第27話 すぐそばにいる好きな人

 その瞬間、私がもたれていた扉が開かれ、後ろに倒れ込む形で誰かの足に背中が当たった。


「日彩?泣いてるのか?」


 声のする方に、あまり上げたくない顔を上げるけど、涙のせいで視界がぼやけて誰なのかが分からない。

 でも、この落ち着く声と、さっきまで隣にあったバイト終わりの匂い。

 この二つで、相手が誰なのかが分かった。


「……翔?」

「おう、翔さんだぞ」


 そう言うと、翔はいきなり屈み、私の脇の下に両腕を入れて軽く私のことを立ち上がらせた。

 一瞬のことで、何が起こったのかわからなかった私だけど、そんなことなど気にも留めない翔は口を開く。


「こんな所に座り込んでたら、暑いだろ。リビングに行きな?」


 優しい言葉で、後ろから私を支えるように呟いてくれる翔に、私の目からは更に涙がこぼれ始めた。


「おぉい、泣くなよぉ。俺が来たのが嫌だったのかー?」


 翔の言葉に私は勢いよく首を横に振る。

 そして体ごと振り向き、翔の胸に飛び込むように抱きついた。


「来てくれて、ありがとう……!」

「どういたしまして」


 優しい手が私の背中を撫でてくれる。

 それだけでも心は落ち着く。

 何のことかもわかってないはずなのに、お母さんが玄関に来るまで、何度も何度も「大丈夫」という言葉を私にかけてくれた。



 ソファーに座り、お母さんがお茶を机に置いてくれる。

 涙は止まったけど、目元はまだ赤く、隣に座る翔の服の胸部分はかなり濡れていた。


「ごめんね……翔」

「全然いいよ。もうマシになったか?」


 コクンと一つ頷くと、翔は「ならよかったよ」と言ってくれる。

 私の言葉はまだ泣いた後だから、少し震える。


 こんなに声が震えていると、引かれるかと思ったけど、翔はずっと私の隣に座って――肩と肩がくっ付きそうなぐらいの近さで座っていてくれた。


「えーっと、なんで私の娘は泣いていたのかな?」


 対面に正座で座るお母さんは、翔が悪いのだと思っているらしく、少し睨み気味に翔に問いかけている。

 そんなお母さんに、私は慌てて訂正しようと声を出そうとするが、隣からの震えていない――強い声が私の言葉を搔き消す。


「俺のせいです」

「岩瀬君のせいなの?なにかしたの?」

「少し、俺の人生のことを話したんですよ。帰り道で。それが少し、辛かったみたいです。日彩のことを、ちゃんと理解していませんでした。すみません」


 ありもしない話を勝手に作り上げた翔は、深々とお母さんに頭を下げる。

 そんなことで泣いてない!とも言おうとしたけど、翔がそれをさせないよう、常に私の口元を見張っていた。


 何か喋ろうとすれば、翔が言葉を被せてきて何も話せず、手を上げようとすれば翔の手がそれを阻止する。


 そうこうしてるうちに、お母さんもこの理由が本当なんだと勘違いしてしまった。


「岩瀬君の人生の話なんて聞いたら、誰でも泣くわよ。私だって泣いたんだもん」

「そうですかね。ですが、日彩を泣かせてしまったことは本当に申し訳ございません」

「それを私に言われてもねぇ……?日彩に言うべきなんじゃないの?」

「ですね」


 翔がそう言うと、ソファーの上でこっちを向き、正座をし始める。

 いきなりのことに、またもや思考が追いつかなくなっていると、勢いよく頭を下げた翔がソファーにおでこを擦り付けながら、


「本っ当に申し訳ございませんでした!」


 と、勢いよく、それも心を込めて言ってきた。

 そこで、ようやく思考が追いついた。翔は今、私のために謝っていてくれている。何もしていないのに、だ。

 本当に、何もしていないのによく謝るよね。

 私が勝手に自分の心を締め付けて、絶望して、悲しくなって泣いて。

 そこに偶然来たのが翔なだけであって、本当に何もしていないのにね。


 私は頭の前につけている翔の右手をとり、手のひらに一言、文字を書く。

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