末期の水
「ねえ、お父さん、怒ってるの?」
姉がヒソヒソと聞いてきた。近くで見る姉の頭は、全体的に白髪が目立って灰色に近い色合いだ。少し前までは、きれいな栗色だったので、余計に違和感を感じた。染める余裕がないのは離婚をしたことと関係があるのだろうか。子ども達はどうしているのだろう。男の子と女の子の二人いたはずだ。聞きたくとも気軽に話題に乗せることが憚れる内容のような気がして、姉から話してきてくれるのを、なんとなく待っている自分がいた。
そんな姉から、不機嫌そうな皺を顔中に寄せて憮然と座っている父へと視線を滑らせた妹は、わかんない、けど朝からなのよ、と答えた。
「勘弁してよねー・・今日はお母さんの葬儀だってのに」
遠慮なしの娘たちの会話が聞こえていないはずはないだろう父は、むっつりと押し黙って湯飲みを啜っている。
老齢八十五歳。町内会の自治会長を勤め、シルバーボランティアとして精力的に活動し、介護とは無縁の矍鑠とした生活を送っている彼は、背筋がしゃんと伸びた姿勢で、置いた湯飲みをぎろっと睨んでいた。
元より兼ね備えた気難しさと頑固さは、年と共に柔軟になるどころか増々堅牢になり、妻以外では娘たちでさえ彼の本心を窺い知るのは骨が折れることだった。彼の妻、つまり娘たちの母親が存命中には、彼女を介してでしか、父親の意思や気持ちを娘たちが知ることはできない状態だったのである。父親と娘の橋渡しという重要な役割を担っていた母親が亡くなってしまった今となっては、分厚い壁で何重にも覆われ鉄条網が巻き付けられた父親の心中には、自分たちで近付いていくしかない。のだが、誰に似たものだか、姉妹はどちらも面倒臭がりな上に、地道な努力を厭う傾向にあった。そのため、母親が臨終の床にある時から既に、お互いの意見に反発してそっぽを向くの繰り返しだった。双方が歩み寄るための道筋など現れる気配すらない。
『お父さんを助けてあげてね。不器用なだけなのよ』
最後の母の言葉も姉妹にとっては、受け身でしかなかった。父から助けを求めてきてくれたら、あたしたちも応じてあげなくもないけど。なんせ、あの意地っ張りの父のことだ。そんな日は永遠に来るはずはないだろうと、いささか高を括ってもいた。自分たちのこれから先の人生に、心を許さない父に苦労して歩み寄り、説得して支援するなんていう事柄は全く必要とは思えなかったのもある。けれど、そうとばかりは言っていられなくなった。母が物故したことにより葬儀や火葬、納骨など父と話し合って進めていかなければならないことが山のように発生してきたのだ。
「喪主は、お父さんがやるのよね」
病室を整え、母が入院していた際に使っていたパジャマや小物をまとめていた妹が口を開いた。
父は、親戚や友人、近所に知らせないといけないのだと言って一足先に帰宅していた。姉は、窓辺に寄りかかって艶のない髪の毛を指に巻き付けながら、空っぽになったベッドをぼんやり眺めている。
「当たり前でしょ。だから、任せておけばいいんじゃないの? あたし達が口出ししたとこで、きっと無駄よ」
「そうかもしれないけど。あたし達だってお金を出さなきゃいけないんだから、傍観してるだけじゃいけないわ。ぼったくりの葬儀社なんていくらでもあるって聞くし」まとめ終わった荷物を軽く叩く妹。
「互助会に入ってるところがあるんじゃないの? あたし、お母さんに聞いたことあるわよ。そこでやるんでしょ? それなら、今まで積み立てたお金で賄えるんでしょ。安心じゃないの」姉は平坦な口調で続ける。
「それが積み立てた金額だけじゃ到底足りないらしいのよ。あれやこれやとオプションをつけたり、火葬場まで運搬費用だの手数料だの色々込みだと結構かかるみたいで。ドライアイスから念仏までいちいちお金がかかるのよ。だから、どれが必要でどれが不要か、お父さんだけじゃ判断するのは大変よ」
「足りないって、なによそれ。詐欺じゃないの。お母さんの体を人質に取られて、足元見られてるってわけね」
「そのお母さんに言われたじゃない? お父さんを助けてあげてって」
「いらないって言うわよ」いつもそうじゃない、と、姉は溜め息をついた。
