第4話 元好きな人

 気持ち悪い。視界が揺れて酔ったのか、異常な情報量に頭が拒絶してるのかも分からない。

 違う。今はそんなこと考えていい状況じゃない。母さんと由比のことを考えるべきだ。

 違う。今は考えられない。だから別のことで気を紛らそうとしている。


 あーもうダメだ。何も考えようとしてないのに脳が勝手に独り言を始める。

 すべてを失うと人間はこうなってしまうんだな。現実逃避をしたくてたまらないよ。そりゃもう一つの人格を作って気を紛らそうともするよ。こんなの鬱になるよ。

 今自分が寝転がっているのかもわからないし、どこを向いているのかもわからない。


 ――もう何も分からないや。死ぬか?この世から消えるか?別に俺がいなくなったところでだれも悲しまないし。


 ――ダメだ。母さんと由比の分までしっかりと生きないといけない。こんなマイナスなことばかり考えてたら次会ったときに母さんになんて言われるかわからん。


 まるで思考が二つに分かれたかのように自分の脳内が掛け合っている。

 現実を見たくない自分と、現実を受け入れろという自分が脳内で戦っている。こんなの一日で決着がつくわけがない。

 一週間……いや、正直一年は欲しい。

 だけど、そんな時間を与えたら現実を見たくない自分が死を選択するだろうな。


 外歩きたい。頭をすっきりさせたい。

 だけど体が動かない。まぁ、五感すべて消されている今、外歩こうなんて無理なお願いか。


 ――ほんと、今だけは誰か助けてほしい。


「翔?」


 聞きなじめている声がすんなりと俺の耳を通り抜けて頭に入ってきた。

 心地いい。というか、安心が勝る。

 聴覚が戻ったのだから安心が勝るのもあるけど、俺を呼ぶこの声がとにかく安心する。


「今何してるの?」


 ……?

 今何してる?

 あー、医師から聞いてないのか。ならそんな質問をしてきても無理はないか。


「考えてる」


 たった今戻った聴覚が一瞬誰か迷うような声――無意識に数段トーンを落として言葉を返していた。

 こんな声で話してたら誰だって俺の機嫌が悪いことぐらい分かるはずだ。


「気づいてる?」


 たった今、言葉を返したんだから気づいてるにきまってるだろ。


「気づいてる」


 今の俺の口には長い言葉を話す元気もない。


「私のことじゃなくて、翔が今泣いていること」


 その言葉を聞いた瞬間、失っていた触覚が戻り、いつの間にか寝転がって目の上に腕を乗せていることに気が付いた。

 ……腕、確かに濡れてる。目元からも、何かが零れている。


「ねぇ、翔。私はあなたみたいな経験したことないから、こういう時になんて言葉をかければいいのか分からない。だから、もし、嫌なら嫌って言って、くれていいからね」


 瞬間、お腹のあたりが異常に重たくなった。そして俺が来ている服をぎゅっと二つの何かが力強く握っている。

 今まで効かなかった嗅覚も、お腹の上から漂う女子特有の匂いが良く分かる。

 俺とてそこまで察しが悪いわけじゃないから今、俺の体の上で何が起こってるのかぐらい分かる。


 おずおずと自分の腕を上げ、触ってもいいのか躊躇いながらもそっと、俺のことを抱き着くやつの背中を撫でる。

 そして、いつの間にか揺れが収まっていた目を開け、撫でているやつの様子を見やる。


「別に嫌なんて思わないから。ありがとな、日彩」


 俺の言葉に口を開くことなんてなく、ただ一つ頷くだけの日彩。

 ありがとうだけど、なんか日彩が顔を埋めてる辺りが濡れてきてるんだが……。


「なんで日彩が泣くんだよ。俺に泣かせてくれ」

「だって、こんなの……ぐすっ……聞いててもつらいんだ、もん」

「そかそか。まぁ、今はその涙はありがたいよ」


 同じことで泣いてくれるのはこちらとしても隠さなくていいという安心感があるから助かる。だけどまぁ、目の前で泣いている女子を前にして男が涙を見せるわけにはいかないな。


「翔も、泣いていいん、だよ」

「泣いてほしい?」

「欲しい、じゃなく、て。泣いて」

「命令かよ」


 さすがに泣かないけどな。泣けと言われて泣く方が逆に難しいというものだ。

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