第1章 黒い影③



 灯りを落とし、誰もいなくなったトレゾール邸の薄暗い大広間。魔力教室は、子供の集中力の短さを考えて1時間ほどだけの訓練で終了するが、人気がなくなると、ここは一気に真冬のように寒くなる。


 ここには、主人であるオフィーリアと、従者であるジェイしか人間は住んでおらず、あとはオフィーリアが動かしている傀儡人形だけだ。人間の使用人は1人もいない。彼女の息子クラニオは、既に成人していて魔力持ちの騎士だけが集う“マギーア部隊”の副隊長を勤めている。セレナの婚約者でもある彼は、現在王城にあるトレゾール宮に住んでいて、こちらには月に1度帰ってくる程度だった。


 ジェイは凍えるような寒さに耐えながら、大広間の片付けを始める。

「ジェイ」

 途端、オフィーリアの冷たい声が反響した。

 賢者同士で、彼を名前で呼ぶのは彼女だけだった。もっとも、他の賢者がいる前では呼ばないが。


 ジェイは彼女の方へ体を向け、片膝をつく。オフィーリアは教室の始めと同じく、中央階段の上に立っていた。

 跪くジェイの顔には、先ほどセレナに見せていたあの笑顔は全くない。あの顔は、あくまで表向きのもの。ただでさえ氷の王女だの、厄災だのと呼ばれている主人の印象を、これ以上悪くしないようにするために必死で作った顔だった。


「ジェイ、さっきセレナと何を話していたの」

「……大した話ではございません」

「…お前にしては珍しく、ひどく動揺していたようだけど?」

 彼の主人は表情ひとつ変えずに、ジェイを問い詰める。まるで、責めているかのようだ。


 ……賢者の従者が、主人に嘘や隠し事はできない。

 隠そうとすれば、見破られる。主従の契約をした者同士は、魔力の距離が近くなるので、少しでも揺らげばすぐに分かるのだ。


 それが、賢者と従者の契約。

 ジェイは20年前の“あの日”から、ただ彼女のためにこの身を捧げると自分に誓い、彼女のためにこの力を使うと決めたのだ。


 ジェイは観念したかのように顔を上げ、真っ直ぐ主人を見ながら口を開く。

「……王女殿下に、“バラク”の始まりについてそれとなく問われました」

「…そう。やっぱりあの子、色々調べているみたいね」

 まるで初めから知っていたかのような口振りで答えながら、オフィーリアは階段を降りる。ジェイは咄嗟に彼女の元に駆け寄り、その手を取ってエスコートした。


 階段を降り切ると、ジェイは手を離し、彼女の元に再び片膝をつく。

「いかがなさいますか。殿下はとは違い、聡いお人です。きっかけ次第では、すぐに答えに辿り着くでしょう」

「……聞かれたのは、“バラク”のことだけ?」

「正確には、主人様が王室にいれば魔法の指導を受けることができたのに、と」

「…そう。なら、大丈夫そうね。あの子が“バラク”の正体に近づいたと判断したら、その時はすぐに知らせなさい」

「……よろしいのですか」


 そうジェイが尋ねると、オフィーリアの黄金の瞳が、薄暗い部屋の中で怪しく光り出した。

 “感情”が動くと、輝きが変化する瞳。それはまるで、小さな炎が瞳の奥で燃えているかのように、ゆらゆらと揺れている。

 ジェイがどういう意味で「いいのか」と尋ねたのか、オフィーリアは分かっていた。

 他人の前では決して笑わない氷の王女が、気味の悪い笑みを浮かべる。その姿は、まるで暗い洞窟の中で獲物を待つ獣のようだった。

 彼女は何も言わなかったが、その不気味な笑みと瞳がジェイにとっては答えだ。


 応じるように、ジェイは深く頭を下げた。




 王城に戻っていたセレナは、プランセス宮の自室に戻る前にロワ宮の書庫からいくつか本を持っていこうと、1人長い廊下を歩いていた。


 本来ならば、王族が1人で移動するなど、あってはならない。必ず1人か3人は、傍に誰かがいるものだ。

 だが、魔力持ちの彼女には、『魔力持ちの使用人以外は傍についてはならない』という暗黙のルールがあった。今この城にいる魔力持ちの使用人は、高齢で引退間近のカレンだけ。セレナは、歳をとって疲れやすくなっていたカレンを気遣って、「傍にいてもらう時間を決めるから、それ以外は休んでいて」と言い、決めた時間はカレンについてもらい、それ以外はひとりで過ごしていた。


 といっても、傍に誰もいない状態であちこち動き回るのは危険なので、書庫から本を持ってきたら自室で次にカレンが来るまで大人しくしているつもりだった。


 どこかもの寂しい、冷たくどこまでも続くような、無機質とも思える長い廊下を歩いていると、遠くからいくつも人影が見えた。

 壮年の男を先頭にして歩く、騎士と使用人、そしてオフィーリアの傀儡人形の集団だ。


 どこかに行軍でもするのかというほどの大所帯だが、セレナにとってはこれが日常だった。

 先頭の男は、白い髪、冷たく細い垂れ目の色は黄色。垂れ目なのに、見ているこちらが萎縮してしまうほどの鋭い眼光が、まるでこの世の全てを憎んでいるが如く睨みつけている。


