遺書


 娘からの連絡で彼女が慌てて警察署に駆けつけた時には、かわいい孫は血塗れになっていた。


 ビルの屋上から飛び降りたのだという。孫の白くて華奢な足は不自然な角度に折れ曲がっていた。


 彼女は、昨晩、唐突にかかってきた孫からの電話を思い出す。特に用事はないんだけどと言い置いて、他愛無い会話を二三した後に、孫はなんと言って電話を切っていただろうか。


『おばあちゃん、いつもありがとう。ごめんね。こんな孫で』


 なにを言ってるんだい、若いんだから、何度だってやり直しがきくから大丈夫よ、と彼女はいつものように励ました。

 あの時には、とっくに覚悟を決めていて、最後にお別れを言いにかけてきたのかぃ・・なんてこと・・


 高校受験に失敗してから引き蘢っていた孫ハナは、ついこの間、二十歳になったばかりだった。

 ハナはいつ会っても浮かない顔をしていた。然もありなん。一人だけ高校生になれなかった負い目があるのだから。同い年の子たちが制服を着て闊歩する様子を見るのが辛くて、日中は引き蘢って、夜中だけ少し外に出るのだと言っていた孫。まだ十代なのにと、なんとも不憫に思ったが、本人はそのほうが気分的に楽だからいいのと前向きだか後ろ向きだかわからない納得の仕方をしていた。

 ハナの母親、彼女の娘はどう考えているのかといえば「本人がそうしたいなら好きにさせるわ。無理強いなんて却ってよくないし。なるようになるわよ」と楽観的だ。それはそれでいいのかと最初は思っていたのだが、三年前に再婚してから様子は一変した。

 母子家庭で育ったせいか、娘は極端な寂しがりの面があった。娘は、ハナのためにも父親がいたほうがいいのよ、と主張して強引に再婚した。相手は、職場で知り合った朴訥とした年上の男性。バツイチらしい。

 再婚して間もなく、ハナの口数は極端に減り、怯えるような表情をしたかと思うと、苛々怒り出したりと感情のコントロールがうまくできないようだった。やはり見ず知らずの男を父親とは認めることができないのだろうと、心配する彼女には「大丈夫だよ。上手くやってるから」と気丈に振る舞ってはいたが、少しすると本格的に部屋に籠城するようになったらしく、無論、娘はそれを良しとはしなかった。

「あの子ったら、夕ご飯にも降りてこないのよ!毎回毎回、タダヒロさんに気を使わせてばっかりで、ほんとにヤになっちゃう!再婚にだって賛成してくれたくせに、いったい、なに考えてんのかしら!わけがわからないわ!」

 彼女が訪ねていく度に、出てこないハナの部屋の前で、娘はこれ見よがしに愚痴を叫ぶ。ハナが聞こえていないわけがないだろうと踏んで部屋の前で、わざと大声でがなり散らすのだ。止めなさいといくら制止しても無駄だった。お互いにフラストレーションが溜まっているのがわかった彼女は娘に、ハナを少しの間でも預かろうかと何度も提案したが、それはにべもなく却下された。あの子には父親と母親が必要なの、というのが娘の一貫した意見だったのだ。娘は両親さえ揃っていれば、子どもの引き蘢りが解消されると本気で思っているようだった。それは、母子家庭で育ててしまった自分に対しての当てつけや批判が混じっているものだと感じ取った彼女は、強く反論することがどうしてもできなかった。娘を片親で不自由に育てたのは、他ならぬ自分だったからである。自分に娘の子育てについて口出しする資格や権利はないのだ。それはわかっていても、可愛い孫が心配で堪らなかった。娘に内緒でお小遣いを与え、毎日のように連絡をとり続けた。


「おばあちゃん、どうしよう・・もうすぐ、十八になっちゃうよ。あたし、どうしたらいいの?」


 無関心、無関係を装う言葉しか操らなかった孫が、ある時、ふと電話口で不安を吐露した。

「そうだねぇ。ハナはどうしたい?」

「わかんない・・」孫は言葉を濁した。引き蘢った当初にあった絶望やショックは、薄ぼんやりとした恐れや漠然とした不安、思うように自己をコントロールできない焦りに姿を変えてしまっている。もう本人ですら、それぞれの理由などわからなくなってしまったのだろう。ただでさえデリケートなこの時期に、娘は再婚なんてするべきじゃなかった、と彼女は思っていた。新しい家族に居場所を奪われて、追い詰められていくハナが可哀相でならない。

