宝石は眠る

夜瀬凪

君は眠る


 人は死んだら百分の一の確率で宝石となる。心臓、骨、脳。遺体発見時、焼骨後。宝石になる部位も瞬間もそれぞれだ。

 その後の扱い方も、故人の遺志・遺された者たちによって変わる。遺骨と同じ扱いで墓に入れるのが定番だが、アクセサリーにするのも人気なんだとか。酷い場合は売られることもあるらしいが、宝石に縁のない俺にとっては、その昔人間だった宝石を買ってしまうこともない。


 そう、関係ないはずだった。


「久しぶり、うさちゃん」


 家のドアがノックされたので開けたら、数年前別れたはずの恋人が俺の名前を呼んで軽快に笑っていた。

 彼女は相変わらず内巻きのロングヘアで、青のワンピースを着ていた。


 ちなみに俺の本名がラビットなわけではない。うさちゃんでもない。当時していた仕事のコードネームがラビットだったので、面白がった彼女によく「うさちゃん」「私のラビット」と呼ばれていたのだ。


「固まってどうしたの、私が来てそんなに嬉しい?」

「連絡もなしに急に来られたら驚くだろ。どうしたんだ」

 別れた後、引っ越したこの家の住所を教えた記憶はない。

「会いたくて」

 それだけじゃダメ?小首を傾げてこちらを見る顔に俺は滅法弱いことを彼女は知っている。


「はぁ、入ればいい。アイビー」

「ありがとう」


「紅茶でいいか」

 コーヒーもあるが、彼女は飲まなかったはずだ。

「茶葉は?」

「アッサム」

「嬉しいわ」

 ぱっと花が開くように笑うので、なんだかくすぐったい。茶葉に細かい彼女はアッサムのミルクティーをよく好んだ。当時常備していた習慣が抜けなくて今でも家に置いてあるのはなんだか未練がましいように感じていたが、本人に見られるのもなかなかだ。


「何か用か?」

 彼女が用もなく昔の恋人のもとに来るとは思えなかった。

「せっかちねえ、ほんと。でもまあ、時間がないからいいわ」

 ずっと使っていなかったカップとソーサーを棚から出した。


「私ね、宝石になるの」


 ミルクティーを作りながら彼女を背にして聞いてから、少しだけ後悔した。どんな顔をしていたのか見ておけばよかった。

「……そうか」


「あら、それだけ?」

「なんて言っていいかわからないだけさ」

 この様子だと、下手な慰めを必要としているわけではないだろう。


「私の宝石をあなたに貰ってほしいの」

 なんで、俺なんだ。そこでようやく振り向いた。


 彼女はからからと笑っている。

「俺じゃなくたっていいだろうに」

 実際、彼女の薬指にはダイヤモンドがはまっていた。婚約しているか、すでに結婚したか。好い相手がいるはずだ。俺にその指輪を隠す気もないくせ、宝石を引き取ってくれと言う。


「あなたがいいのよ」


 まっすぐな眼差しを見ていると、終わった恋を思い出しそうになった。


「あ、そろそろ火止めてね」

「ああ」

 カップに紅茶を注ぎながら聞いた。

「死ぬ前に、宝石になるってわかるのか」

「わかるわ。人によるらしいけど」

「お前は何になるんだろうな」

 ルビー、トパーズ、真珠。宝石には詳しくはないけれど、どれになっても納得がいきそうだ。

「さあ、あんまり興味ないわね」

 確かに、彼女と付き合っているとき宝石に関心を示すようすはなかった。たぶん、薬指のダイヤすらどうでもいいと思っているのだ。


「たぶん、今夜なのよ」

「お前、馬鹿だな」

「そうかしら」

 差し出した紅茶に口をつけ、美味しいわと微笑む彼女は美しかった。だから、やっぱり馬鹿だ。

「俺じゃなかっただろう」


 嫌いで別れたわけじゃなかった。でも、根の大事な部分が嚙み合わなくて、これ以上は無理だといって別れた。

 根が噛み合う、結婚してもいいと思えた人間が隣にいるのだろう。なのに、最期は俺の隣なのか。


「そんなに嫌なの」

「そうじゃない、ただ、」

 なんだろう、何に戸惑っているのだろう。


「ただ、怖い」

 口にしてから気づいた。ああ、そうか怖いんだ。

 付き合っていた頃があまりに幸せだったから、いまだに彼女が好きな茶葉を捨てられていないから。隣で死にゆく彼女を見つめるのは怖い。彼女の宝石が自分の手のひらにあることを想像するのが怖いのか。

 こんなに弱い人間だっただろうか。自分で自分に首を傾げたくなっているのに、彼女はとっくに知っているというふうに笑った。

「あなた、怖がりだものね」

「怖がりか、俺」

「臆病なうさちゃんじゃない。いつか死ぬのが怖いってペット飼えなかったでしょう」

 ああ、そんなこともあった。いつだったか兎かハムスターが飼いたいと言った彼女に、そう返した記憶がある。


「私が宝石になったら使い道は任せるわ。別に捨ててもいいから」

「葬式とか死亡届どうすりゃいいんだよ」

 その指輪の贈り主に何を言えばいいんだ。あなたのパートナーは、死に際あなたじゃなくて元カレを選びました。なんて、修羅場にしかならない。


「もう手配してあるから大丈夫。その辺はいいのよ。あなたはただ私の宝石を貰うだけ」

「そんなこと言われたってな」

「あ、おかわり貰える?あとお菓子とかあるかしら」

「はいはい」


 昔と変わらない態度に心の一番深いところを掴まれている。心臓が締め付けられるって表現はこの感覚なんだろう。


『例えば俺が宝石になったら、どうする?アイビー』

『そうね、小瓶にいれて棚に飾るわ。時々取り出して眺めて、磨くわ』

『悪くないな』

『それで、きっと私はあなたを想って泣くのよ』

『お前が、泣いてくれるなら俺が生きた意味もあんだな』

 そんな会話をしたのはいつだったか。まだ、二人の未来を疑っていなかった青い頃か。別れる想像はしていなかった、考えないようにしていたのに、彼女を置いて死ぬ未来は想像していた。

