第2話

自分にとっての最良と出会った時、人はそれだけに触れるようになる。

だが感動というのは悲しい事に触れる度、薄くなっていくものなのだ。

かくいう自分も毎日毎日一曲だけを繰り返し聴き続けていたので、その曲への感動が最初に聴いた時と比べて明らかに少なくなったと感じていた。

しかし、感動が薄れているとはいえ聞かなくなるわけではない。

恐らく、感動と入れ替わりで依存心のようなものがその曲に対して湧いてくる。

その依存心が「またこの曲を聴きたい」と思わせているのだ。

どちらにせよこの曲が好きだという気持ちから生まれている事に変わりない。

それに、何度も聞く事はなにも悪いことだけじゃない。

私にとっては自分の生活が変わるほど、大きな良点が一つある。

それが、覚えるという事だ。

イントロや歌詞に始まり、伴奏やコーラス、果てには息継ぎまで、その曲を構成している全てを頭の中で再現できる。

再現できるまで覚えたら何ができるか、踊る事ができるのだ。 

といっても、頭の中で流す音源を使って踊れるのかと言われれば、まだ難しいところがある。なので、最新技術の粋を集めた薄型の奇怪な板から技術の結晶ともいえるこれまた奇怪な耳栓を通して耳へ曲を流す。

右手はギターピックという鱗のようなものをつまんでいるような手の形を作り、左手はネックというギターの細長い部分を支えているように構え、曲が始まればギターを弾いているかのように右手首を上下に動かす。

なすがままに体を任せているからか、踊っている間は部屋中をくるくると回りながらふらふらと歩き続けている。

もし、自分の部屋にタンスがあればきっと何度も小指をぶつけていただろう。

踊りに決まった振り付けはないので、同じ曲でも踊る日が違えば動きの激しさに天と地ほどの差がある。

顔だって、全て笑顔の類なのだけれど様々な形をしている。

きゅっと両目を瞑ってにっと歯を出したり、片目を閉じてもう片方を薄く開いたまま大きく口を開けたり、ふっと薄く笑んだりしている。

佇まいも仰け反ったり、仰け反らなかったり、飛び跳ねたり、急に止まったり、ゆっくり歩き出したりと忙しい。

ギターが弾けるのなら、この行動が演奏と呼ばれるものになるのだろうが、私は生まれてこの方ギターに触れたことが全くないので、変な踊りが楽しみ方の天井になっている。

それにギターを弾くように踊っているといっても、さまざまな楽器の音が入り乱れている中からギターの音だけを聞き分けるなんて器用なことはできない。

際立って聞こえた音を真似るようにして、手を動かしているだけなのだ。

文章だけ見ると面白いのか面白くないのか怪しいところだと思われそうだが、自分にとってはこれが堪らなく面白い。

その面白さは「きっとこの踊りが自分にとっての楽しみ方、その到達点なのだ」と確信した程であったが、それは違った。

同じ曲でも、際立って聞こえる部分が日によって違う事に最近気づいた。

つまるところこの踊りは青天井、頭打ちとは無縁の存在だったのだ。

だが、この踊りには致命的な欠点が一つあった。

それが自分から発せられる音だった。

これはある日の深夜、廊下を歩いている時に気づいた事なのだが足音というのは案外大きな音が出るらしい。

そんな事は露知らず、楽しさに任せて疲れ果てるまでずっと踊っていたものだから。

ついには踊りながら歌うようになっていたものだから。

親に「うるさい」と怒られてしまう時があった。

怒られたその時は「ただ動いてるだけなのに」などといった事を興醒めからくるやるせなさと共に思っていた。

が、よくよく考えてみると、踊っている最中は耳が曲の音で塞がっているのだから、足音も声もどれくらい大きい音なのか分かるはずがない事に気づいた。

自分の心に恥の思いが湧いた。

その日から、自分は踊りを踊らなくなった。

しかし、それでも曲を聴くと無性に動きたくなってしまう。

「家ではもう、踊りも歌う事もしない方が良い」と思っていた自分は、いつしか外で歌えそうな場所を探し歩くようになっていた。

すると、家から二十分ほど歩いた場所に歌えそうな広場を見つけた。

しかもそこは人が全く来ない、穴場と言える場所だったので、見つけた日以来「歌いたい」と思ったらその広場へと向かい、辺りが薄暗くなるまで歌うようになった。

どうせなら広場に行く間も歌えたら良かったのだが、残念なことに広場へ行くためには住宅に挟まれた道ばかりを通る事になるので歌うことはできなかった。

小声のような息が多く混じっている声なら出せなくはないが、それで歌っても楽しくない。

だが、言葉をしっかり入れた声はどうしても響いてしまう。

鼻歌も、楽しくなるにつれて自ずと大きくなっていき、歌声となんら変わらない煩さになってしまうだろう。

十数年使い続けても未だに使いこなせないなんて、声というのはこの世の何よりも難しいものなのかもしれない。

だがどうにかして、人の耳に入らないような形で曲に即した事ができないかと歩きながら考えていた時、足が止まった。

思いついた。

そしてまた歩み始めた。

しかし止まる前とは違う所が一つある。

聴いている曲に歩調を合わせているのだ。

足を止めた時、自分は曲の中から一定に鳴っている音や踏めそうな音を聴き分けてその音に歩調を合わせる。

という一種の行進のようなものを思いつき、即座に実行へと移した。

もう歌でも踊りでもない、ただ音に合わせて歩くだけ。

ただそれだけの事なのだが、これがやってみると踊りに劣りはするものの、自分にとって楽しいものだった。

場所を選ばないというのが更に良かった。

それにこれはただ歩くだけ、曲と足を合わせるのに数瞬気を取られるだけで、歩調が合えば後は何も考えなくて良い。

足音が煩くなっているのに気づかない、なんて事はないだろう。

つい先日に始めたばかりだからか、曲の展開についていけず、少しつまづいてしまう事もあった。

しかしこのつまづきが声のない笑いに変わるほど、面白いものだった。

きっとどんな事でも良かったのだ。

曲と自分が合わさり、それでいて楽しいと感じるのであればなんでも良かったのかもしれない。

斯くして自分は踊りの子息、曲に合わせる遊戯の後継を発明した。

我ながらとても良い発明であった。

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