第3話


「遅い」


 リビングでは、両親と兄が朝食をとっていた。三人ともぴりぴりとしていて、私は瞬間的に、身を縮める。

 そこで、思い直す。


(そうだ、ここで怯えていちゃ駄目なんだ)


「ごめんなさい」


 すたすたと、私は席に着いた。並べられた朝食を食べる。

 昔なら、ひたすら気詰まりだった。けれど今は、おいしくご飯が食べられる感動でいっぱいだった。

 母が、コップをテーブルに叩きつけて、席を立つ。椅子をテーブルに向けて投げる様に入れた。

 続いて、兄が席を立つ。食器は置きっぱなしだ。


「今日も、ちゃんと勉強進めるんだぞ」


 父が兄の背に、言葉を投げる。兄の体から陰うつな怒りが発された。

 何も言わずに、部屋に入っていった。


「文則!」


 キッチンから、母が抑えた声で怒鳴る。


「今日はあの子、頭が痛いのよ! いちいち過干渉に……」

「そんなんで、受験は待ってくれないだろう!」

「そうやって追いつめてばかり!」


 私を間に挟んで、両親は言い合った。


(……ああ、そうだったなあ)


 私はひたすら、ご飯を食べすすめる。

 言い合いの途中で、父は怒気にまみれたため息をついて、玄関に向かった。

 玄関のドアが乱暴に閉まる音がする。

 そこで、母がキッチン台を叩いた。


「なにしてるの! はやく食べなさい!」


 私は食器を持って、立ち上がった。

 この言葉がわかっていたから、私は食べ続けていたのだ。以前なら、萎縮しきりで、二人の言い争いを聞いていた。


「ごちそうさまでした」

「たまには自分で洗ったらどうなの! 何もしないんだから!」


 母は、私から食器をひったくり、洗い出した。

 心臓が冷えないでもない。というより、やっぱり、体はすくんだ。

 でも、もう私は昔の私じゃない。


「ごめんなさい」


 私はびくびくせず、謝った。びくびくすると、もっと苛つかれるから。


「何、その言い方?」


  あれ、気に障ったらしい。そっか、どっちでも、これは怒られてたんだ。


「さっきからえらそうに。何か文句あるの?」

「ないです」

「ずっと不機嫌な顔して! お母さんは八つ当たりしていい道具じゃないっ!」


 ドン!


「!」


 母が起こると同時に、向こうからドアを叩く音がした。兄だ。きっとうるさかったんだろう。

 母は、ばつの悪い顔を向こうに向けて、私に


「はやく行きなさい!」


 と言った。

 私は、鞄を持って玄関へ向かった。


「行ってきまーす」


 空はどこまでも、青かった。

 

 この頃――兄は浪人していて、ふさぎがちだった。両親ともに、世間体を気にするたちで、兄にそれは過干渉だった。

 二人は、兄の一挙手一投足に一喜一憂した。

 父は、兄のことを管理したがり、母は、兄のことを甘やかそうとした。当然ぶつかり合い、喧嘩し合う。それで、兄はいっそうふさぎこみ、ひたすらに悪循環だった。

 みんなみんな、ままならない気持ちを抱えていて、そのはけ口を求めていた。

 そのはけ口が、私だった。

 

 今ならわかる。

 でも、あの頃の私は何もかも気付かなかったし、わからなかった。

 何か、おかしいくらい……みんなが不機嫌であることはわかっていた。その原因が、兄の浪人であることもわかっていた。

 けれどそれと、私が皆のストレスのはけ口にされることは、なんの関係もないことがわからなかった。

 だから、あの頃私は――とにかくとにかく、自分が悪いのだとばかり思っていた。

 私と親は別の人間だと――自分を親の一部の様に感じていたから、攻撃されると、本当にこたえた。

 それに、私は実際、兄と比べて出来の悪い子どもだったし、絵にかいた様ないい子でもなかった。だからこそ、自分の事をかばえなかった。

 

「でも、もう私は、あの頃の私じゃない! いちいち傷ついたりしない!」


 私は、坂道を駆け降りる。たったったっ、リズムは心地よく、体はばねのようだった。呼吸も全くみだれない。

 私は、いたく彼に感謝していた。

 私が戻ったのは、私の「体だけ」だ。だから、精神はかつてのように、過敏ではなかった。

 むろん、楽しさや、痛みは、ずっと鋭敏だ。意味のわからないむずむず苛々する感覚が、私の体を覆ってもいる。

 けれど、私はそれを理解している。だから、あの頃よりずっとこなせた。


「これが、魂はそのままっていうことなのかな」


 私は改札を軽やかに通り過ぎた。


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