歩く男

木ノ下下木

第1話

ある男が蹲って泣いていた。

このままずっと蹲っていたいと思った。

その方が楽だと思った。


だが、男には歩くことしか道はなかった。


男はよろめきながら立ち上がると、ゆっくり歩き始めた。

男は泣きながら歩いた。

時々、足を止めて泣いた。

泣き終わるとまた歩き始めた。


秋、男は暗い部屋を見て泣いた。

冬、男は大晦日と正月に泣いた。

春、男は花客を見て泣いた。

夏、男は浜辺を見て泣いた。


ずっと、道の先を考えていた。



男は少し歳をとった。

悲しみも少しだけ薄れた。

道の先を考えず、歩くようになった。


ある時、男に一粒の滴が落ちた。

その滴を見て空を見上げて、男は泣いた。

久しかった。

泣きながら歩いた。

その時を含めて三度、道の先を考えた。



男は老いた。

悲しみは消えていた。

泣く事がめっきり減って、笑みが増えた。


春の空気を深く吸いながら歩いた

夏の陽光に汗を拭いながら歩いた。

秋の枯れ葉を踏み鳴らしながら歩いた。

冬の寒さに白い息を吐きながら歩いた。


一日だけ、道の先を考えた。



男は老いた。

杖を使って歩くようになった。

若い頃の二歩が今の一歩、そう憂いながら歩いた。

男の中には慈しみしかなかった。


春も

夏も

秋も

冬も


季節の変化としか思わなかった。


道の先はまだ見えなかった。



男は少し老いた。

ある日、男は止まった。

その場に座り込んだ。

男はもう、歩けなくなっていた。


道の先が、見えたような気がした。


それから間も無くして、男は時間から抜け出した。




男は気がついた。

男は自分が立っている事に気づいた。

地平線が見えた。

男はまた、歩き出した。  


男は思い通りに歩く事ができた。

男は己を自覚した。


男は歩いた。

ずっと歩いた。

何もなく、ずっと歩いた。


ある時、男は地平線を何かが歪めている事に気づいた。

男はその何かを見つめながら歩いた。


何かの輪郭が見えた。

男に期待が湧いた。


早足で歩いた。


歩いて、歩いて、歩いて


気づいた。


男は走り出した。

地平線を歪めていた正体に気づいた。

その正体であってほしいと願った。

そんな思いを水面下に沈めて、ひたすらに走った。


走って、走って、走って、その何かが細かく見えた時


男は確信した。

確信の弾みで想いが一つこぼれ出した。

「良かった」

顔が少し歪んだ。

男は、これ以上こぼれ出さないように堪えた。

もう少しの辛抱だった。


その何かはこちらを向いていた。


男の心は一種の思いで満ちていた。


男は足を止めた。

ついに、道の先に辿り着いた。

抱き締めた瞬間、器を割った。

男の想いは、嗚咽と涙になって体から流れた。

男が救われた瞬間だった。



男が抱き締めた者も優しく男を抱き返した。

その者もまた、泣いていた。

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歩く男 木ノ下下木 @kinoshitageki

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