合掌



『私たち家族は、最高のチームなのよ』



 舞台裏にまで聞こえてくる拍手喝采が、荒れ狂う波音のようだと彼女は思った。

 とうとうここまで来てしまった。

 彼女は握った拳に、汗が滲むのを感じて、思わず衣装で拭ってしまう。横を見ると、全身灰色タイツの弟も顔を強張らせている。いつもなら、揶揄うようなところだが、今日に限ってはそんな余裕はお互いに見当たらない。弟の後ろで三歳になったばかりの次男が、表は灰色で裏がピンクの全身タイツ姿で父に抱かれている。その父ですら、力んだ濃い眉毛と目との距離がほぼないくらいに緊張した面持ちをしているのだ。更にその後ろを見ると、それぞれ両側に石像のように固まった祖父を従えた祖母同士が余裕のおしゃべりをしている。そして、彼女の側で舞台を覗く、これまた灰色をした全身タイツ姿の母。

 母の目はワクワクとした好奇心に満ち溢れ、輝いている。その頼もしい姿に、彼女は思わず母の手に触れる。それに気付いた母が振り返って、大丈夫とばかりに満面の笑みを浮かべると彼女の手を力強く握り返した。

「緊張するのは、舞台に出る前までよ。大丈夫。今まで通りにやればいいの」

 母は、若い頃、舞台女優だった時期があったと聞いている。だから、この余裕の表情なのだろうかと思ったが、手から伝わる微かな振動で母も緊張はしているらしいと察せられて安心した。

「大丈夫。私たち家族は、最高のチームなのよ」

 拍手と歓声がおさまると、司会者の声が響き渡り、彼女達の作品名が叫ばれた。

「次、二十七番!合掌!」

 母に手を引かれて、舞台に設置された富士山のセットの前に走り出た。

 カーテンが上がる。ちらっと客席でビデオカメラを構えているだろう叔父夫婦を目で探したが、照明が眩しくて見つけられなかった。

 おのおの配置についている。螺髪を支え、耳を持った祖父母は両脇に立ち、目と頬役の父と母が続き、私と弟が両手、鼻と口役の次男が父母に持ち上げられる。お寺みたいな音楽が鳴り始め、蠅の模型がついた棒を動かす母が台詞を叫ぶ。

 テーマは、蠅に悩まされる大仏様である。

 それに伴ってそれぞれがゆっくりと動き始めた。まず、父母。そして次男がハックションと何度も足を開いては閉じる。最後に姉と弟が、蠅を叩き落としてから合掌のポーズをしなおしてハイチーズ!「終わり!」点数が上がって行く機械音がする。

 どんどん上がっていく。

 上がって上がって、優勝の音に、達した・・!

 一家は抱き合って前に飛び出した。父がガッツポーズをする。母が泣き出す。おめでとー!と喝采の嵐を受けて、母に抱きしめられても、彼女は呆然としたままである。信じられなかったのだ。隣で弟も間の抜けた顔をしている。嘘みたいだった。

 彼女たち家族は最高値を叩き出したのだ。最後にならなければ、優勝かはわからないが、この達成感たるや。

 彼女と弟は、ぽぉーと逆上せてしまった。

 思えば、ここに来るまで長かった。仮装大賞に出場しようと母が言い出したのは、去年の正月だった。

 それから渋る祖父母を巻き込んで、テーマを考え、練習して、応募して。それから一年。まさか、こんな日が本当に来るなんて想像もできなかった。自分たちがテレビに出ているなんて!

 学校の友達に宣伝しといたことを思い出して、慌ててにっと笑顔を作った。舞台裏に引っ込んでからも、拍手と歓声が耳について離れなかった。興奮した祖父母と父母が涙目で抱き合っている。交互に次男を高い高いして頬ずりしている。そして、何度も何度も彼女と弟の頭を撫で、背中を叩く。

 自分たち家族は、新年早々ものすごいことを成し遂げたのだという興奮が彼女の内を熱を持って駆け巡る。

 今年は絶対にいい年になる自信があった。自分たち家族が協力して幸福を摑み取ったのだ。

 あたし達チームは無敵!