「それに、あたしのとこだって、今そんなに余裕あるわけじゃないのよ。知ってるでしょ? 離婚したの」
「お母さんから、聞いた」離婚したってことだけ、と付け足した。
「お父さんのことだけに構ってられないのよ。あんただって、そうでしょ?」
最近、無職になった同棲相手とは、かれこれ十年程の腐れ縁だ。未だ結婚には至っていない。一緒にいて楽だからという理由だけで、ズルズルと続いている。派遣社員として働いている妹は、専業主婦だった姉を羨ましく思いはしても、自分には無関係な世界のことだと割り切っていた。姉には言えなかったが、男に養ってもらってたから、離婚した時に大変なんじゃないかと密かに考えたりもしていた。男なんて女が養うくらいがちょうどいいのよ、といい歳こいて定職にもつかずにいる同性相手とのことを美化して、ちょっと優越感に浸ったりしている。母が生きている時には、よく忠告されたものだ。あなた達の同棲生活に愛情はあるの? と。そんな母の言葉を聞き流しながら、彼女は腹の底で毒突いていた。お母さんだって、どうせ見合い婚だったくせに。逃れることができない環境だったから、お父さんに対して持っていた情を愛情だと思い込んだだけじゃない。それでも、母だけが彼女の行く末を心配してくれる。愛情のある相手と幸せになりなさい、と何かにつけて言われたのだった。
「あたしは大丈夫よ。三日はいられる」
折悪しく同棲相手と喧嘩していた妹は、むしろ実家で羽を伸ばしたかったのだ。
「ねぇ、派遣って稼げるの? あたしでもできるかしら?」姉が嬉々として聞いてきた。
「エクセルとかパソコンスキル持ってる?」
「持ってるわけないじゃない。あたし、短大出てすぐ専業主婦になったのよ。社会人経験だってないもの」
それって、勝手にでき婚したあなたのせいだよね。でき婚した挙げ句に離婚してって、つくづく自業自得でしょーが!どうして、そんなドヤ顔でいられるのか、姉の精神を疑いながら、じゃあ無理だね、と冷たく切り捨てた。
「あたしでもできる仕事、なにかないかしら? あったら紹介してよ」と、遠回しに金がないアピールをする姉から視線を逸らせて、はいはいと流しながらも胸の内で、自分で探してどうにかしろ、と辛辣な罵声を浴びせた。
「お父さんのボランティアでも紹介してもらいなよ」
「イヤよ。お父さんとだけは絶対に関わり合いたくないの。それに、ボランティアはお金にならないじゃない」
「社会人経験は詰めるよ。なんにしても、お母さんの葬儀なんだから、お姉ちゃんもしっかり参加してよね」
ピシャリと打ち切る妹を、不服そうな目つきで見つめた姉は、はいはいと呟いた。
喪服のネクタイを締めた彼は、険しい顔つきでタンスの上に乗っている妻の写真に目をやった。
それは、一昨年に北海道旅行をした時に撮ったものだ。ラベンダー畑を背にした妻は心底幸せそうな満面の笑みを、カメラを構えた彼に向けている。この時には、どこも不調などなかったのだ。健康診断にも毎年欠かさず行っていた。それなのに、どうして異常を見落としていたのだろう。長年かかっていた医者だけに文句も言えない。妻も医者を責めたりはしなかった。だから、彼は苦い苦い怒りを飲み下さなければならなかったのだ。優しい妻だった。出会った頃から変わらず、野菊のように可憐で、芯が強く思い遣りのある女性だった。そんな最愛の妻は死の間際、彼に遺言を残していたのだ。彼は、それを考えるだけで溜め息が漏れる。
妻の遺言は、娘たちに私たちの馴れ初めを話してやって欲しいというものだった。妻が娘たちを心配する気持ちはわかる。なんせ、でき婚した長女は離婚し、次女は長いことうだつのあがらない男に引っ掛かっているのだ。だがな、と彼は反論する。俺たちのことなんて話したところで、なにも変わらんぞ。子どもの恋愛や結婚に、親なんて関係ないんだからな。俺たちがそうだったように・・
まだ十代だった彼が彼女と出会ったのは、新橋の闇市でだった。
兄弟達と買い出しに来ていた彼が、人ごみに揉まれてた倒れ込んだ彼女に手を差し伸べたのは、決して余裕があったからではない。お互いに薄汚れた顔で、助け起こした彼女は、恥ずかしそうに会釈すると逃げるように去っていった。
それから五年後。
