第4章 闇からやってくるモノ①

「……」

 オフィーリアは、トレゾール邸の3階のバルコニーでベンチに腰掛けながら、城下の街を見下ろした。


 テオスの街は中間門の中に200体、城下の街にも200体の傀儡たちが巡回していて、ちょうど今は、夜間担当の傀儡のグループと、これから昼にかけて巡回する傀儡のグループが交代する時間帯だ。トレゾール邸の門の前でそれぞれの担当の代表が、担当時間に起きた出来事についての引き継ぎをしている様子が見える。夜間巡回をしていた傀儡たちは、これからオフィーリアが点検を行い、再び夜に巡回をすることになるのだ。


 基本的に“疲労”というものを感じない傀儡人形だが、機械仕掛けの人形は魔力供給が必要である上に、こまめに点検しなければいざという時に対応することができない。そのためオフィーリアは、巡回用の傀儡1200体を、3つのグループに分けて、夜間、午前、午後と活動する時間を決めているのだ。


 左手にワイングラスを持ち、飲みかけの赤ワインをくゆらしながらオフィーリアはベンチの肘掛けに頬杖をつく。

 不意に目をやった東の空が白み始めていて、日の出が近いことが分かる。どうやら、考え事をしているうちに夜が明けていたらしい。


 オフィーリア・バラクは20年前から、『眠る』ことをやめていた。


 元々賢者は普通の人間とは違うので、睡眠を取らずとも疲労することはない。そのため賢者の中には何日も不眠で研究をする者もいるが、オフィーリアのように全く眠らない賢者はほとんどいなかった。

 眠ることが許されていないのではない。だが彼女の魔力を動力とする傀儡人形は、彼女が活動休止すると多少なりとも反射速度が鈍る。国の警備を担っている者の責任から彼女は眠らないことを選択しているのだ。


主人様マスター

 オフィーリアの耳に、聞き馴染んだ声が響いた。


 気だるげに声のした方を振り返ると、そこには彼女の唯一の従者であるジェイが立っていた。

 まるで感情がないかのような顔だが、彼の瞳は心からオフィーリアを案じているかのように揺れている。

 返事をしない主人の様子を気にする素振りもなく、ジェイはさらに言葉を続けた。


「オフィーリア様、お身体が冷えます。お部屋にお戻りください」

「……“身体が冷えるから”、ねぇ……」

 皮肉っぽくそう呟きながら、嘲笑うように鼻でふっと笑う。


 比較的暖かい季節ではあるが、それでも深夜と早朝はまだ肌寒い。ジェイの心配は尤ものように聞こえるが、オフィーリアからすれば……いや、全ての“賢者”にとっては無用な気遣いだ。

 ……たかが気温で駄目になるような身体は、“あの日”に捨て去った。


 オフィーリアはすっと笑みを消し、冷たい視線でジェイを睨みつける。そして尋問するかのように、低い声で尋ねた。

「ジェイ、お前。昨夜は一体どこに行っていたの?」

「……」

 怒りにも似た主人の視線を受けながらも、ジェイは表情ひとつ変えずに真っ直ぐに受け止める。


 いつだってそうだ。大賢者オフィーリアの従者になるよりもずっと前から、この男は何事にも恐れないし、揺らがない。真っ直ぐにただ己の主人あるじだけを見つめ、主人の命に従い、それだけが最高の幸せであるかのような態度を見せる。

 実際にこの男の心の中は、己の”主人”への忠誠心で満ち溢れていた。だからこの男の心を、それで分かるのはただ真っ直ぐな思いだけだ。


 氷のように冷たい沈黙が長々と続くかと思われたその時、ガラスが割れるような甲高い音がそれを破った。音はオフィーリアの背後で鳴り、それと同時に何かの禍々しい気配が入り込んでくる。


 それは、夜を好むモノ。


 夜明け間際の薄明るい人里などに、好き好んで現れたりはしないはずのモノたちの気配だ。

 オフィーリアは息を呑む間もなく慌てて立ち上がり、気配のする方を振り返る。城下の端、数年前から誰も住まなくなった廃屋が立ち並ぶ方角。そこに広がった光景に、オフィーリアは自分の目を疑った。


「…まさか……っ!」




「ん……?」

 人の気配がして、セレナはまだ眠気で重い瞼を開けた。


 閉め切られたカーテンにちらりと目をやると、夜が明けたばかりなのか、隙間から差し込んでくる光はまだ薄明るい。視線を移して壁がけ時計を見ると、使用人たちが仕事を始めるには明らかに早すぎる時刻だ。にも関わらず、何故か部屋の外が騒がしかった。


 詳細は分からないが、何を用意しろだとか、誰それを呼んでこいと叫ぶ声や、バタバタと慌ただしく廊下を走り回る足音が聞こえてくる。

 いつもならばこんな時間に、使用人たちが忙しなく動き回ることはない。ましてや自分たちにとって主人の立場にある王族が目を覚ます程に騒がしくすることなどあり得ない。


 何かあったのか?今日は誰か客人が来る予定でもあっただろうか。そんな話は誰からも聞いていない。聞いていたら、昨日のうちから衣装の用意や、茶会か宴会などの打ち合わせが少なからずあったはずだ。