 今年だけじゃなく、この先もずっと、ずっと、あたし達家族は怖いことなんてない。

 産まれて間もない赤ん坊を抱いた叔父夫婦が、満面の笑みで飛び込んできた。優勝は確定だ、とビデオカメラを掲げた。そして、その予想通り、彼女達一家は最優秀賞、百万円を勝ち取ったのである。



 彼女は式場で立ち竦んだまま、遺影写真をぼんやりと見ていた。

 最高の笑みを浮かべてピースしている母。

 大きな百万円と書かれたプレートを家族で抱えて、記念写真を撮った時のものだ。あれから、たった六年しか経ってないのに、どうして自分はこんな所に立っているのだろう・・

「ねえちゃん、父さん知らない? 納棺式、始まるって」

 弟が、相変わらずの間の抜けた顔をひょっこり覗かせた。小学生の時から変わらない顔のくせに、高校生になって一気に伸びた身長と野球部でついた筋肉のせいで、なんだか体だけ大人の男みたいに不格好に見える。首から下に分厚い肉ジュバンを着た仮装みたい・・といつも思う。ネクタイをしたブレザー姿だから余計だ。

「見てないよ。喫煙所は?」

「見たけど、いない」弟は、眠そうな厚ぼったい瞼に包まれた目を、母の遺影に向けた。

「あれって、仮装大賞の時のやつ?」そうだと答えると、弟はなにかを思い出すようにして莞爾に笑んだ。

「母さん、あんまり変わってないな」

「大人だから。変わるのは、あたしたち子どもと、年寄りだけ」

「けど、まだ、バアちゃんもジイちゃんも元気で変わらないぜ」

「そう見えるだけだよ。表面だけじゃわからない、わからなかった。でしょ?」

 母の子宮頸癌が見つかった時には、もう手遅れだった。

 疲労や冷え、精神的な悩みなどが腹痛に繋がりやすい体質だった母は、大腸ポリープと子宮筋腫を一度ずつ経験していた。なので、普段から腹痛に慣れていたのだ。腹痛が起こっても、ちょっとやそっとのことでは、病院には行かない。行ったところで、原因不明と言われて胃腸薬をもらうのが関の山だったからだ。母はいつも、温めたり横になったり、食事制限をしたりと今までの経験と自然治癒の知識だけで乗り越えていた。自律神経失調症。ストレス性胃炎。過敏性腸症候群。生理痛。月経困難症。便秘。様々な臓器が詰まっている腹の痛みには、いくらでも病名はつく。どれも診断が曖昧なものである場合が多いことを、母は病院を巡って知ったそうだ。死に至ることはないが完治もしない、体質と思って付き合っていくしかない病気の数々。ちょっとしたことで腹痛を起こしては憂鬱そうに横になっていた母は、己の体を呪っていた。

 痛みも日常茶飯事になれば徐々に慣れてくるものらしい。それを油断していたと言われればそれまでだが、それらの腹痛と違った腹痛だったと気付かなかったのかと母を責める気には、どうしてもならない。母は、なるべくして、とうとうなってしまったのだと思う。遅かれ速かれ、いつかはこんな日が来たのだろうが、それにしたって、いよいよ我慢しきれなくなってからは複数の病院にかかっていたというのに、発見が遅かったことについては、医者に苦言を申し立てたい気持ちが未だ拭い切れずにいる。畑違いだからわからないと、散々たらい回しにされた挙げ句、やっと発見されたのは一ヶ月後だ。ヤブ以外の何者でもないのではないか。母は医者に殺されたのだと、口にこそ出さないまでも、父を始めとして家族全員が心ならず恨んでいるのは手に取るようにわかる。ヤブ医者が、痛みに強い母の表面だけを見て、誤診したに決まっている。そうじゃなきゃ、手遅れになるまでわからないはずはないだろう。彼女は苛々と爪を噛んだ。

「おまえたち、なにやってんだ。納棺式始まるぞー」

 父が式場にブラブラ入ってきた。オレは父さんを探してたんだぜ、と弟が太い眉毛をゲジゲジと動かした。

「そうだったか。ちょっと買い物に行ってたんだ。近くにスーパーを見つけたからな。今日は、いい天気だぞ」

 知っている。今日は、葬儀に不似合いなくらいの快晴なのだ。

 鮮やかに色付いた紅葉とイチョウが競い合うようにして秋麗を彩っている。透明感のある秋風は、木の実のような香ばしさと、金木犀の甘さが調和されたような匂いがした。食いしん坊だった母が、一番好きな季節だ。

 父は手にさげた大きなビニール袋を、持ち上げた。

「梨に柿に芋、林檎に里芋に秋刀魚、ブドウに栗に無花果。ぜーんぶ供えてやらないと、母さん不貞腐れちゃうだろ」

「銀杏は?」と、弟がすかさず聞くと、しまった忘れてた!と、父は額を叩いた。

「秋刀魚って、どうやってお供えするの? 焼かなきゃ無理じゃない?」と、彼女が言うと、それもそうだな、家で焼いてから持ってくるかーと父は腕組みをし始める始末。料理屋さんに頼めないかなぁーと真剣に悩んでいる。