「今更、高校受験するとかないし、専門に行きたいって言っても、多分お母さんが許してくれないと思う」

「行きたいところとか、あるのかい?」

「うーん・・わからないけど、強いて言うならアニメとかイラストとか描いたりするところがいいかも」

「ハナは絵を描くのが上手だったものね。コンクールで賞を取ったこともあったわよね」

「賞を取ったのは一回だけ。中学の時だよ。あんなの誰でも取れるよ」

「そんなことないわよぉ。すごいことよ。誰にでもできることじゃないわ。おばあちゃんは芸術系にはさっぱり縁がないから、俄然ハナを応援しちゃうわよぉ」ハナは、褒め過ぎだよ、と困ったような笑い声をたてていた。孫の笑い声を聞くのが久しぶりだった彼女は、もっと喜ばせてあげたくなった。

「じゃあ、こういうのはどうかしら? なにか、内職をするっていうのは」

「え、なに、内職って? あたし、まだ未成年だから働けないよ」

「ホラ、なんていうの、最近、そういうの。ホラ、絵とかアクセサリーを売ったり、アニメみたいな声優とかの」彼女は、今朝のニュースで聞き齧った情報を伝えようとする。ハナは、ああね、とすぐに理解した。

「おばあちゃんが言ってるのって、ピ◯シブとかブイチューバーのことでしょ。ブイチューバーなんて無理だよ。会社と契約とかあるんだよ。絶対、親が必要なヤツじゃん。お母さんまたギャアギャア言うよ。でも、」

「でも?」

「絵だったら・・描いて、みようかな」

「そうしなさいな。いいのが描けたら、おばあちゃんにも見せてちょうだいね」

「えー恥ずかしいなあーいいのが描けたらねー」前向きになった孫の声が嬉しかった。少しでも、何かをやって現状を紛らわせて欲しい。そうすれば、もしかしたら、思わぬところから道が開けるかもしれないから。

 そんな会話をしてから数ヶ月後。

 娘が妊娠したのだと報告を受けた。予想しなかったわけではないが、必死になってもがいているハナの心境を考えると苦い気持ちが込み上げてきた。思えば、娘の再婚相手の男とは、ろくに話をした覚えもない。なにを考えているのか、窺い知れない雰囲気がある男だ。前妻との間に子どもはないらしいが、無愛想な男の態度を見ていると、離婚の原因もなんとなく察することができるようだった。

 ハナの本当の父親、娘の元夫は、酒飲みの暴力男だった。

 青あざだらけの顔をした娘が幼いハナの手を引いて、彼女の元に逃げ込んできたのが、昨日のことのようだ。やっとのことで離婚を成立させた娘は、元夫からの慰謝料と昼夜問わず働いた金を元手に、今住んでいる縦長の一戸建てと軽自動車を購入し、慌ただしく実家から出て行った。


「お母さんみたいには、なりたくないから」これが娘の口癖だった。

 彼女はぐうの音も出ない。


 再婚相手との間に、女の子が産まれてからは、気まずい雰囲気はピリピリとした険悪なものへと変わり、彼女が娘の家に行く度に、壁や廊下の凹み傷を目にすることが増えていった。

 それを誰がつけたものなのかは恐ろしくて聞けない。娘であろうと、娘の旦那であろうと、ハナであろうと、いずれにせよ、その破れた壁紙や凹んだ漆喰の隙間には、不幸の予感が蠢いているのが見てとれる。

 産まれた女の子は、はいはいするようになり、離乳して掴まり歩きができるようになった。父親の溺愛ぶりは傍目にも明らかだった。三人だけを見るならば、幸せな親子図だろう。けれど、そこにあの子はいない。三人は、ハナがいないことが当たり前だとして生活している。では、やはり、あの傷はハナがつけたものなのだろうか? あの大人しくて優しい子が、あんな乱暴をするものだろうか。信じ難いことだった。なにかの折に、娘に壁の痛みについて聞いてみたことがある。

「仕方ないでしょ。あの子が、聞き分けないからよ!」

 彼女の胸に恐ろしい予感が過る。まさか、娘夫婦は、行き場のないハナを虐待しているのではないだろうか? だとしたら、とんでもないことだ。なんとしても、自分が孫を守ってやらなければならない。娘に、ハナを預からせてくれと再度頼んでみる。娘は一瞬、ほっとした表情を見せた後、目尻をつり上げて怒り始めた。

「そんなに、あたしの子育ての仕方に文句があるわけ? 放っといてよ!あんたに言われなくても、ちゃんとやってるわ!あの子のことは、あたしがどうにかするわ!余計なお世話よ!」取りつくしまもなかった。