 今、それが逆転するのだ。


「……夜まで時間あるけど何かするか」

「ゆっくり過ごしましょう。映画とかある?」

「そこの棚にあるから好きに見てくれ」

 棚に並ぶ映画たちだって、彼女がよく好んだものだ。自分では見ないくせに、捨てられやしない。


 彼女は逡巡の末、一本の古いフランス映画を取り出して、再生し始めた。


 男女のロマンスを描いたそれをただひたすら、紅茶と菓子をお供に字幕を追う。

 一作見たところで俺は十分眠かったのだが、彼女は何も言わず二本目を手に取った。


 結局三本ほど白黒の恋愛映画を見ていた。あの頃はよくこんなふうに肩を寄せ合って夕方の時間を過ごしていたな、と思うとやっぱり懐かしかった。戻りたいわけじゃない、戻れないからこそ思い出は美しくていいのだ。


 俺はきっと、もうこの映画を見ることは無いんだろう。ただ、埃をかぶることもなくて、たまに思い出して泣くんだろう。


**


 夕飯はクリームシチューを食べた。滅多に飲まないワインも出して、案の定二人とも酔っぱらって机にうつぶせていた。

 少し寝ていたようだが、目を覚ますとまだ0時前だった。カーテンを開けたままのの窓からは満月が覗いていた。


「アイビー」

 心臓はまだ動いていたし、呼びかけるとゆるりと瞼をあげた。


「らびっと」

「……もう寝るか」

「ええ」

 とはいいつつも、動く気配のない彼女を抱き上げて、ベッドまで運ぶ。横たわらせ、隣に潜り込むと花の匂いがした。それすら、変わらなくて、涙腺が緩んだ。きっとこの香りを死ぬまで覚えているんだろう。彼女の声を忘れる日が来たって、これだけは忘れられやしない。


「……あのね、」

 顔を見れそうになくて、背を向けた。そっと零されるような声を注意深く聞いた。


「私、もう死んでるのよ」

「じゃあ、ここにいるお前は何だって言うんだ」

「ここにあるのは魂だけなの」

 にわかには信じがたい話だった。それでも、彼女がここにいるだけで夢みたいだったから、そんな話もあるのかと思っていた。


「だから、葬式も死亡届も必要ないわ。私の遺体はどこかの霊園で眠るんでしょう」

 全部終わったから、俺のところに来たのか。

「……宝石にならないのか」

 人は死んだら百分の一の確率で宝石となる。遺体は日本のどこかにあって、指輪の贈り主や家族に悼まれているのだ。

 返ってきた声ははっきりとしていて、予想を裏切った。

「いいえ」

 今度こそ何も言えなくなった俺に、彼女は静かに呟いた。


「私の魂が、意思が宝石になるわ」


 そんな、話は聞いたことがなかったし、やっぱり都合のいい夢なんじゃないかと思った。彼女の意思が、ここに来ることを望むだなんて。


「最初っから捨てさせる気なかっただろう」

 何が『別に捨ててもいいから』だ。彼女の意思でここまで来た魂を捨てられるわけがない。

 俺は、宝石を捨てられず、何もかも忘れられず、生きていくというのか。

「ごめんね。騙す気はなかったのよ。本当に捨てても売ってもいいの」

「できるわけねえよ」


「そんなあなたが好きだわ」


 死後、体から抜け出した魂が満月の夜、忘れられない昔の恋人の元へ宝石になるため向かう。なんとも彼女らしくないロマンある話だ。彼女は、輪廻の輪に乗ることもなく、宝石として留まり続けるのだろう。


「俺も、好きだよ、アイビー」

 その気持ちに報いるために何ができるだろう。


「抱きしめてちょうだい」

「仕方ないねえな」

 昔、よくそう言って抱きしめあいながら、眠りに落ちた。

 今夜もそうしよう。向き合って、細い腰をそっと抱いた。


 そして、明日宝石になったお前を柔らかい布で磨いて、泣くのだ。


「おやすみ」

「ええ、良い夢を」


**


「おはよう」

 返事が返ってくることは無い。

 昨日、ベッドでおやすみと笑った彼女はその身を宝石に変えたのだから。


 ベッドの上に鎮座する一つの宝石が、朝焼けに照らされて残酷なまでにきらめいている。

 触れたところで、すでに体温は感じない。ただ石の硬さが指先に残った。


 淡い光をはなつ彼女は美しい。たとえ、物言わぬ宝石だったとしても。彼女が存在したという証拠がただそこにあった。


 シーツに水滴が、ひとつふたつと滲んでいく。


 兎は寂しいと死んじまうんだ。それでも、俺はラビットでもうさちゃんでもないので、彼女のいない世界でまだ生きていく。

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