湯灌


 痺れるように寒い二月の朝。

 彼氏の家に一泊して帰ってくると、父が書斎で倒れていた。

 慌ててかかりつけの医者を呼んだけど、もう手遅れだった。思い返せば、外泊してくると告げた時に、父は顔色を変えて、胸を抑えていたような、気がする。心不全持ちの父は、確かに胸が苦しくなることは多々あったが、あたしが彼氏のことを口にする時に限って、必ず胸を抑えて不機嫌になる。初めは驚いて心配していたけど、そうすると案外すぐにケロッと治まるので、何度か繰り返すうちに、これは演技なのだと気付き、同時に、父は彼氏と彼氏に関する話題が嫌いなのだと悟った。胸を抑えて主張する父を振り返ることなく玄関扉を閉めて外泊し、再び玄関扉を開けて帰宅すると、父がひっそりと死んでいたのだ。「ご愁傷様です」と、手を合わせる医者と半開きの目をした父を目の当たりにしたあたしの脳裏に浮かんだことは、二つ。最後に見た父の演技は、演技じゃなかったらしい、ということと、十九歳で天涯孤独の身になったのだということ。

 とりあえず、葬儀屋に連絡した方がいいと医者に言われたので、タウンページに乗っていた適当な葬儀屋に電話をして事情を説明した。未成年のあたしが一人だけなのだと言うと、すぐに駆けつけて来てくれた黒いスーツ姿の頭の薄い冴えない中年男が、役所への届出を含む死後の手続きや銀行口座のことなどを説明してくれた。

「とにかく、お父様の口座残高はすぐに出金しておかないと、死亡届が出された時点で口座凍結してしまいます」お父様を運ぶにしても火葬にしてもお金がかかるものですから、と葬儀屋は手順の説明までしてくれる。

「車の免許は持ってますか?」

 免許は十八になった段階でとっくに取得済みで、なんなら母親が置いていった軽を乗り回してもいる。

「幸いにも今日は平日です。まずは、銀行に行って出金してから、市役所に届出を出しに行きましょう。お父様の通帳や印鑑などは、どこにあるかおわかりになりますか? そうですか。では、それをお持ちになって、それから、医師の死亡診断書はありますか? それですね。そちらもお持ち下さい」葬儀屋の指示に従って、持ち物を用意しながら、父が転がっているのが布団の上でないのが気になった。父を布団に寝かせてあげたいんですけどと訴えた。

「そうですね。少々窮屈になるかもしれませんが、こちらにお布団を敷いてお休みいただきましょう。お布団はどちらに? ああ、二階ですか。お手伝いしましょう」

 葬儀屋と共に物置と化している階段を上がり、二階の寝室からやっとこさ布団を下ろした。

「火葬場の空き状況を確かめてみますので、少々お待ち下さい。もし、火葬場が埋まっている場合は、火葬までの間に一回納棺師を入れさせていただいた方がいいかもしれません。葬儀は、どうされますか?」葬儀屋は、額の汗を拭きながら尋ねてきた。

「したほうが、いいんですか? よくわからなくて」

「絶対ではないです。もし、ご親戚や故人様の友人などが参列したいということでしたら、行ったほうがいいかもしれませんが、喪主様お一人ということでしたら、荼毘でもいいのではないかと、私は思います。葬儀をするにしても、タダではないので。祭壇からお花、お寺さんまで全てお金がかかってきますから。ちなみに、どちらかに菩提寺さんとかありますか?」わかりませんと答えると、男は、そうですかと侘しさの地に温和の色を少し垂らしたような笑みを浮かべた。

「でしたら、尚更荼毘でもいいのではないでしょうか。もし、お線香をあげたいと言われる方があっても、ご自宅であげてもらえば問題ないかと思いますよ。今後、更に出費が嵩む可能性があることを考えると、少しでも抑えた方が賢明ではないでしょうか」葬儀屋は、そう括ると、座っている居間と父の転がる書斎とをしんねりと見回した。

 掃除されていない室内は湿って埃っぽく、床にはチラシが敷き詰められている。物を捨てられないあたし達親子の性分で、各部屋には雑誌や空き缶、空き箱を含むゴミが奇妙な均等を保って積まれている。我家の歴史とも言えるその集積の上に横たわっている父。ふと、父の頭のフケが気になった。

「あの、父をお風呂に入れてあげたいんですけど」

「湯灌を希望されますか?」

「なんですか? そのユカンって」

「お湯で故人様の体を流し清めることを、湯灌と言います。通常は納棺式の一貫で行いますね。どのみち納棺師は入りますから、湯灌を希望されるようでした、そのようにさせて頂くようにしますが」

「お願いします」


 母は、六年程前に出て行ったきりだ。

 美容師をしていた母は、よそに男を作って一緒に暮らしているのだと、いつだったか酔っぱらった父が零していたことがある。正直、どうでもよかった。物心ついた時から、母は忙しく、家にいる時のほうが少なかったくらいの人だったから、家事の大半は父が受け持っていて、実質父子家庭に近かい環境だったのだ。授業参観や運動会、三者面談も父が来てくれた。父だけが来てくれた。だから、母の存在は、よくわからない。時々、家にいて、温厚な父を怒らせて喧嘩をしている好きになれない人。その程度だった。母と、どこかに出かけたことはなく、母との思い出はない。もちろん、親子三人の写真もなかった。けれど、それが当たり前だった。

