第2章 出会い①

「……はぁ」


 セレナの大きなため息が書庫内に響いたのと、重い扉が半ば耳障りな音を立てて閉まったのは、ほぼ同時だった。


 …父と話していると、気を遣ってひどく疲れる。

 セレナの心は、魔力訓練の時とは比べ物にならないほど疲弊していた。


 確かに、父の機嫌を取るのは簡単だ。

 だが、従順なふりを貫いて、己の心を殺し続ける行為は、人間にとって他のどんなことよりもストレスになることだと、セレナは身をもって知っていた。


 だが、それも仕方がない。


 これまでに何回か、セレナは父の言葉に物申してきたことがある。だがその度に、彼女の意見は無視され、かき消され、ひどい時には王に逆らったとして1週間の謹慎を命じられたこともあった。もっとも、謹慎の件はクラトスだけの判断ではなく、周りからの意見もあって為された処分だった。


 なので彼女は、たとえ物申したいことが山ほどあったとしても、父を論破できるだけの材料がない今は、黙って父の言葉に耐えるしかないと思っていた。


 苛立ちを振り払うようにして、セレナはいつもより大股歩きで歴史書が並ぶ本棚の前まで歩み寄る。

 ここにある歴史書に記されている20年前は、どれもあの絵本と同じ、『哀れな氷の王女と、それを救った勇敢な王』の物語ばかりだろう。絵本よりも詳しく、詳細に書かれてはいるだろうが、大まかな内容は同じだ。


 それでも、書いてある表現が全て同じであるということはない。歴史書を書いている著者は1人ではない。著者によっては解釈が違ったり、表現が違うことは考えなくても分かることだ。

 ……ひょっとすると見逃しているだけで、どこかにジェイの言った『王室を捨てた』というような記述があるかもしれない。


 歴史書に書かれている“氷の王女”の話は、以下の通りだ。


 当時オフィーリアは、自身の伯父が王になった途端に発言力を失い、結婚してからは半端者の王と魔族たちから恐怖によって支配され、自由も奪われて、精神的に追い詰められた。時期は定かではないが、自殺未遂や魔力暴走をしたらしいという記録もある。


 半端者の王と魔族たちの交易が本格的に動き出した頃には、もうすでに王女は心身ともにボロボロで、王の暴挙を止められるだけの力はあれど、実行するだけの心の余裕はなかったのだろう。


 それを救ったのが、現王のクラトスだった。


 オフィーリアは、自分を救った兄に深く感謝し、自らの忠誠を兄に捧げた。そして兄の命令に従い、半端者の王と交易していた魔族たちを……“排除しまつ”した。


 表情ひとつ変えずに「命令を実行した」ことを兄に報告したという彼女は、全身帰り血まみれで、見るに堪えない姿をしていたという。その残虐性も相まって、彼女は“氷の王女”と呼ばれるようになったという話だった。だがこれに関しては、ただ氷の魔法しか使わなくなったためにそう呼ばれるようになったという説もあるので、真偽は定かではない。


 この歴史には、彼らを知っているからこそ見える矛盾点がある。


 誰もが魔族を追い払い半端者の王を死に追いやった救世主クラトスを崇拝し、讃えた。当時のオフィーリア・レヴィンも、クラトスに協力したことで兄と同じく英雄と呼ばれるはずだった。

 だが、ついた呼び名は“氷の王女”という、不名誉ともいえるような呼び名で、彼女を英雄と讃える貴族はいない。


 王室を離れ、バラクの家門を立てて当主となったオフィーリア。離れた理由は分からないが、人によってはそれを『王への裏切り行為』と考えても不思議はない。そういう意味では、彼女が王室を『捨てた』と思われても、仕方のないことだ。だがあくまで歴史として残されている言葉は、『離れた』という記述のみ。


 一体何故、彼女は忠誠を誓ったはずの王室を捨てたのか。彼女を英雄と呼ばない時点で、彼女の行為は裏切りだと誰もが思ったはずなのに、何故彼女を庇うような記録を残したのか。


 それに、クラトスがオフィーリアを救ったというのも、その兄にオフィーリアが感謝して忠誠を誓ったというのも疑問だ。

 クラトスとオフィーリアの仲の悪さは、王族ならば誰もが知っている事実だ。そんなクラトスが、妹を救うために半端者の王を討とうとするだろうか。


 オフィーリアの方も、助けられれば誰しも感謝はするだろうが、不仲だった兄に対して忠誠を誓ったりするだろうか。

 そもそも、彼女が忠誠を誓ったとされる時期が、賢者になった後だとか、半端者の王から助けられてすぐだとか、歴史書によって若干ズレているのも気になる。


 セレナはそんなことを考えながら、いくつかの歴史書を手に取った。


 オフィーリア・バラクは、冷たい態度や表情で他者を睨みつけ、他人を拒絶しているので、セレナも直接彼女と対話したのは数回ほどしかない。

 だが、セレナには彼女が“氷の王女”と呼ばれるほどに冷たい女性には思えなかった。


 たとえ王から与えられた役割だとしても、彼女は多くの子供たちに魔力のコントロールを指南してきた。「よくやった」と少年を褒めたあの口調に、冷たい響きはまるでなかった。