「今夜はここに泊まるんでしょ。秋刀魚はさ、家に帰ってから、仏壇にお供えすればいいんじゃないの? ちゃんとパリパリに焼いてさ。母さん、パリパリの秋刀魚が好きだったんだし。銀杏もその時でいいんじゃん」とりあえず部屋の冷蔵庫に入れときなよ、と弟が解決案を出したので、採用となり、三人は部屋へと向かう。

「母さん、いつも旅行で着てたヒラヒラのスカートあったろ? ほら、魚肉ソーセージみたいな色のさ」

 父の比喩表現に、二人は思わず吹き出した。言いたいことはわかる。薄ピンク色のスカートのことだ。

「それと、マックシェイクみたいな色のブラウスを合わせて持ってきた。今頃着せてもらってるだろう」

「全身タイツじゃなかったんだ?」と彼女がニヤニヤと聞くと、迷ったんだ、と父は真剣な顔をした。

「あれは、思い出深い恰好だもんな。でも、人生の最後を締め括る装束としてはどうなのかな? と思ったから、持ってきはしたが、一緒に納めてもらうことにした。それで、よかったか?」

 いいんじゃない、と子ども二人は声を揃えた。

「あの服は、ハワイ旅行にも着てたもんね」

 仮装大賞で勝ち取った百万円は、家族総出で行ったハワイ旅行で消えたのだ。


 母は、父が言っていた服を着て、骸骨のように痩せ細った顔で横たわり、皆を待っていた。

 最初に悲しげな悲鳴を上げたのは、祖父母だ。それから、親戚が嗚咽を漏らし、つられて次男。

 納棺式は、ズルズルだった。

 彼女と弟は母の顔の両脇に陣取り、父は足元から母をじっと見ていた。納棺師に言われるままに、全員で手を拭いたり、化粧を手伝ったりする。彼女は初めて、自分以外の誰かに施すチークで緊張して上手く塗れなかった。

「最後に、口紅を塗って差し上げてください」

 全員の視線が、足元で仁王立ちしている父に集められた。

 母を凝視して無言の対話をしていたらしい父は、最初、その場の視線にまったく気付いていなかったが、少しして、どうした? と我に返った。

「最後なんだから、父さんが塗ってあげなよ。口紅」長女が顎をしゃくる。

「俺? 無理だよ無理。おまえたちがやってあげなさいよ。父さんは下手くそだから」

「仮装大賞の時、母さんに塗ってあげてたじゃん。オレ見てたぞ。最後なんだから、最愛の妻にやってやれよ、夫!」と、次男を抱いた長男が活を入れる。

「だって、どうせおまえたち、ヘタクソだって文句言うだろうが。イヤだよぉ」と渋る父に、絶対に言わないからーと子ども達が、納棺師から渡されたリップパレットとリップブラシを父に持たせる。

 父は渋々受け取ると、パレットの中から赤に近い色を選んで、ブラシで取り、母の顔に腕を伸ばした。その様子は、さながら画家だ。

「ねえ、赤すぎじゃない?」と、早くも長女から忠告が入る。

「いいの」と、父。緊張しているらしく、筆先がぷるぷると震えている。

「食み出してるよ」と、長男が突っ込む。

「仕方ないだろ」慣れてないんだから、と父はブラシとパレットを納棺師に放り投げた。あとは適当にやっといてください、ということらしい。納棺師は手早く、食み出した線を綿棒で消したが、父がやったものは残してくれた。

 母の旅立ちの準備が整った。

 子ども達は、握った母の手をどうしても離せないでいる。こうして握り続けていれば、冷たい手が温まって生き返ってくれるかもしれないなどという、虚しい願いをせずにはいられなかった。本当にこれが、母に触れられる最後なのだ。そう思うと、涙が止まらず、母の顔が霞んでしまいよく見えないのだった。

 父は、黙って、足元から母に語りかけているようだった。長男は小学生の次男に言い聞かせているように見えて、実は、自分に一生懸命言い聞かせているのだとわかる。納棺の時間が迫っていた。

 このまま時が止まってしまえばいいのにと誰もが思っている。いや、それができるのなら、時が戻ればいいのに。輝かしい、あの仮装大賞の当日に戻ることができれば。不幸の気配なんて微塵もなかった、あの時間に。あの幸せな時間に。そうすれば、きっと、この悲しい未来を塗り替えることだって、或はできたかもしれない。

