第17話 綿竹にて

 綿竹城の廊下を歩いていると、法正が「忙しい、忙しい」と叫びなから走っていた。

「法正、なにがそんなに忙しいのですか」と私は話しかけた。

「劉禅様」

 法正は足を止めた。

「話を聞いていただけますか」

「いいですよ。では、城主室へ行きましょう」


 私は法正と向かいあって座った。

「劉禅様、あなたと魏延殿は前しか見ていない。いまも、雒県へ進撃することばかり考えているのではないですか」

「そうですね。早く雒県と成都を落としたいと思っています」

「それでは困るのです」と法正は前のめりになって言った。


「なにが困るのでしょうか」

「綿竹の戦いで、捕虜兵を二万人得ました。そして、我が軍からは三千人の死傷者が出ました。これがなにを意味するか、おわかりですか」

「多くの死傷者が出たことは、痛ましく、悲しいことです。捕虜を得たことは、よいことだと思っています。我が軍に組み入れ、兵力を拡大することができます」

「簡単に言わないでいただきたい。厖大な事務量が発生していることをご理解ください」

 法正の目は血走っていた。


「三千人の死傷者が出た。死者は埋葬し、負傷者は手当てしなければなりません。二万人の捕虜の中にも、怪我人がいます。彼らの傷も治してやらねばならない。医師が足りません。私は龐統殿に伝令を出し、漢中郡から医師を送ってくださいと頼んでいます」

「ううむ、ご苦労さまです」

「健康な捕虜は我が軍の兵士にしなければなりませんが、それも簡単にできることではないのです。ひとりひとり面接をして、名前や階級、出身地、家族、今後の希望などを聞き取り、適切な人事配置を行う必要があります。二万人の捕虜が、すぐに使えるようになるわけではありません。私や文官たちは、てんやわんやなのですよ」

「うう……。大変なのですね」

「それだけではありません。南鄭にたくわえてある兵糧を、葭萌県、梓潼県、涪県を経由して、綿竹県に運ばなければなりません。補給路を断たれては、劉禅軍は飢えてしまいます。補給部隊の安全を確保し、必要な食糧を綿竹城で受け取る、これも重要な仕事なのです。私は、前へ進む以上に、後方の安全を保つことが大切であると考えています」

「そのとおりです。法正が言っていることは正しい」

「降兵を合わせて、劉禅軍はおよそ六万人の軍隊になりました。当初は四万人の食糧計画を立てていたので、漢中郡から送られてくる兵糧だけでは足りません。私は食糧の現地調達を始めました。占領地の有力者と会って、善政をするから協力してほしいと依頼しているのです。ああ、忙しすぎます。劉禅様、私はほとんど眠っていないのですよ」

「法正に倒れられては困ります。きちんと眠り、休養してください」

「仕事が多すぎるのです。それも、至急やらなくてはならない重要な仕事ばかりです。眠っている暇はありません」

 私はあ然とした。

 確かに、前ばかり見すぎていた。

 法正の苦労をわかってやり、助けてやらなければならない。

「李厳を呼んでください」と私は侍従兵に命じた。


 李厳が城主室へ入ってきた。

「座ってください」と私は言った。

 李厳は椅子に座り、私と法正に向きあった。

「李厳、あなたはすぐれた将軍です。同時にすぐれた文官でもある。成都の県令をつとめたことがありますね」

「はい。文官の仕事もわかっております」

「いま法正はとても忙しいのです」

 李厳はうなずいた。

「占領地対策、補給、捕虜兵人事、漢中郡との連絡、野戦病院の運営など、身体がいくつあっても足りぬほど忙しいでしょうな」

「そうなのです。さすが李厳殿、わかっておられる」

 法正は微笑んだ。


「そこでお願いがあるのです」と私は言った。

「立派な将軍である李厳にこんなことを頼むのは恐縮ですが、しばらくの間、法正の副官をつとめてくれませんか。法正を助けて、我が軍の後方の仕事をやってほしいのです。綿竹の降兵のことも、あなたならば、よくわかっている筈です。捕虜兵の中から文官として使える者を選出し、占領地行政なども担っていただきたい」

 李厳は法正の目を見た。

 法正は藁にもすがるような表情で、李厳を見つめていた。

 李厳は微かに笑った。

「わかりました。軍隊の仕事は戦闘だけではありません。兵站が大切です。法正殿の副官、やらせていただきます」

「おお、ありがたい」

 法正は手のひらを合わせ、李厳を拝んだ。


「ところで、私からも劉禅様にお願いがあります」と李厳が言った。

「なんでしょうか」

「私の部下に馬忠という者がいます。なかなか優秀な若者で、いまは捕虜となっている筈です。彼を劉禅軍で使ってくれませんか」

「優秀な若者……。それは、ぜひ会ってみたいです」

 私は、捕虜の中から馬忠を捜し、ここへ呼ぶように侍従兵に命じた。


 馬忠がやってきた。

 捕虜だというのに、少しも悲惨さがなく、にこにこしていた。

 私は驚いた。

「明るい表情ですね」

「こういうやつなのです。苦しいときでも笑っています」

「李厳様、僕は笑ってなどいませんよ。戦に負け、悲しんでいます」

「明らかに笑っているではないか」

「それは、生きて李厳様に再会できたからですかね。いやあ、負けましたねえ」

「負けたな」

 ふたりは顔を合わせ、笑っていた。

 李厳はすぐれているが、馬忠も並みの男ではない、と私は感じた。

 前世の記憶を思い出した。

 馬忠は蜀の鎮南大将軍にまで出世した大物である。


「馬忠、私は劉備の太子、劉禅です」

「馬忠徳信です」

「お腹は減っていませんか」

「腹ぺこです」

 私は侍従兵に命じ、包子を持ってこさせた。

 馬忠に渡すと、彼は「うまい、うまい」と言いながら食べた。


「馬忠、私の家臣となってくれませんか」

「李厳様も劉禅様に従うのですか」

「おう。私はすでに劉禅様の家来である」

「では、僕もそうします」

 馬忠はにこにこと笑いながら言った。その物言いは軽いが、薄いとは思わなかった。川の流れのように自然な感じだった。

「李厳、よい方を推薦してくれたようですね」

「少々頭が弱いですが、悪い男ではありません」

「李厳様、僕の頭は弱くはありませんよ。頭蓋骨は硬く、強いです。弱いのは脳みそです」

「それを頭が弱いと言うのだ」

 あはははは、と馬忠は笑った。

 彼がいるだけで、城主室の雰囲気が明るくなった。

「確かによい若者だ……」と法正がつぶやいた。


 私は魏延を呼び出した。

 魏延と馬忠を引き合わせた。

 ふたりはしばらく会話していた。

 戦陣の中で緊張を強いられていた魏延の顔が、馬忠の冗談を聞いてほころんでいた。


「魏延、馬忠を我が軍の将校としたいのですが、どうでしょう」

「はい。この男なら、つとまると思います」

「どう働いてもらいましょうか」

「自分の副官として使いたいと思います。びしびし鍛えてやります」

「李厳様は厳しかった。魏延様も厳しそうです。僕は上官運が悪い」

 馬忠はしょぼんとしていた。そんな仕草もかわいげがあり、皆の笑いを誘っていた。


 李厳が法正の副官となり、馬忠が魏延の副官になった。

 綿竹で大きな拾い物をした、と私は思った。

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