼前の授業で、私たちのクラスはいわゆる運動場に出ていた。

 体操着に着替え、軽いアーマーまで付けて、手にはそれぞれ模擬刀。体術の授業、なるほどね。魔物もいる世界だもの、戦う技術は教えておくべきだわ。

 体格のいい男性の先生が、並んだ私たちを前にひと通り説明してくれる。二人一組を作って組手の練習をしなさい、ということらしい。

 私は配られた模擬刀をまじまじと見つめる。そういえば、こっちに来てから武器を使ったことがないな。必要性を感じなかったからだけど。

「亜人女!」

「はいはい」

アクスに呼ばれて私は向かおうとした、けどその手をコリーくんが掴む。

「? どしたのコリーくん」

「や、やめといたほうがいいよ、ハヅキ」

アクスを気にしながらこそこそと耳打ちしてくるコリーくん。相当焦っている様子。

「アクス、体術だけはすごくすごく強いんだ。学年……いや、学院一だと思う。僕も前に一度ボコボコにされたことがあるんだけど、一週間くらい保健室のお世話になっちゃって……」

ボコボコ経験者だったわ、コリーくん。この世界、治癒魔術も存在しているし保健医の先生は使えるはずなのに、一週間ってすごいわね。

 とはいえ、この状況からやめとくことは出来ないと思うなぁ。

 イライラしながら模擬刀を肩に担ぐアクスを振り返る。もう完全にロックオンされてるんだもの。

「大丈夫、コリーくん」

心底不安そうなコリーくんに、私は慣れないウインクをして見せる。

「か弱いって言ったの、あれ嘘なの。昨日言ったでしょ、お姉さんは強いから。なにも問題ないよ」

「ほ、本当に……?」

「私を信じて」

不安げな顔は変わらないけど、小さく頷いて手を離してくれた。

 やっとこちらに歩いてきた私を見て、アクスはギザギザの歯を思いっきり見せてにやつく。

「ふんっ、最期の会話は済んだのか?」

なに、殺す気なの? 中二病真っ盛りね。元気でよろしいわ。

 いつの間にか、アクスの舎弟に取り囲まれ、逃げ出せなくなっていた。逃げるつもりはないわよ、心配しなくても。

「さっさと終わらせちゃいましょ。あんまり長引くと先生に怒られちゃうわ」

「っ! テメェ、後悔しても遅ぇぞ……!」

こんな状況になっても冷や汗ひとつかかない私に若干引きつつ、アクスは模擬刀を握りなおす。

「覚悟しやがれ!」

アクスが模擬刀を振りかざし、突進してきた。さて、どういう風に終わるのが一番いいのかな。彼の模擬刀を躱しながら私は小さく唸る。

 遠慮なく勝って、逆ボコボコ保健室一週間コースご案内は大人気ないしなぁ。とはいえ、わざと負けてもまた勢いづいて余計面倒くさくなりそう。

 なんて考えている間にも、アクスは連打を止めない。うん、子供にしてはとても速いわね。学院一って言われるのもうなずけるわ。

「な、なんで当たらねぇんだ……っ」

私は、アクスの攻撃を全てきれいに、最小限の動きで避けている。速いと言っても所詮は人間の子供。神獣バハムートである私にとってはスローモーションのように見えていた。

「どうした? アクス、さっさとやっちまえよ!」

「やれやれー!」

周りの舎弟が囃し立てる。そのちょっと後ろで、コリーくんも心配げに覗き込んでいた。