彼は、葛飾区にある叔父の工場に世話になりながら大学に通っていた。そして、同じ町内にあるお茶屋で働いていた彼女と偶然再会することとなる。と言ってもお互いにあまり覚えておらず、顔を見てもどこかで会ったような気がちょっとする程度のものだった。
その時には、それぞれ想い人があったため、恋など関係なくちょっとした立ち話をするような間柄だった。
彼女と彼は、偶然にも出身地が近かったり、共通の知り合いがいたり、似たような価値観を持っていたりと、相通じる部分が多かったのである。
「私たち、なんだか似ていますのね。他人とは思えないわ」
「僕もそう思っていました。もしかしたら、僕らは、遠い遠い先祖同士が親戚かなにかだったのかもしれませんね」
「徳川家の家系図みたいな?」
「そうそう。僕のおじいさんの、そのまたおじいさんの、またまたおじいさんの、おじいさんの、おじいさんの、おじいさん辺りで、そのおじいさんのお父さんの、兄弟の嫁の親戚のおじいさんの更におじいさんの奥さんの姉妹の息子の嫁の・・」
「もうそれは、他人ですわ」そう言って、彼女は腹を抱えて大笑いした。
「確かに、そうですね」彼は、きまり悪そうに笑ったが、彼女の笑う様子を見ていると、なんだか、じんわりと嬉しくなったのである。理由はわからない。けれど、その当時、彼が片思いをしていた相手は、色気が垂れ流されているようなもの凄い美人の年上の女で、彼とはそっけなく一言二言を交わすだけの間柄だったので、もしかしたら、彼自身、恋愛に疲れていて、人の優しさに餓えていたのかもしれない。とにかく、彼女の爆笑するあどけない様子は、損得や駆け引きなどなしに、純粋に、彼にひと時の安らぎを与えてくれたのである。二人は、会うと度々面白い話をしては、大いに笑い合った。
けれど、それから一年後。彼女に見合いの話が舞い込んできたことを人づてに聞いてからは、気を使って遠慮した彼の足が遠退いてしまい、お茶屋の彼女とは、なんとなくそれっきりになってしまった。
その後、大学を卒業した彼は、地元に帰って公務員になったのである。
年頃の彼にも縁談が持ち込まれたが、彼はあまり乗り気にはなれなかった。例の片思いをしていた相手に、貢がされて散々手玉に取られた上、二股も三股もかけられ、こっぴどく振られたことを未練足らしくウジウジと引きずり、疲れ果てていたのかもしれない。思い出すだに、己自身が恥ずかしく、二度と思い出したくもないほど忌まわしいことなのに、考えまいとすればするほど生々しく思い出されるのだ。彼は、努めて無でいることにした。とにかく、そんなこんなの事情により、当分誰かと接するような元気が湧いてこない彼は見合い話を断って、一人で気ままに暮らしていた。今で言うところの、所謂、心のリハビリだ。
ある春の休日。
彼は、河川敷に咲いた桜を見物しに出かけた。
陽光が穏やかに踊る青空が広がった気持ちのいい陽気だった。時々、花びら混じりのそよ風が吹いてきては彼の髪を長閑に揺らす。彼は夢見心地で歩いていた。暫く歩くと、川縁から少し離れた木に女性が寄りかかっているのが目に止まった。
女性は、一つに結った髪を垂らし、矢絣柄の着物に包まれた体を桜の木に斜めに凭れて、熱心に手紙を読んでいる。
彼の足を止まらせたのは、彼女の横顔を涙が一筋伝ったからだ。最初は、春の光の錯覚かと思った。けれど、どうやら違ったようなのだ。というのも、彼が目を瞬かせた次の瞬間、女性が手にした手紙を、ビリビリに破き始めたからだ。
眉間に悲しげな皺を寄せた彼女は、なにかを込めて手紙を細かく細かく千切っていく。ちぎる側から風が紙屑を攫っていくのである。彼女の長い髪が、紙屑と一緒に靡く。その儚さすら漂うなんとも形容し難い光景から、彼は目が離せなかった。
ぽつっと頬に水滴が当たった。
「・・雨?」
彼は、彼女から視線を滑らせて、満開の桜花の隙間をぬって、ぽつ・・ぽつ・・と中途半端に降ってくる天気雨を仰いだ。雨宿りするほどでもないか、と内心で呟いて前を向くと、同じように空を見上げていた彼女と目が合った。
「・・え?」「あれ?」
同時に声が出た。後のことは言わずもがな。
