第4話

何故、過ちというのは届かない所に行ってしまってから気づくものなのでしょうか。

あの時きっと自分は気が違っていたのです。

でなければあんな世迷言を思うはずがありません。

ある日突然、自分の中に創作意欲が湧いてきたのも憧れの曲をどこかで聞いていたからだろうというのに、私はあんな血迷った事を思った挙句、紙に書き起こし、あろうことか作品の一部にしてしまったのです。


かつては憧れの斜め後ろに行くことが何よりの夢でした。

ですがその夢は「憧れの周りには、自分なんかと比べてはいけない程に素晴らしい方が大勢いらっしゃる」と気づいた時に「縁が続くかは考えずせめて生涯で一度だけ、一度だけお会いして話したい」という夢に変わりました。

ですがその夢はもう叶いません。

私が、あろうことかこの夢を望んだ本人が、その夢を叶わぬものへと変えてしまったのです。


自分の作った曲を「自分の創作が上塗りされる」という意味の分からない気持ちで聴いている人なんて、ましてやそんな気持ちを作品の一部として使う人なんて、好ましく思われるはずがありません。 

曲が憧れの子供だとしたらさしずめ私はその子供に近づく不審者です。

子供に向かって意味の分からない事を言っている奴となんて、関わりたくないに決まっています。


できる事なら憧れとお会いしたいと思っていました。

今日、明日にでも叶って欲しいほど渇望していた夢でした。

ですが、もう駄目なのです。

これだけの無礼を書き散らかして、会って頂けるわけがありません。


ですが、私の中にはまだ「憧れにお会いしたい」という夢が粘っこく残っています。

私はこの夢をどうにかして壊さねばならないのです。

叶わない夢は、人生において罪や恥に並ぶ程の重荷だと思っています。

こんな夢を持っていたって自分の過ちを思い出して悔しい思いをし続けるだけ、壊した方が身のため。

こう思った時から、私はこの夢を壊すための方法を考え始めました。


最初に、憧れから「一生、あなたとは関わりません」と言われるのが一番確実だろう。

と思いましたが、それでは憧れが関わってしまっているので却下しました。

私は憧れが関与して頂かなくても良い形で夢を壊したいのです。

その次に「創作ができなくなるまで感性を弱めればいいのでは」と思いつきました。

これは「創作ができなくなれば小説家の夢も閉ざされ、憧れにお会いするのが不可能になるのではないか」という思いから生まれたものでした。

ですがこれは、まず感性を弱める方法に皆目見当がつきませんでした。

それに夢だけではなく創作も失ってしまったら、自分にとって意味があると思える生き方ができなくなってしまうと思い、却下しました。

三番目に思いついたのは「後悔を引き摺ったまま生きていく」というものでした。

これが、最も現実的な案でした。

夢を壊すというものではありませんが、憧れに関与して頂かなくても良く、何も行動する必要がない、今のまま過ごしていくだけなのです。

そもそも夢という、壊れたか壊れていないかがはっきり分からないものを壊そうとするのが間違っていたのです。

ですが、この案は保留になりました。

「後悔を引き摺って生きていけるのか、そんな人生耐えられるのか、嫌だ」という夢を諦めきれない思いの数々が噴き出し、心がそれらに大きく揺らされたためでした。

結局その後、良い案が思いつくことはありませんでした。


「夢は何歳でも叶えられる」

この言葉を残酷だと思った時が、最も自分を嫌悪した時でした。

私はこの言葉が「夢は叶う、歳なんて関係なく頑張ったら叶う、だから諦めないで」というような意味の優しさに溢れた、天使が囁くような言葉だと知っていました。

ですが、知っていたにも拘わらずこの言葉に「ずっと苦しむ」などという酷い意味を作り出した上に「何歳でも」の部分に注目して「叶わない夢は何歳でも叶わないだろう」という自分が諦め切れていない事を忘れているような事を思ってしまいました。

その上で「叶わない夢だってあるというのに、この言葉はまだ潰えちゃいないと思わせてしまう」などと考えてしまいました。 

なんて事を閃いてしまったのだと、自分の理不尽、八つ当たり、身の程知らずをこの上なく恥じました。


嘆かわしい気持ちを抱く前ならこの言葉は良い言葉、希望をくれる言葉として私の頭に入ってきたでしょう。

ですが今、叶わない夢を諦めきれない私からすれば、優しい言葉の方が酷な言葉として頭に入ってくるのです。

夢を諦めきれないというのが、これほど感覚を堕落させるなんて知りたくありませんでした。


これだけ「夢はもう叶わない」と思ってもなお「そんなことない」という思いが私の後ろ髪を痛くて堪らないほどに引き続けているのです。


「生きていけるのか」と悩んでいても命を無碍になんてできません。

生きていたいです。

生きて、幸せを心いっぱいに享受したいです。 

それが人間の権利であり、義務のようなものだと勝手に思っています。

ですが私の人生には「夢が叶わない悲しさをずっと味わう」という枷が着けられてしまいました。

それに、この先どんな幸せに出逢おうとも、どれだけの幸せに出逢おうとも、曲の素晴らしさを忘れることなんてできないのです。


社会人になりたくありません。

生涯を通して絶望の緩衝材になってくれると思っていた憧れの曲に「もう会えない」という思いを付けてしまった。

その後悔を背負ったまま、一人立ちして、仕事を始め、(仕事の楽しさというものが自分に感じられるのかは分かりませんが)その仕事の楽しさを感じるまでは何も喜びがない状態になってしまうからです。

心の底から嬉々する機会が無い日々。

そんな日々なんて生きていけるわけがないと思ってしまうのです。


ですがもう、打つ手はないのです。

やはり私には後悔を背負いながら生きていく道しか残されていません。

それなのに、この期に及んでまだ自分の可能性や自分の人生が可愛く思え、しかも「もしかしたら、憧れが自分の作品を好きだと言ってくれるのではないか」という枯れた藁のような情けない期待が浮かんできたのです。

この思いを期待と書いている時点で「根底では諦めてなどいないのではないか」という考えも浮かび、一つ浮かんだらそこからいくらでも考えつきそうで、どうしても可能性を捨て切る事ができません。

私はもう、どの考えに倣って生きていけばいいのか分からなくなりました。

「後悔はしたくない」と思って生きてきました。

ですが私はその気持ちが休んでいる時に限って、後悔になる事をしでかしてしまったのです。


何故私は、希望を考える時よりも絶望を考える

時の方が頭が良く回るのでしょうか。

希望を一つ考える間に絶望は三つ思いつく。

そんな気がしてならないのです。


創作だって、きっと大成しないまま終わります。

憧れに会えない、創作も花開かない。

今際の際では悔し涙を浮かべる事になるでしょう。


何故こんなにも潰えた夢の事を考えているのでしょうか。

ずっといなくなる人の事を無意識に考えるのと同じで、この考えを失う事が自分にとって重大な欠損になる、ということなのでしょうか。

「憧れに会えるかもしれない」という考えが、私を救ってくれていたのでしょうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る