 そうね。せっかく観客がたくさんいるんだもの。ちょっと恥をかかせて黙らせましょう。

 私は模擬刀を縦に構える。私の脳天に向かって思いっきり振り下ろされたアクスの模擬刀を、私はその刃先でぴったりと受け止めた。カンッ! と景気のいい音が鳴る。

「っ……!!」

全体重を乗せたはずの一振りを刃先で受け止められ、アクスはさすがに言葉を失う。

 そして、不意に私はアクスを足払いした。

「うわっ」

間抜けな声を上げて、アクスはひっくり返ってしまった。そのまま私はアクスの眉間に勢いよく刃先を打ち下ろす。

「ひっ!?」

手で庇う暇も、顔を背ける暇もない。眉間の一ミリ先まで迫り、ぴたりと停止した模擬刀を、アクスは目を見開いて見ることしか出来なかった。

 しん、と辺りが静まり返った。アクスの荒い息だけが聞こえる。

 たった数秒だったけど、アクスにとっては永遠にも思える時間だったかもしれない。私はそっと模擬刀を引き、アクスから身を離した。

「アクス、あなた、筋は良いけどちょっと全体的に大振りね。もう少し丁寧に相手の動きを見たほうが良いよ」

まだ状況がうまく飲み込めていないアクスに、私は手を差し出し、優しく微笑む。

「大丈夫?」

「ぅ、あ、うん……」

アクスはぼうっとしたまま、私の手を素直にとってふらふらと立ち上がった。

「あ、アクスが負けた……?」

「そんな、まじかよ」

舎弟たちが小声でざわめく。

「じゃ、勝負は私の勝ちね。もう変な絡み方してこないでよ」

私はひらひらと手を振り、立ち去る。舎弟たちは慌てて道を開けてくれた。

 後ろでアクスがなにか熱のこもった目を向けてきていたような気もするけど、気のせいかしらね。

「は、ハヅキっ」

「コリー!」

コリーが子犬のように駆け寄ってきて、よかった、よかったと涙目で縋ってきた。

「怪我がなくてよかった……ハヅキ、すごく強いんだね」

「言ったでしょ? お姉さんは強いんだから」

「へへ、うん、そうだったねっ」

嬉しそうに笑うコリーくんに、私は思わず、彼の頭をわしゃわしゃと撫でてしまった。

「えっ?」

ぽかんとするコリーくん。あ、しまった。ノアくんのノリでやっちゃったわ。

「あ、ごめん!」

ぱっと手を離して謝ると、コリーくんは顔を真っ赤にして撫でられた頭を抑えながら、ぶんぶん首を振る。

「ううん、ううん、いいよ、ぜんぜん……」

「ごめんね、もうしないから」

「えっ!? いいよ、もっとやっても……!」

「へ?」

瞬きする私に、コリーくんは更に赤面して口を抑える。

「ううん! なんでもない、なんでもないよっ」

その時、先生が集合の号令を掛ける。

 そうして、体術の授業は無事に終了したのだった。


 ……と、思ったんだけど。

 そのあと何故か私は、アクスに校舎裏に呼び出されていた。今回はアクスひとりだ。あれ、いつもの舎弟は?

「なあに? もう用事はないと思うんだけど」

小さくため息をつく私に、アクスはしばらくもじもじと言いづらそうにしてから、意を決したようにバッと頭を下げた。

「おっ、おれの婚約者(フィアンセ)になってくれ!!」

「…………は?」

まさに寝耳に水。え、なんて? ふぃあんせ?