 今年で44歳になる男だが、その見た目は年齢よりも老けて見える。

 年齢よりもずっと若いオフィーリアやジェイを見た後だからこそ、そう思うのかも知れないが。

 皺ひとつないシャツに、灰色のズボン。洒落っ気のない服装だが、服の生地そのものは上質のものを使っている。


 男の姿に思わず緊張した顔になるセレナと、男の双眸がばっちりと合う。男は元々の顔の皺が分からなくなるほどに眉間に皺を寄せ、セレナの前にずんずんと歩み寄った。セレナはそれを見て立ち止まると、ドレスの裾を持って広げる。

 外出用のドレスなので少々丈が短く、あまり広げるとみっともないが、仕方ない。


 セレナは口を開けた。

「父上、ただいま戻りました」

 男はセレナの言葉に答えないまま、彼女の前で立ち止まり、その姿を上から下まで舐め回すように見る。


 この男こそが、現王クラトス・レヴィン。セレナの父であり、“勇敢な王”だ。


 セレナが派手な服装や装飾品を好まないのは、この父の影響が強い。クラトスは催事の時以外はワイシャツにズボンといったシンプルなものばかり着ていた。


「……またバラクの元に行っていたのか」

 不機嫌そうな、クラトスの声。

 何を考えているのか分からない、ガラス玉のような瞳で睨みつけられ、セレナは心底居心地が悪かった。


 クラトスが実の妹を“バラク”と呼ぶのはいつものことだが、ただ叔母の家にいって魔力の扱い方を教わっただけだというのに、そんな目で見なくてもいいじゃないか。


 そう言い返したいのをグッと堪えて、セレナはただ短く「はい」とだけ答える。


 クラトスが妹に爵位を与えたという話が嘘だと分かるのは、これが理由だった。

 クラトスは何故か、実の妹のオフィーリアを嫌っていた。

 いや、オフィーリアに関わらず、魔力持ちそのものを嫌っているらしく、彼が王になってすぐの頃、テオスにいくつかある魔法学校を全て廃校にする計画を立てていた。

 幸い、それはオフィーリアが説得して止めたのだが、彼の魔力持ち嫌いが解消されることはなく、自分の娘が魔力持ちだと知ってからはますます悪化していっていた。


「勉強の方はどうなっている。最近は成績も落ちていると聞いたが」

「……」

 探るような父の目から逃れるように、セレナは視線だけを父から逸らす。クラトスの、他人の心を見透かさんとするその眼力が、セレナは嫌いだった。


 ……そこまで興味もないくせに。


 この人が望むのは、自分の言う通りに動く人形だ。

 まるで、オフィーリアが魔法で操る、傀儡人形のように。


 だから、この人の機嫌を取るのは簡単だ。

 ただ、従順なふりをすればいい。


「…申し訳ありません。次からは精進いたします」

「……どうだろうな。まぁ、期待しておこう」

 色のない声で、クラトスはそう言い放つ。

 きっとこの人にとって、“期待”という言葉は、彼が毎日直面している書類よりも軽い。


「陛下、そろそろ……」

 クラトスの後ろで側近の1人がそう耳打ちすると、クラトスは頷き、セレナとすれ違うようにして立ち去っていった。セレナはその後ろ姿を、先ほどまでと変わらず小さく頭を下げたまま見送った。


 彼は確かに、強い王なのだろう。だが、家族にはどこまでも冷たい、仕事人間。

 私は絶対に、ああいう大人にはなりたくない。


 クラトスの姿が遠くなると、セレナは踵を返して書庫へ向かった。

 2つの、違う靴の足音が、長く冷たい廊下に響き渡っていた。




「……」

 魔法書の棚の前に、痩せて背の高い人影が立っている。体格から見るに、それは若い男の影だ。

 男は何かを探すように、いくつかの本を開いては軽く中を確認し、「違う」と呟いて棚に戻すという行動を繰り返していた。

 そのうち苛立ってきたのか、徐々に動作が乱暴になっていく。


 どこだ、どこにある……!?


 男には、とある本を持って帰らねばならない理由があった。

 今度こそ、認めてもらわなければならないのだ。


 その時、書庫の思い扉が鈍い音を立てながら、ゆっくりと開く。

「——っ」

 驚いたように、男は息をのむ。


 誰か、入ってきたのだ。

 男は咄嗟に本棚の後ろに隠れて、扉の方を覗き見た。

 重く厚い扉を開け、白い人影が書庫に入ってくる。若い女だ。

 扉が閉まると同時に、女は大きなため息をこぼした。ひどく疲れ切った様子だったが、男はその姿を見て、確信した。


 あれは、だ。

 ならば、あれに聞けば何か分かるかもしれない。

 女は、男が隠れている本棚とは全く真逆の本棚に近づき、本を探し始める。男は足音を殺して女の後を追った。

 女が何かを考えるように低く唸りながら、本を探しているのを、別の本棚に隠れて見ながら、タイミングを測る。


 ……同族がこんなに近くにいるのに、この女は気づかないのか?


 男は疑問に思ったが、まぁいいと心の中で呟いて、懐から短剣を取り出した。

 隙を見計らい、女の背後からその細い腕を伸ばして、その体を固める。騒げないように片方の手で女の口を塞ぎ、すかさずもう一方の手で短剣の先を女の首筋に突きつける。

 女の体が驚いたようにビクッと震えた。男は怖気づきそうな心をなんとか奮い立たせて、努めて冷酷な声を絞り出す。


「……動くな」

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