第37話 新野の戦い

 劉禅軍は長安から荊州へ向かって行軍した。

 私としては一日千里を行きたい気持ちだったが、現実的にはそんなことは不可能である。

 兵に朝餉を与え、過度な負荷を与えない速度で歩かせ、昼食と休憩を取り、午後も変わらぬ速度で進み、まだ太陽の光があるうちに宿営の準備をして、夕餉を食べ、兵を眠らせなければならない。

 毎日それを淡々とつづけるしかない。


 擁州京兆郡の長安から東へ向かい、同郡商県へ至った。

 魏の勢力圏を進んだが、さえぎる敵は現れなかった。

 曹操は徴発できる兵はすべて集め、大軍を形成して、南下したにちがいない。

 

 曹操支配下の兵のほとんどはいま、荊州の劉備軍と戦っているのであろう。

 荊州攻撃中の曹操軍を破れば、魏は河北の地方勢力に過ぎなくなる。

 逆に曹操軍が劉備軍を倒し、行動の自由を得て、劉禅軍、呉軍を各個撃破すれば、天下統一が成り、漢王朝は終わる。

 私たちは歴史の分岐点に立っている。


 商県から南へ向かい、州境を越えて、荊州南陽郡に入った。

 女忍隊、男忍隊や斥候がもたらす情報から、劉備軍と曹操軍が南陽郡の新野で対峙していることがわかった。

 緒戦で劉備軍は曹操軍に痛撃を与え、先鋒の楽進将軍を亡き者にし、重鎮の夏侯惇将軍を負傷させたらしい。

 劉備軍は七隊に分かれ、それぞれが自由に動くという不思議な軍勢であるという。

 曹操は怖れて守備的陣形を敷いている。


 曹操軍撃滅の機会が目の前に転がっている。

「挟撃が成立するのではないか」と私は魏延に言った。

「劉備様の軍は相当玄妙なものであるようですね。負けることはなさそうです。北の劉禅軍と南の劉備軍で、曹操軍を挟み撃ちにする形勢が確かに整っています」

「戦おう」

「もちろん戦います。しかし、曹操軍は死に物狂いで応戦するにちがいありません。まだ敵の方が兵力が多いのです。油断してはなりません」

「油断などせぬ。だが、いまこそ真の乾坤一擲のとき。全力を挙げて、曹操を討とう」


 新野北方の安衆で、魏延は我が軍の陣容を整えた。

 先鋒の馬忠は小型連弩隊である。

 中軍の趙雲は十万の兵を鶴翼に広げている。王平はその中の一兵卒である。

 姜維は遊軍となって、騎兵隊を率いている。

 李恢が隊長の親衛隊が殿軍となり、私と魏延を守っている。

「進め」と私は言った。

 