 全く理解できていない私を置いて、アクスはひとり喋り続ける。

「あんなの初めてだった。衝撃だった。おれより強い女がいるなんて信じられなかった」

アクスは私の手を取り、強く握りしめる。

「卒業したら、おれと結婚してくれ。お願いだ。おれ、お前……ハヅキのこと好きになったんだ!」

「ふぇええ……」

勢いに押されて、私は口をぱくぱくさせることしか出来なかった。

 強さにアイデンティティを置いている子を負かしたらこうなることもある……のかぁ、なんて思考がぼんやり冷静に頭の中を駆け巡る。

「えー、えと、ごめんなさい、私、貴方の婚約者にはなれないよ」

「そ、そんな……頼むよ、おれ、もっと強くなるから!」

上気した顔で、こちらをうるうるとした上目遣いで見てくるアクス。あなたそんな顔も出来たのね。というか強くなるとかいう問題じゃないんだけど。

「うーん、そう言われても……」

「あ、アクスっ!!」

向こうから、コリーくんが走ってくるのが見えた。

「な、な、何やってるんだ、アクス! もうハヅキをいじめるな!」

コリーくんはアクスに掴みかかり、私から引きはがす。勇気を出して助けに来てくれたのね。とっても嬉しいんだけど、状況がこんがらがりそうで私は遠い目をした。

「テメェ、コリー! おれはハヅキをいじめたりしてねぇよ!!」

「嘘つけ! じゃあ何してたっていうんだよっ」

「おおお、おれはなっハヅキに婚約を申し込んでたんだ! 邪魔すんな!」

「こんやく!? だっだめだよ!」

「はあ!? お前には関係ねぇだろ!」

ほーら、もう、ぐちゃぐちゃ。

 ぎゃあぎゃあと喧嘩するアクスとコリーくんを眺めながら、私はもうこのまま帰ってもいいかなぁとさえ思ってしまった。

「ちょっと! 君たち何やってるんですか!」

ノアくん!? 予想外の第三勢力に私はあんぐり口を開けた。なんでここに。そろそろ魔力補給しなきゃだし、探しに来てくれたのかな。

「あ! ノエル先生! アクスがハヅキをいじめてるんですっ」

「ちげーっつってんだろうが!! 婚約者になってくれって言ってただけだって!!」

「ここここ婚約者ぁああ!? そんなの許しませんよ!?」

一瞬でも先生としてこの場を収めてくれるかと期待したのが間違いだったみたい。

 ノアくんはコリーくんとアクスと同じレベルで喧嘩を始めてしまい、もう収拾がつかなくなっていた。

 そろそろ昼休み、終わっちゃうなぁ。まだお昼食べてないんだけどなぁ。お腹はすかないけど、お昼ごはんはいつも楽しみにしてたんだけどなぁ。

 私は深く長いため息をついた後、いつまでも喧嘩を続ける三人に向かって、思いっきり叫んだ。

「いい加減に、しなさーーーい!!」



 その日のすっかり夜が更けたころ。遠くでフクロウが鳴いているのが聞こえる。現代日本では考えられないほど美しい星空。

 私は、コリーくんを絶対に起こさないように細心の注意を払いながら、寮の部屋を出る。校舎に向かい、入り口まで来ると、柱の陰にノアくんが隠れていた。

「ハヅキさんっ」

小声で呼ばれ、私はこくりと頷く。

「行こう、ノアくん」

私たちは夜の学院に潜入した。

 ノアくんが蝋燭を持ってきてくれたけど、学院内はやっぱり真っ暗で、学生の頃一度夜の校舎で肝試しをやったことを思い出した。夜の学校ってすごく雰囲気あるわよね。

「……」

と、話しかけようと横を見ると、ノアくんは私の腕を掴みながら小刻みに震えていた。怖いのね。うん。

「大丈夫、ノアくん?」

「は、はひぃい……」

お化け屋敷とかめちゃくちゃ苦手そう。どこかで小さな物音が鳴るたび、ノアくんはびくりと体を飛び上がらせる。私はどちらかと言うとお化け屋敷は得意な方だから、ノアくんの反応を面白く見ながら、理事長室を目指した。


 理事長室は、三階の一番奥に位置し、厳かな両扉で見るからに特別な部屋ですという感じだった。

 ノアくんは鍵を取り出し、少し震える手でそれを鍵穴に差し込んだ。

 かちゃり、と小さな音が鳴る。よかった、ちゃんと使えたね。私とノアくんは顔を見合わせ、ほっと胸を撫で下ろした。

 静かに、静かに扉を開く。中に入り、ノアくんは部屋の備え付けの燭台に火を灯した。

 広い部屋、重厚な生地のカーテンが閉められた大きな窓に、豪華な職務机と椅子。壁いっぱいに本棚が設置されていて、隙間なく本が並べられていた。この世界、紙はやっぱり貴重みたいなんだけど、これだけ集めるなんて財力を感じるわね。

