第4話

 彼女はいつも、僕の好きなご飯を作って待っていた。一緒に住むようになってから、僕はバイトを始め、彼女は少しずつ家事を覚えた。


「おいしい。いつもありがとう」


 じっと僕の反応をうかがう彼女に言うと、彼女の顔は安堵と喜びに満たされた。その顔を見るのが、僕は好きだった。


「私でも、しん君の役にたてるかな」

「たってるよ」


 背を向けた彼女を、抱きしめてささやいた。彼女の体の温もりが、はかない笑顔が、僕を満たしてくれた。

 バイトの給料と、わずかな貯金でまかなわれる生活は、いつだってふたりきりだった。彼女は時々、働きに出ては、いつも調子を崩して辞めた。僕は就職活動をしては、お祈りされる日々だった。暮らしの余裕はどんどん減っていった。そうして、僕らはより互いを求めるようになっていった。

 僕らには、互いの存在以外しか、不安を消すものを持たなかった。

 布団の中で、じっと抱き合って、汗ばんだ体に顔をうずめ、死んだように息をひそめた。彼女は泣いた。僕も泣きたい気持ちで、その分彼女を強く抱きしめていた。

 今でも覚えている、彼女の泣き声に似た吐息も、すがってくる傷だらけの細い腕も、僕は何もかも覚えている。ずっと、忘れたことはない。


 彼女と暮らし始めて三年目の春に、僕の就職が決まった。バイト先で知り合った縁が運んできた就職だった。彼女はやはり働くのは難しかったが、すっかり家事に親しんでいた。僕の心は、何か大きなもので形作られたようになり、何かに後ろからおされるように弾み始めた。

 それから彼女は、いつも夜になると泣いた。


「こんな生活はいや」


 と言って泣いた。とにかく不安なのだと言った。怒って、泣いて暴れた。


「離れていかないで」


 僕は彼女の気が高ぶる理由が、くみ取れなくなってきていた――いや、以前よりくみ取らなくなってきていた。

 それでも、彼女のことを愛していた。彼女を抱きしめると、未だ残る社会への恐怖や、不安定な充足の不安から逃れることができた。


「しん君?」


 彼女は、たびたび確かめるように僕のことを呼んだ。そのたび僕は笑って、「何、まあちゃん」と返した。だけど、彼女は首を振って、僕の首にすがりついた。

 僕は本当は、わかっていた。彼女が何に怯えているのか、不安に思っているのかを。

 そして彼女の不安の根幹を取り除く術を、おそらく僕だけが持っていた。そのことを感づいていた。だけど、僕はそのカードを出せなかった。出すことを、躊躇い始めていた。

 抱きしめ慣れた体を、見慣れた寝顔を見つめながらじわじわとした実感が迫る。

 「今このときだけでいい」と。

 彼女のことは愛していた。けれど、僕は、この時のままでよかった。このままでいたかった。この二人きりの生活に、その先は、見たくなかった。見えなかった。


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