 急な来客か?それにしても、こんなに朝早くに来るだなんて、よほどの急用か、もしくは礼儀知らずのどちらかなのだろう。


 そんな呑気なことを考えながらセレナはモゾモゾと起き上がると、ぐーっと背伸びをして眠気を振り払った。

 ゆっくりとベッドから出ると、部屋の端のカーテンパーテーションの中に入り、その中にあらかじめ置いてあったドレスに着替える。


 朝の時間は、カレンはセレナの傍にはつかない。そのためセレナは、朝はいつも自分で身支度をするのだ。

 昨日のうちにカレンが用意していた、橙色のロングドレス。朝は自分一人でも簡単に着替えができるように、上から被って着られるタイプのものや、前にボタンが付いているタイプの物がほとんどだが、今日のドレスは前にボタンが付いているタイプのドレスだった。


 のそのそと着替えを済ませてからドレッサーに向かい、ブラシを手に取って髪を梳かす。元々寝相はいい方なので寝癖がほとんどなく、数度櫛を入れただけで髪は整った。来客や儀式への参加など特別な行事でもない限りセレナは化粧をしないので、朝の身支度はこれで完了だ。


 と、その時。窓の外から何かの叫び声がして、セレナはビクッと肩を震わせ咄嗟にヘアブラシを落としてしまう。

 その叫び声がただの人間のものなら、誰かが外で騒いでいるのだろうか、と思うだけで済んだだろう。だがその声は明らかに人間のそれではなく、獣とも思えないような悍けたたましい奇声。鼓膜を突き破るような声だった。


「……何?」

 セレナは恐る恐る窓に近づく。心のどこかで幻聴か、と思う自分がいたが、ただの幻聴で身体が震えるような感覚を覚えるわけがない。さらに奇声の他にも、何かが崩れる音や、人間の悲鳴と思われる声が窓の向こうから未だに聞こえてきている。


 セレナは震える手を伸ばしてカーテンを開けた。すると、そこにはまるで地獄のような景色が広がっていたのだ。

 明けたばかりの冷たい空を覆い尽くす、大きな翼を持った生き物の大群。その見た目は鳥に似ているが、顔も体の大きさも、普通の鳥のそれではない。


 人の身体を軽く掴み上げられそうなほど大きくて鋭い爪に、獰猛な牙。ギラリと光る双眸の色は魔族のように赤く、その瞳孔はまるで蛇のように鋭い。その嘴は、大きく開いたら成人男性を軽く2人ほど丸呑みできそうな大きさだ。

 セレナは、その生き物のようで生き物とは違う“モノ”の名前を、知っていた。


「…魔獣……っ!」

 魔獣。

 それは、今から30年ほど前に突如として現れた、人間でも動物でもない魔力を餌としている獣たちのことだ。


 それまではおとぎ話に登場してくるだけの存在だったそれらの正体は、30年の時を経て分かってきている部分もあるが、未だ謎に包まれていることの方が多い。

 魔獣は飛行型、陸上型、水中型と、大きく分けて3つの種類がある。それぞれにそれぞれの生態や特徴があるが、彼ら全てに共通している特性は、彼らは暗闇を好み、光のある場所には決して近寄らない、ということ。そのため本来彼らは夜間しか活動せず、日中は異界へ帰っていく、とされている。しかし、異界の存在に対する真偽は定かではないため、異界への入り口がどこにあるのか、そもそも異界が本当に存在するのかも分かっていないのだ。


 なのでテオスの街が魔獣に対して取っている対策は、夜間でも街の明かりを絶やさないようにすることと、街全体を覆っている結界。そして魔獣に対抗するマギーア部隊の結成だけだった。


 30年ほど前、現在の大賢者オフィーリアが透視能力によって知った魔獣の思考は、単純だ。ただ1つ、「闇に向かって進め」。

 警戒心の強い彼らは、人がいるような気配を感じると、自らの身を守るために人間たちを襲う。本能のみで動く彼らに、理性も知性もない。なので、何かの目的を持って人里に近づくこともなければ、人の命令に従って行動することもない。そもそも、ここまで大量に群れて行動するようなこともないはずだった。


 それなのに……。

 それがよりにもよって、もう夜が明けたこんな早朝にやってくるとは。しかも、この街に。


 テオスの街を守る結界は、オフィーリアを含む三大賢者が協力して施した大魔法結界だ。それは主に、悪意ある者たちの侵入を防ぐためのものだが、魔獣を近寄らせないようにする効果もあった。

 だというのに……。


「どうして……何でこんなにも多くの魔獣が…⁉︎」

 恐れるような声で呟き、後退りして窓から離れる。とその時、突如部屋の片隅の方で誰かの魔力が流れたのを感じた。それは、セレナが小さい頃からよく知っている人物の気配。


 セレナの気配のする方へ視線を向けると、白いカーペットの上に橙色の光を放つ魔法陣が出現した。魔法を学んだことがほとんどないセレナだが、その陣には見覚えがある。飛行型魔法と光魔法を併用して行う、光の陣の転移魔法だ。


