4. 小悪魔の笑み

「お、おい、それは……?」


 焦る蒼の前に悪魔はすっと手を差し出す。その甲には六芒星型の傷が刻まれ、血が滲んでいた。


「では、主様ぬしさまはこの星の真ん中に血を一滴お願いします」


 悪魔は小首をかしげ可愛い顔でニッコリと笑う。


「血!?」


「一滴でいいんですって、ほら、早くぅ」


 悪魔は小刀の柄を蒼に差し出した。


 蒼は渋い顔で受け取ると薬指の腹に刃を突き立てる。


 つぅ……。


 プクッと膨らんできた血の球を、蒼は六芒星の真ん中に擦りつける。直後、二人はほのかな黄金色の輝きに包まれ、蒼の前に青い画面が開いた。


『ムーシュを奴隷にしますか? Yes/No』


 どうやらこの悪魔はムーシュと言うらしい。


 蒼はチラッとムーシュを見上げる。彼女の美しい顔には嬉しそうな笑みが浮かび、蒼を見つめている。しかしその頭には鋭く赤い二本のツノが生えていた。


『この悪魔と仲良くやっていく……? 大丈夫かなぁ……?』


 少し逡巡したが、悪魔であれ味方が欲しかった蒼は、大きく息をつくとYesに指を重ねた。すると、六芒星から激しい光が噴き出し、扉にカギがかかるようなガチャリという重厚な音が響く。


「きゃははは! やったぁ! 主様ぬしさまよろしくねっ!」


 ムーシュはガバっと蒼を抱き上げると、嬉しそうにそのプニプニの頬に頬ずりをした。


「うぉっ! ちょ、ちょっと!」


 すると、ムーシュは蒼の胸に顔をうずめ、思いっきり息を吸い込んだ。


「うぅーん、美味しそうな匂い……」


 うっとりとした顔で蒼の匂いを堪能するムーシュ。


「お、おい! 僕は食べ物じゃないぞ!」


 蒼は慌ててムーシュの角をつかんで引きはがそうとする。


「もうちょっと、もうちょっとだけぇ……」


 ムーシュは恍惚とした表情でスリスリと蒼の胸に頬ずりした。


「もう! なんなんだよぉ!」


 ムーシュの執念に負け、しばらく蒼はその身をムーシュに預けた。



       ◇



 ムーシュは蒼の匂いを吸い込みながらついに勝ち組になった喜びに打ち震えていた。


 魔王を倒し、ルシファーを倒し、魔王軍を瞬殺した幼女はもはや地上最強である。その仲間となればある意味【世界のナンバー2】である。世界最強に連なる者として、その権勢は計り知れない。


 ムーシュは今までルシファーの秘書として甲斐甲斐しく働いてきたものの、戦闘力がある訳でもない彼女の評価は低く、あまり役に立たないダメ悪魔ポジションで悔しい思いをしてきたのだ。


 わがままなルシファーの雑用を一手に引き受け、愚痴の相手となったりそれなりに貢献しているつもりだったが、力が正義の魔王軍においては階級は低く、給料も安い。色仕掛けで取り入ろうにもルシファーはゲイであり、攻略は無理だった。


 同期がどんどん出世していく中で、いつまでもひら事務員だったムーシュの人生計画は行き詰まっていた。そんな絶望の中でいきなり現れたとんでもない希望、それが蒼である。


 蒼をうまく使って世界征服をすれば、もう誰にも自分を『ダメ悪魔』などと呼ばせない。いままで偉そうにしてきた連中は皆自分の前にかしずくのだ。


 くふふふ……。


 その光景を思い浮かべるだけで、ムーシュはこみあげてくる笑いを止められなかった。



       ◇



「では、主様、魔王城に行きましょう!」


 ムーシュはキラキラと真紅の瞳を輝かせながら言った。


「は!? なんで魔王城なんだよ?」


 いきなりの提案に困惑する蒼。


「え? だって、主様が魔王倒したんだから次期魔王はご主人様ですよ?」


 ムーシュは不思議そうに言う。


「いやいやいや! 僕は人間、魔王なんてやらないよ!」


 蒼はムーシュのとんでもない発想に仰天して声を荒げた。確かに魔王になれば呪いを解く手がかりを得やすそうではあったが、即死しか使えない人間の幼女が偉そうに新魔王だと宣言してもすぐさま暗殺されてしまうだろう。


「あ、じゃあ人間界を制覇するんですね! じゃあ皇帝ぶっ殺しましょーー!」


 ムーシュはノリノリで右手を突き上げた。


「ちょ、ちょっとまって! なんで君は頂点を狙いたがるの?」


「だって、主様世界最強ですよね?」


 ムーシュは真紅の瞳を嬉しそうに輝かせながら蒼の顔をのぞきこむ。魔王を殺し、ルシファーの一個師団を瞬殺した比類なき攻撃力は最大限に生かすべき、世界の頂点に君臨すべきだとムーシュは当たり前のように考えている。


「いや、まあ、そうだけど、強いからってテッペン狙わなくてもいいの!」


「えーー……」


 ムーシュはつまらなそうに口を尖らせた。


 このままでは一生幼女の子守で終わってしまう。世界のナンバー2の野望が潰える事態にムーシュは焦った。


 なんとか蒼に野心を持たせねばならない……。


 ムーシュはギリッと奥歯を鳴らし、思案を巡らせた――――。


 よく考えれば世界最強は周りが放っておかないに違いない。否が応でも荒波にもまれたらテッペンを目指さざるを得ない。いや、自分がそこへ誘導すればいいではないか。ムーシュはポンと手を打つと、嬉しそうに蒼を抱き上げる。


「あたしは主様の忠実なしもべ。何でもお申し付けください」


 小悪魔の笑みを浮かべたムーシュは、蒼のプニプニのほっぺたに頬ずりをした。

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