 斥候を南に放ち、情報を集める。

 南を向いていた曹操軍は向きを北に変え、劉禅軍を迎え撃つ構えを取ったという。

 二十万の劉備軍より、十三万の劉禅軍の方が打ち破るのはたやすいと考えたのかもしれない。

 殿軍だった張郃が先鋒になり、中軍は曹操、その後ろに于禁軍がいる。

 夏侯惇は失明し、もはや指揮を執ることはできないらしい。

 于禁は南方の劉備軍と戦いながら北進するというむずかしい戦闘を強いられることになる。

 我が軍が曹操軍の進軍を止めれば、父の軍との共同作戦が成立し、魏軍を圧壊させられるかもしれない。


 私は劉備軍に伝令を送った。

 曹操軍を挟撃しましょう、というあたりまえのことを確認のために伝えさせた。

 伝令は帰ってきて、好きなようにやれ、わしも好きなように戦うであろう、という父からの伝言を私に報告した。

 なるほど、確かに父の軍は玄妙であるようだ。


「好きなように戦えとのご命令である」と私は魏延に伝えた。

 魏延は苦笑した。

「わかりました。やりたいようにやらせてもらいます」


 明日は新野に到着するという夜、篝火を焚き、夜襲に備えた。

 夜明けとともに、曹操軍が接近し、大量の矢を放ってきた。陽の光をさえぎるほどの矢の雨。

 魏延は太鼓を鳴らし、全軍を後退させた。

 矢の飛来が終わって、敵先鋒の張郃歩兵隊が突進してきた。

 こちらの先鋒の馬忠隊も突進。


 馬忠隊は敵との接触直前で停止した。

 彼らの武器は尹黙が発明した小型連弩である。通常の弓矢より射程距離は短いが、十連発できる。

 連弩が初めて実戦に投入された。

 威力は驚くべきものであった。

 走っていた張郃の歩兵たちがばたばたと倒れていった。

 彼らは前進できなくなった。

 次の十矢を装填して、馬忠隊がさらに攻撃を加えた。

 連弩攻撃をくり返した。敵先鋒はまもなく全滅した。

 まだ早朝だが、立っている者はひとりもいない。

 おそらく張郃も死んだであろう。

 秘密兵器を持つ馬忠隊は矢を射ち尽くすと予定していたとおり退き、戦場を趙雲に譲った。

 曹操は驚愕し、蒼ざめているにちがいない。


 鶴翼の陣が曹操軍を包もうとしている。

 敵の方が大軍だが、しばらくの間、敵をこの戦場にとどめることができれば、劉備軍が南から到来して、挟撃が成立する。

 許褚の騎馬隊が鶴翼の中央を狙って突撃してきた。

 そこには趙雲がいる。

 一騎打ちで趙雲を倒し、突破口を開こうというのが、許褚の目的であろう。


 趙雲は中軍の将である。一騎打ちよりも、全体の指揮が彼の役目だ。

 子午道で許褚と戦ったことのある姜維が、立ちふさがった。

「どけ」と許褚は叫び、姜維を一蹴しようとしたらしい。

 姜維はどかなかった。

 槍で許褚と戦った。

 火花が散り、鉄の打撃音が鳴った。

 許褚の槍が姜維の頬を切り裂いたとき、姜維の槍は許褚の腹をつらぬいていた。

 魏軍一の豪傑は口から血を吐き、落馬した。

 いまわの際になにか言ったが、聞き取れなかった、と後に姜維は私に教えてくれた。

 姜維騎兵隊は敵の騎兵隊を蹴散らし、趙雲軍の露払いを成し遂げた。


 後に捕虜から聞いた話だが、「虎痴がやられた。趙雲が来る……」と曹操は呆然とつぶやいたそうだ。

 虎痴とは、許褚のあだ名である。虎のように強いが、愚鈍であったためにつけられたあだ名。しかし曹操は、その愚鈍さを愚直であるとして愛した。

 許褚が散ったとき、曹操軍は半ば立ち往生していた。

 背後から荊州騎兵隊が迫っていた。

「関羽が来る。張飛も来る……」

「殿、逃げてください」と賈詡は言ったそうだ。

「どこへ逃げろというのだ?」

 賈詡は答えられなかったという。

「赤壁以来の負け戦だ。あのときは虎痴とともに逃げたが、いまはあやつもいない……」

「まだ負けてはおりません」

 そう言った直後、流れ矢が賈詡の胸に突き刺さり、彼は倒れた。

 曹操は我に返って馬に飛び乗り、駆けた。


 劉禅軍、曹操軍、劉備軍が入り乱れた乱戦になった。

 数刻、戦いがつづいたが、「魏公が討たれた」「曹操が死んだ」などという言葉が敵味方の間に広がり、魏兵の投降が相次ぐようになった。

 私は、真相を確かめるように、と魏延に命じた。

 

 しばらく後、「どうやら王平がやったらしいです」と魏延が私に言った。

「王平が?」

「彼が曹操の首級を趙雲殿に献上したそうです」

「王平を呼んでくれ」

「彼はまだ掃討戦に従事しているらしいです」

「もうよい。彼はいまより将軍だ。区々たる戦いはしなくてよい」


 王平を捜し、我がもとへ呼べ、と親衛隊に命じた。

 夕方になって、返り血を浴び、血みどろになっている王平が、私の天幕へやってきた。

「ご苦労であった、王平。そなたには、いくら感謝してもし足りない」

「やるべきことをやっただけです」

 孟達を斬り、曹操を討った。

 王平はふつうでは成し遂げられないことをやった。

 それをごくふつうの仕事であると考えているようであった。

 彼は一礼し、天幕から去っていった。


 地上から曹操と彼の軍はいなくなった。

 私は勝利した、と言ってよいであろう。 

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