 魔法陣には紙に直接書いて行う紙の陣と、魔力の流れを利用して作る光の陣がある。魔力持ちの中で光の陣を使える者は何人かいるが、光の魔法陣の色は、本人の魔力の色によって変わる。赤に近い色の魔力を持つ魔力持ちは、この町では3人しかいなかった。


 1人は大賢者オフィーリア・バラク、もう1人はオフィーリアの従者ジェイ、そしてもう1人は……。

「クラニオ従兄様にいさま!」


 閃光と共に光の陣から現れた男の姿に、恐怖していた心が一瞬で軽くなったと同時に、セレナは逃げるように男に向かって駆け寄った。


 クラニオと呼ばれた男は、勢いよく抱きついてくるセレナの身体を慣れた手つきで受け止め、優しく声をかける。

「セレナ、大丈夫か?」


 灰色の長髪を後ろで結び、その瞳はまるで炎の色のような橙色。少し低いが、優しい響きを持った声。セレナより頭2つ分ほど背が高く、細身だが適度に筋肉のついた身体。

 オフィーリア・バラクの一人息子クラニオ・バラクは、セレナの婚約者であり、“交ざり者”だった。母親と同じ強い力を持った魔力持ちで、マギーア部隊の副隊長として街の警備を担っている。


 交ざり者とは、半端者の中でもさらに異端な存在で、魔族と神族、両方の種族の色が混ざった、どちらの種族でもない存在だ。

 こういった交ざり者は、クラニオの他にも何人か存在している。その中の1人は、オフィーリアの唯一の従者でありクラニオの父親であると噂されているジェイだ。


 同じ交ざり者。それだけで考えれば確かに2人は親子のようだ。2人の容姿も、似ていると言われれば似ている。だがセレナは、彼らが父と息子の関係だとは思えなかった。

 そう思う理由の1つは、ジェイのオフィーリアに対する態度だ。


 噂が本当ならば、ジェイとオフィーリアは主従の関係以上に、1度か2度は一夜を共にした仲ということだ。だがセレナが見ている限りの2人の関係は、あくまで主人と従者の関係にしか見えない。

 たとえ表向きは主従のような姿を演じているだけで実際は男女の関係だったのだとしても、オフィーリアについて話す時のジェイは、愛しい女性に向けるような様子ではなく、あくまで彼女を尊敬し、ただ純粋に敬愛しているようにしか見えなかったのだ。


 だが異性として愛しているようには見えないオフィーリアとジェイの関係は、今のセレナとクラニオの関係とよく似ていた。


 2人は婚約者同士だが、そこに恋愛感情は存在しない。幼い頃から一緒に育ってきて、セレナより4つ年上のクラニオは、彼女にとって兄のような存在だった。なので今も、婚約者を心配して、というよりもマギーアの騎士の責務としてここにいるのだろう。


 クラニオの胸に顔を埋めるようにして抱きついてきたセレナは、慌ててクラニオの顔を見上げて、声を上げる。

「従兄様、一体何があったの!?どうして魔獣があんなに……!」

「待て、大丈夫だから落ち着け」

 半狂乱になりかけているセレナの頭に手を置き、なだめるように優しく撫でる。その慣れた手つきに、興奮気味になっていたセレナは少し落ち着いた。


 昔からセレナは、ムキになったり気になることがあったり、不安なことがあると感情的になってしまうへきがある。

 そんな人間は他にも多くいるだろうが、彼女の場合、覚醒が遅れているというだけでれっきとした魔力持ちだ。魔力持ちは感情が昂ると、魔力が暴走して自分の心が魔力に食われてしまう危険がある。特に自分で魔力をコントロールできないセレナのような魔力持ちの方が危険だ。魔力が暴走した時に、自分で魔力を抑制できない魔力持ちはたちまち魔力に飲まれてしまう。


 セレナも感情が昂った時には、今のようにクラニオに頭を撫でられたり、カレンに優しく宥められたりすることで、気持ちを落ち着ける事ができるのだ。


 セレナがフゥ、とひとつ息を吐くと、クラニオは彼女が落ち着いたと判断し、彼女の身体を少し離して口を開いた。

「何があったのか、俺もまだ詳しくは分かってないんだ。ただ、どうやら結界の一部が破れて、そこから魔獣たちが入り込んできているらしい」

「破れた?叔母様たちの結界が?」


 あり得ない。セレナの頭に浮かんだのは、その言葉だった。


 賢者というのは、魔力持ちの中でも特に力の強い魔力持ちで、且つ先祖返りでなければ得られない称号だ。そんな賢者たちの中でも、特に飛び抜けて優秀な魔力持ちが、三大賢者と呼ばれる者たちだ。

 Silverシルバーlightライト《白銀の灯火》、Silverシルバーflameフレイム《白銀の炎》、Silverシルバーdisasterディザスター《白銀の厄災》。

 三大賢者である彼らの実力は、確かなものだ。


 そんな彼らが協力して張った大魔法結界が、一部とはいえ破られるなんて……。

「…あり得ない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る