「さて、私は執務机から調べるね」

「じゃあ僕は本棚の方を」

気づかれる前に、なるべく早く終わらせよう。私たちは手際よく調査を開始した。



 ぱたん……。

 小さな小さな音だったけど、眠りの浅いぼくを目覚めさせるには十分だった。眠気まなこで体を起こし、首を傾げる。

「ハヅキ……?」

今、出ていったのかな。ぼくは一瞬ためらったけど、梯子を登って二段ベッドの上段を確認する。もぬけの殻だった。

「え、ハヅキ、どこにいったの」

お手洗いかな。そう思ったけど、なんだか不安が拭いきれず、ぼくはハヅキを追って部屋を出た。見回りの先生に気づかれないように、そろりそろりと歩く。

 お手洗いの様子を見てみたけど、誰かいる気配はなかった。どこに行っちゃったんだろう。抱いていた小さな不安がどんどんと大きくなっていく。

 なんだか、このままもう会えなくなってしまいそうで。ふっと、いなくなってしまいそうで。

「ハヅキ……っ」

いやだ。このままいなくなっちゃうなんて。

 ぼくは小走りに寮を抜け出し、あたりを見渡す。

「あれ」

ふと、校舎三階の廊下の窓から、淡いオレンジの光が見えたような気がした。

 ハヅキ? ぼくの足は気がついたら校舎に向かっていた。こんな真夜中に学院内に入るなんて、どれだけ怒られるだろうか。普段のぼくなら絶対やらないことだ。

 どうしよう、明かりを持ってこなかった。真っ暗な学院内。ぼくはちょっとだけ来たことを後悔しながらも、何かに突き動かされるように前へ前へと進んだ。

 昼間の記憶を頼りに、壁に手を付きながら早足で歩く。

 三階までたどり着いたが、どこへ行ったのかわからない。確か、光はあちらの方向に動いたはず。ぼくは恐る恐る歩みを進めた。


 着いたのは、突き当りの理事長室。

 ぼくは扉に耳をつける。息を潜めて耳を澄ますと、かすかな物音と話し声が聞こえた。

「ハヅキ、そこにいるの……?」

ぽそりと呟き、ぼくはドアに体重をかけた。普段なら鍵が閉まっているはずだ。だけど、それはゆっくりと開く。

 部屋の中は、燭台に火が灯されてぼんやりと明るかった。

「ハヅキ!」

執務机のそばに立つハヅキを見つけて、ぼくは思わず声を掛けてしまう。ハヅキははっとしたようにこちらを振り向く。その隣に、ノエル先生がいた。

「ノエル、先生?」

どうしてこのふたりが、夜の理事長室に?

「コリー! ついてきちゃったの?」

ハヅキは、ちょっと困ったように眉をハの字にした。そしてふと窓の方へ歩み寄り、大きなカーテンを勢いよく開いて窓を開放した。月と星の幻想的な明かりが部屋を更に照らす。

「コリー」

ハヅキに呼ばれて、ぼくは我に返った。月明かりに照らされる彼女は、銀色の髪がキラキラ輝いて、この世のものとは思えないほど美しかった。

「このこと、内緒にしててくれる?」

人差し指を唇にあてながら、ふにゃ、と笑うハヅキ。ぼくは心臓が跳ね上がるのを感じた。

 ああ、好きだ。そう思った。強くて優しくて、可愛くて美しい彼女が、ぼくは好きだ。

「ハヅキ……!」

想いが口から出そうになったその時、ハヅキが強く輝いた。思わず顔を背けてしまう。ばさり、と翼がはためく音がした。

 光が収まったと同時に、ぼくは慌てて窓の方を見る。ハヅキも、ノエル先生も、だれもいなかった。

「ハヅキ!!」

開け放たれた窓へ走り寄る。外を覗き込んだその瞬間、僕の目の前を銀色が駆け上った。

「……銀、竜」

それは、あっという間に夜空へと舞い上がってしまう。

 大きな銀色の翼をゆっくりと上下させ、空を大きく旋回する銀竜。背中にはノエル先生が乗っていた。

『コリー、色々と本当にありがとう。いつかまた、逢いましょう!』

銀竜からハヅキの声がした。

 銀竜、ハヅキは旋回をやめ、どこかへと向かって飛び去っていく。

 小さくなっていくハヅキから、ぼくは一瞬たりとも目を離すことができなかった。ハヅキが通った軌跡に、銀色の粒子が舞っている。


「神様……」

ぼくは無意識に胸の前で手を組み、神に祈りを捧げるように、彼女をずっと見つめ続けていた。

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