 ハナは、まだ絵を見せてくれないばかりか、以前のように部屋に入れてくれなくなった。

 ドア越しに呼びかけるが反応は薄い。ドアにも上下にいくつかの凹み傷がある。娘か夫のどちらかが、応じないあの子に苛立ってドアを殴ったり蹴ったりしたのだろうと予想がついた。可哀相に。ハナはどんなにか怖かっただろう。どんなにか傷付いただろう。彼女は、可愛い孫になにもしてやれない無力さを恥じた。

 そうして、数週間後の満月の夜。

 彼女との電話を終えた真夜中に、こっそりと家を出たらしいハナは、近所にある建築中のビルの屋上に忍び込んで、誰に知られることなく、ひっそりとその人生を終わらせたのだ。

 孫の自殺現場を見た時、彼女は目眩がした。

 あんな高い所から飛び降りるのはどんなに怖かっただろう。

 その恐怖を超越する決心が、その時、ハナには宿っていたのだ。自分はどうしてもここから飛び降りて、消えなければいけないと。そんなことを思っていたのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。ほんとうに・・ほんとうに、どうにか、ならなかったのかしら?


 黒いベールのような漆黒の夜空に、青白い満月が、浮かんでいる。

 鉄筋が剥き出しになった建設中のビルが、白く照らし出されて、まるで、舞台のようだ。その天辺に、人影が、見える。

 丈が短い黒いワンピースを着た、華奢な体の、色白の少女。・・ハナだ!

 ハナ!危ない!戻ってきて!と、彼女は叫ぶ。けれど、孫には届かない。聞こえていない。

 少女は、数歩前に踏み出した。鉄筋の端に向かって、ゆっくりと歩いていく。

 ハナ!ダメよ!やめて!と、彼女は悲鳴を上げる。

 不思議なことには、彼女のいる地上から、遥か高みにいる孫の顔が、明確に見えるのだ。

 ハナは、笑っていた。

 幸せそうな笑顔を、浮かべているのだ。

 そして、孫の足は、機会仕掛けのように、止まらない。

 月の光に照らされたその狂気の姿は、発光しているかのように、闇夜に、白く、浮き出して見えた。

 先端が近付いてくる。もう、あと一歩で、落ちてしまう。

 ハナ!ダメよ!ハナ!ハナ!彼女は必死に叫び続けるが、届かない。

 とうとう、少女は宙に、舞った。

 あまりにふわっと飛び出したので、飛んでいるのかと錯覚した刹那、落下。

 少女は満面の笑みを浮かべながら、ミサイルのような猛スピードで地上に突っ込んでくる。

 ハナー!!!!

 彼女は、絶叫を上げて飛び起きた。

 息が上がっている。時計を見ると、まだ夜明けには、早い時間だった。

 恐ろしい夢を、見たのだ。

 パジャマが寝汗でぐっしょりと濡れている。だが、孫はもう、汗をかくことすら、できないのだと思い、打ち拉がれた。

 ハナ、なんてことを・・

 後悔と孫が最期に味わったであろう恐怖を思い、涙が止まらなかった。

 今日はハナの葬儀だ。


「これを着せてあげてください。いつもこの子が着ていたものだから」

 そう言って、娘が紙袋から引っぱり出したのは、ゆるキャラの被り物パジャマだった。クマの耳までついているヤツである。彼女はそれを初めて見た。ハナが、これをいつも着ていた、だって?

 彼女の記憶にあるハナは、スウェットやジャージ姿が多い。デ○ズニーやサ○リオも好きではあったが、あまり洋服には反映されていなかったと思う。どちらかといえば、最近は黒いドレスのようなワンピースが気になるのだと、話していたことを思い出す。お気に入りの黒いワンピースだってあったはずだ。それなのに、なんだって、これを? 娘の感性を疑った。とは言え、娘も娘なりにショックを受けて、涙を流しているので、異論を唱えることは憚られた。

 納棺師は微笑みを浮かべてそれを受け取ると、あっという間にハナに着せた。

 確かに、可愛らしく寝ているような姿には見える。でも、旅立ちなのに、本当にこの恰好でいいのかしら? と、払拭できない疑問が視界にぶら下がっている。

 娘は、納棺師に許可を得て、持参したコテでハナの髪を巻いたり、化粧をしてあげたりしていた。ゆるキャラのパジャマを着ているのに頭だけがしっかりとセットされて、違和感しかない。