 何より、彼女が纏う、薔薇の花のように赤く美しい魔力の風は、優しく、柔らかく、彼女を包んでいた。

 あんな風に魔力を流せる人間が、氷のように冷たいはずがない。


 少なくともセレナにとっては、実の娘に無関心のクラトスよりも、彼女の方がずっと強く、優しい人間に見えた。


 皆、もっと彼女の優しさを知ればいいのだ。

 そうすれば、本当に冷たい人間は誰なのか、はっきりと分かるはずだ。


 そう考えていたその時、背後に何かの気配を感じた。と思うと、細い影が背後から彼女の体に伸びてきて、口を塞ぎ、拘束する。

 首筋に当たる、硬く冷たく鋭い何かが、短剣の刃先だと分かった途端、セレナは思わずビクッと体を震わせた。


「……動くな」

 冷たく響く、若い男の声。


 自分よりも大きな、自分とは違う他人の体を背中に感じて、セレナは緊張で体が強張り、腕に抱えていた数冊の本がバサバサと音を立てて床に落ちる。


 細いのに力強い腕に固められて、身動きひとつ取れない。口を塞がれているので、助けも呼べなかった。

 嗅いだことのない、男の体臭。感じたことのない気配と、魔力の風。思わず身を固くしたセレナだったが、不思議と怖くはなかった。


 その男のものと思われる魔力の風が、怯えるように震えて見えたから。


 セレナが怖がっていないことに気付いたのか、男は短剣を握る手に心なしか力を込める。そして先ほどよりも低く、ドスの利いた声で囁いた。

「間違っても抵抗しようとは思うな。お前は俺と同じ“同族”なんだろうが、俺の方がお前より強い」


 男の声は、まるで洞窟の中で反響しているかのように、不気味な色を持ってセレナの耳に届いてくる。なのに、セレナはまだ、恐怖していなかった。


 ……同族。


 恐らく、同じ魔力持ちだという意味だろう。

 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。どうにかしてこの状況を脱しなければと考えていると、男は首筋に息がかかるほど顔を近づけ、耳元で怪しく囁いた。


「女、俺は“禁術の書”を探している。存在くらいは知っているだろう?どこにあれば答えれば、危害は加えない」

 先ほどまで冷たく、恐ろしいような色を見せていた声が、今はまるで優しく囁きかけるような声に変わっている。

 その声色はどこか幼く、顔は見えないがもしかすると背後にいる男の年齢は、自分と対して変わらないのかもしれないなどと、セレナは呑気に考えていた。


 いや、そんなことよりも、今男が気になる言葉を口にした。


 ……“禁術の書”。男は確かにそう言った。何故か男は、セレナがそれを知っていると確信しているようだ。だが、セレナはそんな名前の本など、見たことも聞いたこともなかった。


 ……そうか。


 “禁術の書”。名前から想像するに魔法書の類だ。この男は、セレナが第2覚醒を終えた魔法使いだと判断した上で、彼女にその在処を尋ねてきているのだ。

 だが、いくら城中の本を読み込んでいるセレナでも、第2覚醒を終えていない以上魔法書のことは分からない。というのも、魔法書には第2覚醒を終えた者しか読むことができないからだ。


 全ての魔法書には、第2覚醒前でまだ魔法を使えないような者や、普通の人間が勝手に開けることができないように、簡易な封印魔法が施されている。第2覚醒を終えた者は、一番初めにこの魔法書の封印を解くための解除魔法と、再び封印するための封印魔法を同時に教わり、その魔法を使いこなせて初めて魔法書を読むことが許されるのだ。


 魔法書に封印魔法がかけられるようになったのは、ある事件がきっかけだった。

 昔、第2覚醒がまだ来ていない魔力持ちが、誤って魔法書を開いてしまい、書物の中に込められていた著者の魔力に自我を飲み込まれて、心を失くしてしまうという事件があった。


 魔法書を書ける者は当然、自分も魔法を扱えなければならないので、全ての魔法書の著者は魔力持ち、それも歴史上有名な魔法使いだ。手書きで時間をかけて書かれた書物には、文字そのものに著者の心や魔力が宿る。そのため、魔力が覚醒して自分の魔力の声を、自分の心の声を聞いた魔力持ちでなければ、自分より強い著者の思いに引っ張られて自分を失ってしまうのだ。


 事件にあった魔力持ちは既に老衰で亡くなっているが、失われた心が完全に戻ることはなく、最期まで自分が何者なのかさえ分からなくなっていたという。

 その事件を機に、当時の王は同じ事件を繰り返してはいけないと、賢者や大賢者、力を持った魔法使いたちに命じて、全ての魔法書に封印を施させたのだ。


 現在、セレナを拘束している男は、魔法に関わると思われる書物を探していて、セレナと同じ魔力持ち。それもセレナとは違い、恐らく既に魔力覚醒を終えた魔法使いだ。

 それならば、彼がセレナを“同族”だとすぐに分かったわけが、容易に想像できる。


 同じ魔力持ち……いわゆる“同族”同士は、互いが近づくと気配ですぐに分かる。基本魔力の流れは常に見えているわけではなく、その者が警戒している時か、集中している時しか見ることができない。なので、魔力の流れでそうだと分かるのではない。“本能”とも言える場所、魔力の声が、「こいつは同族だ」と訴えかけてくるのだ。


 ただし、これは第2覚醒を終えた者同士の場合だ。


 片方が覚醒前の魔力持ちだった場合、同族だと気付くにはかなりの集中力がいる。どちらか一方が警戒しているか集中していれば、同族だと気付くことができる。だが気を抜いている状態で、覚醒前の魔力持ちを同族と気づくのはかなり難しい。完全に弛緩しきっている魔力持ちの周りには魔力が流れないので、普通の人間にしか見えないのだ。


 王宮に侵入してきて、警戒心は常にあるようなこの男とは違い、完全に気を抜いていたセレナは、男の気配に近づかれるまで気づかなかったのだ。


 ……まさか王城の、それも最も警備が厳しいロワ宮に、侵入者がいるだなんて、思いもしなかった。


 ……オフィーリアの、鉄壁の警備を抜けて…?

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