 母と離れたくなかった。

 母を棺に入れたくなかった。

 そうなったら、もう永遠にお別れなのだ。もう、母の姿に会えないのだ。それを思うと、辛かった。

 父は、声も出さずに、静かに涙と鼻水を垂れ流していた。

「納棺してさしあげても、よろしいでしょうか?」

 納棺師の言葉が、無慈悲な鬼のように聞こえて、彼女と弟たちは一層強く母の手を握りしめて泣く。

「・・お願いします。納棺してやってください」

 父だ。

「おまえたち、母さんが困ってるぞ。おまえたちと離れて一番辛いのは、母さんなんだから。わかってやれ」

 父の言葉で、子ども達は握っていた母の手を、渋々胸の前に置いた。

「ほら、合掌だ!合掌!おねえちゃん!ほら、にいちゃんも」

 父が言っているのは、仮装大賞で二人がやった合掌のことだ。二人で背中合わせに座ってハイタッチをするのだ。だが、こんな状況で、できるわけがないだろう。すると、小学生の次男が、泣きながら自らの手を合わせて合掌をした。

 それを見た長女と長男は、母の上に両手を伸ばして、そっと合わせた。精一杯の合掌だ。

 二人の涙が降り注ぎ、合わさった母の手を濡らしていった。

「今まで、ありがとうなぁ。楽しかったよぉー・・」

 そうして母は納棺され、母が好きだった果物や、全身タイツを入れた棺の蓋は閉められた。

 天窓から見る母の顔は、もう別の世界の人のように見える。

 こうして、少しずつ、肉親の死というものを受け入れていくのだと彼女は感じた。


『私たち家族は、最高のチームなのよ』


 母が言っていた言葉が、頻りに思い出される。

 いくら最高のチームでも、メンバーが欠けていったら、解散じゃないか。そして、これからは、どんどん欠けていくのだ。そう考えると、恐ろしくなった。死のバトンが、今度はいつ、誰に、どんなタイミングで回ってくるのか。

 順番的には、次は祖父母なのかもしれない。それから、父だろうか。それか叔父や叔母? いつかは自分や弟達にも、死のバトンは容赦なく巡ってくるのだ。そうなったら、誰もいなくなってしまう。チームどころの話じゃない。

「母さんさぁ、おまえに女優になって欲しかったみたいだぞ」

 母の入った棺が運び出された後、暗い表情で座る娘の隣に腰をおろした父が、彼女の肩を抱いた。

「は? なんであたし? 母さんが、女優に復帰したかったんでしょ?」

「まぁそれもあるかもな。でも、我家で唯一の娘であるおまえに、後を継いで欲しかったみたいなんだ」

「なにそれ。そんな勝手に・・無理無理。あたし、演技力とか皆無だし」

「そうか? さっきの合掌も見事なもんだった」笑えない冗談なので、打つ真似をしたが父は動じずに笑っている。あれだって立派な演技だと言って取り合わないのだ。

「けど、仮装大賞、楽しかっただろ?」

「・・楽しかったけど。それとこれとは別の話だよ。あれは、みんながいたからできたことじゃん」

「まぁそう頭ごなしに否定せずに、ちょっと考えてみたら? 娘が母親の夢を継ぐなんて、素敵なことじゃないか」

「簡単に言わないでよ!」唇を尖らせると、そういうところ母さんにそっくりだなーと大笑いをして逃げていく。

 式場に母を安置できたので焼香をあげて欲しいと、声掛けがあって、めいめい式場へと向かっているのだ。

 彼女は、小走りに駆けて行く父の後ろ姿を見送りながら、一歩ずつ足を前に出した。母が息を引き取ってからずっと、足元がふわふわ浮いているような気がしていた。まるで、雲の上を歩いているみたいに現実味がないのだ。さっきの父さんの言葉だって・・

 父には反抗的な態度を取ったが、決して悪い気はしなかった。家族の夢や意思を、リレーのように未来へと繋いでいく。素敵なことだ。自分にできるのだろうか? あの時、舞台の袖で握リ返してくれた母の、手の温もりと力強さが思い出された。荒々しい波音のような喝采を思い出し、ゾクゾクと鳥肌が立つ。あの割れるようなスタンディングオベーションを浴びたら、また奇跡が、起きるかもしれないな。


『緊張するのは、舞台に出る前までよ。大丈夫』


 あの手を思い出せれば、不可能を可能に変えていけそうな気がするから不思議だ。怖いことなんてない。そうなのかもしれない。彼女は、真っ直ぐに顔を上げると式場に向かった。その足取りには迷いはなかった。

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