 娘はずっと、ハナの名前を呼びかけているのだが、娘の夫と二歳の妹は知らん顔をして、隣の部屋でテレビを見ている。ハナが交流を拒んだために、義理の娘に対して愛情を持つことはなかっただろう彼は、目を潤ませることもなく無表情で、ハナを見にすらこない。なんとも思っていないのだろう。幼い妹にしても同じことだ。その絵面に、彼女は、遣り切れなくなった。

 紫色の丸い爪が並ぶ白いハナの手に、そっと触れる。人の温度ではない冷たさに、ああ、この子はもう二度と笑うことはないのだと、二度と大好きなオムライスを食べることもなく、二度と絵を描くこともできないのだと実感させられて、嗚咽が漏れた。ふっくらとしたハナの手の感触は、幼い頃に繋いだ時と変わらない、そのままなのに、この子の中身だけがどこか遠くに逝ってしまった。優しかったこの子の魂はいったいどこに行ってしまったのだろう。いくら後悔しても、し足りなかった。

 ごめんなさいね。ごめんなさいね、ハナ・・

 自分がもっと強引に、うちにおいでと言っていれば、心優しいこの子はこんな姿を曝さずに済んだのだろうか。

 思えば、ハナが部屋から出てこなかったのは、ハナの精一杯の抵抗だったのかもしれない。社会に対して。母親に対して。義理の父親に対して。種違いの妹に対して。でも、引き際を逃してしまって、出て行けなくなった。

 どうしようかと困っているうちに、外では自分を抜きにした幸せな家庭が、当たり前の時間が作られていってしまって、戻れる居場所が埋め合わせられて、消え失せてしまって、自分の部屋にしか居場所がなくて、でも、そこにずっといることはできないと悟ってて、だから、余計にどうしていいかわからなくなって、ずっとずっと助けを求めていたんじゃないかと思う。恐らく、母親である娘に。

「この子は優しい子、だったから・・」

 娘はそう繰り返しながら、ハナの頭を撫でていた。

 結局、ハナが納棺される際にあっても、娘婿と妹がテレビの前から動くことは終ぞなかった。

 その様子を横目に、ハナはそれがわかってたのねと悲しい憶測が浮かんだ。部屋から出たところで、義理の父親と妹に、自分は受け入れてもらえない、愛されないと、わかってたのね。ほんとうに、可哀相な子・・


 ハナの遺影は中学校の学生証の写真だった。それ以外の写真が、他になかったのだろう。それにしたって、あんまりだと、握った両手に思わず力が入り、悔し涙が零れた。

 ハナが幼さの残る顔で新入生として学生証の写真を撮ってからの七年間。ハナは必死に闘って生きていたのに。その痕跡すら、残されないなんて・・!

 娘の家には、娘と娘婿と子どもが写った写真が、日増しに壁を埋め尽くしていると言うのに。

 ふと視線を落とすと、棺の上にピンク色の可愛らしい花柄をした便箋の手紙が置かれている。中学時代の親友からのものらしい。心がほっと温かくなった。ハナのことを忘れずにいてくれる存在がいるのは、救いだ。それでなくても、母親の見栄を張っただけの侘しい葬儀。会葬者のほとんどが、娘と娘婿の会社関係者なんて悲し過ぎる。

 気分が悪くなってきたので、引き下がろうとすると、娘が騒ぎ出した。どうやら、家にオムツを忘れたらしいのだ。好都合だ。あたしが取ってくるわよと立候補した彼女は、葬儀場を後にした。


 娘の家で、オムツを幾つか手提げに入れて用意を済ますと、彼女は、足音を忍ばせてハナの部屋へと向かった。

 久しぶりに入った孫娘の部屋は、几帳面の孫らしくきちんと整理整頓がされていたが、教材がなくなった学習机の上だけが変に殺風景だった。そこに、スケッチブックが置かれている。合掌して孫の許可を得てから、開いてみて驚いた。

 色鮮やかな色彩が、溢れ出てきたからだ。

 夢のように美しい景色があり、幻想的な衣装を着た人物があり、花束を抱く女性の顔があり、悲しげな横顔があった。元がわからないくらいに黒く塗りつぶされた絵もあり、赤い涙を流す少女の絵があった。見ていて胸が潰れそうになる。


 ハナは、こんな小さくて暗い部屋に籠って、必死に生きようとしていたのだ。


 最後に、五匹の動物達が寄り添って眠っている絵があった。夜空の下、三匹の大きな動物に守られるようにして小さな二匹が眠っている、そんな絵。これは、ハナの遺書なのだとわかった。言葉にも文字にもできなかった思いを、絵に、託したのね・・

 彼女は祈った。どうか、ハナのこの思いが、この遺書が、娘の心に届きますようにと。

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