結婚までは比較的速かったと言えるだろう。妻はのちに、あの再会の場面のことを、こう言っていた。
『あの瞬間、私は、絶望と運命とを同時に感じたのよ』
こんな、こっ恥ずかしいこと、いつのどんなタイミングで、どんな顔して娘たちに話せばいいんだか。
そもそも、幾つになってもおきゃんが抜けない娘たちは、自分の話など聞くだろうか。妻が亡くなってからずっと考え倦ねていたが、未だ決心はつかなかった。
やれやれ。厄介な遺言を残してくれたな、と彼は溜め息をつくばかりだ。
納棺式を待つ間、真面目な彼は、そのことばかりを難しく考えていた。苦悩が眉間に表れ、まるで怒っているような顔になっても全然決心はつきそうもない。
準備が整いましたと言われて、隣室に移動すると、すっかり着付けの終わった妻が横たわっていた。妻が着ている矢絣柄の着物はだいぶ色褪せていたが、まだ充分妻に似合っている。妻らしい恰好はと考えて、真っ先に浮かんだのがこれだった。妻はなんと言うだろう。呆れ笑いをするかもしれない。彼の隣では、娘たちが神妙な顔つきで妻の姿を凝視していた。
「では、まず先に、こちら、末期の水を順におとり下さい」
そう言って、納棺師が小皿に入った水と大きな綿棒を差し出した。これはなにをするものなのかと聞くと、最期に水を飲ませるものなのだと言う。
「本来でしたら、息を引き取る直前に行うものですが、現在は酸素マスクなどをされている方が多くいますので、それが叶いません。ですので、せめて納棺する前にお水で潤してさしあげるものです」
思い返せば、妻はずっと水を欲しがっていた。元気な頃には一日二ℓを目標に飲み物をとっていたような妻だ。どんなにか水を飲みたかっただろう。彼は、水に浸した綿棒を妻の乾いた唇にそっとつけた。すまんな。こんな僅かな水しか与えてやれずに・・彼はガックリと項垂れた。
父親の真似をして、姉妹もそれぞれに、母親の唇を湿らせる。誰もなにも言葉を発しなかった。納棺式は粛々と進んだ。そして、納棺前の最期の別れの時間を告げられた時、彼が口を開いた。
「もう一度、妻に水を飲ませたら、いけませんか?」
「お父さん、なに言ってんの・・せっかく塗ってもらった口紅が取れちゃうじゃない・・」姉が弱気に反発した。
「妻はとても水を飲みたがっていたんです。ダメですか?」父は譲らない。
「どうぞ、飲ませてさし上げてください。口紅はまた後で直しますから、大丈夫ですよ」
納棺師の言葉が終わるか終わらないかうちに、彼は立ち上がると妻の側に膝をついて、末期の水を取り上げた。震える手でゆっくりと妻の口に水を運ぶ。それを何度か繰り返しているうちに、彼の耳にすすり泣きの声が忍び込んできた。見ると、娘たちは妻の体を両側から擦りながら、お母さん、お母さん、と子どものようにむせび泣いていた。どんなに大人になっても、子どもはいつまでも子どもで、変わらないのかもしれない。彼は喉元まで迫り上がっていた悲しみを反射的にぐっと飲み込んだ。しっかりしなければ。自分は、この子らの父親なのだ。
『お願いしますね』
妻の声が蘇る。自分たちの話を彼がすることで、少しでもこの子たちの助けになればと、妻は彼に託したのだ。
わかったよ。彼は声には出さずに妻に語りかけた。君の遺言を実行するよ。だけど、できる努力をしたら、
「俺も・・すぐ行くから」
妻を火葬している間、彼は、娘たちに自分たち夫婦の馴れ初めを話した。
娘たちは最初、興味がないようだったが、途中から真剣に聞いていた。彼は話し終わると、外に出て、妻の煙を眺めながら一服した。これで、あの子たちのなにかが変わるとは思えないけど、とにかく君の遺言は果たしたよ。
『あなた、私を愛してるって、ちゃんとおっしゃってちょうだい』
新婚当初から妻に言われ続けて、照れ臭くて終ぞ言ってやれなんだが、息を引き取る間際に、慌てて耳元で囁いた言葉は妻に届いただろうか。もし、届いてなくても、あの世で再会した時にもう一度言えばいい。そんなことを考えながら煙草を揉み消していると、おとうさん・・と弱々しい声がした。振り向くと、泣きべその長女と次女が立っていた。
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