 聞けば、友達や同い年の子たちの家庭では、父母の役割が、うちと逆転しているらしかった。

「あなたんちのお母さんは、お母さん失格だね」

 小学生の時に友達に言われた言葉で、うちの母は母親失格なのだと知った。そして、そこからは、ずっとそう思っているし、少しも間違っていない。母親失格の母は、とうとう母親という立場を、義務を、放り出して逃げたのだから。

 可哀相なのは、父だった。父は、母を愛していたから。それは、子供心にも伝わってきて、自由奔放な母だから惚れたのだと何度も聞かされた。でも、だからって、好き勝手にさせてていいわけないじゃない、と複雑な気持ちを抱いたのも事実。要は、母は父の惚れた弱みに漬け込んで好き勝手にやっていた、ただの最悪な尻軽女だ。父が好きな映画『風とともに去りぬ』の主人公スカーレット・オハラにでも重ねているのだろうが、あたしは自分勝手で我が侭なスカーレットがどうしても好きになれない。スカーレットのために色んな人が不幸になっているのに、全く意に介さない彼女の性格が大嫌いなのだ。強く生きるためには、周りを犠牲にしなきゃいけないの? と、疑問に思ってしまう。犠牲にされた人間は、たまったもんじゃない。母でいうところの、父とあたしだ。母は、いったいなにを考えて父と結婚したのだろう? スカーレットみたいに、誰かへの当てつけなのかもしれない。特に財産のない父に限ってお金なんてことはないだろうし。父が他界した今、その謎は永遠に解けないものになってしまった。なんせ、母の現住所なんて知らないし、父が知っていたかも怪しい。念のため、仏壇の中や書類入れを漁ってもみたが、それらしきものを発見することはできなかった。そもそも離婚してるのだし、あたしのことだってなんとも思ってないだろうから、連絡の一つもよこさなかったのだろう。そんな人、母親なんかじゃない。

 いいや。知らせる必要なんてない。そう思ったから、葬儀屋に、立ち会いはあたしだけですと言ったのだ。


「なにかあったら、遠慮せずに言ってね」

「いつでも力になるから。気を落としちゃダメよ」

 納棺師の大きな車が横付けされているのを見かけた向かいの夫婦や近所のおばちゃん達が声をかけてきた。どの人も、子どもの時から知っている顔だ。あたしは、父が母のために購入したこの小さな家で、ずっと育ってきた。

 狭い部屋に、細長い浴槽を持ち込んで苦労しながら湯灌をしている納棺師に、少し申し訳ないなと思ったが、どうしても父はこの家で納棺してもらいたかったのだ。父の体を流すお湯の湯気が冷たい部屋の温度を一瞬上げる。

 風呂好きの父は喜んでくれるだろうか。あたしが出ていった日の恰好のままだったところを見ると、夜になる前に倒れたことが窺えた。もし、あたしが出かけなかったら、父は死なずに済んだのだろうか? そんな無意味な疑問が過ったが、今更そんなことを考えて後悔したところで、父が生き返るわけでもないと打ち消した。遅かれ早かれ、こんな日は確実に来たのだ。洗髪される父の顔を眺めながら、父は最後になんと言っていたのだったかと記憶を手繰ろうとした。

 毎度のことながら胸を抑えて、怒っていたっけ? それとも、心配していたっけ? それとも、呆れていたのだったっけ? あたしが玄関を出ていく時に、見送っていた気がするけど、居間のコタツから動かなかった気もする。父の最後の姿が、どうしても思い出せなかった。

 我ながらなんとも薄情な親不孝娘だなと苦笑する。唯一の肉親を亡くしたっていうのに、涙すら出てこない自分を訝しんだ。父が嫌いだったわけじゃない。

 役人だった父が定年退職したのは二年前。そこからは警備員をして食いつないでいた。アイヌの木彫り人形みたいに彫りの深い顔立ちをしてたくせに、役所にいる時から影が薄かった父は、人に気付かれないことが特技みたいな人だった。おっとりとボンヤリの中間みたいな雰囲気を発して、よく言えば寡黙、悪く言えば口下手な性格が災いしていたのだと思う。レット・バトラーと似ている部分と言えば眉毛と目の間の距離くらいのそんな父が、どういう経緯でスカーレット・オハラみたいな我が侭で社交的な母と親しくなり、付き合い、結婚したのか不思議で仕方ない。あたしにとって、父は、家の中に存在する空気だった。

 空気のような存在といったほうがいいのかもしれない。当たり前にある存在で、息苦しくない存在で、特になにも感じない存在だった。だから、あたしは伸び伸びと育ったのかもしれないし、こんな家庭環境でも、そこまで捻くれたり歪んだりはしなかったのかもしれない。小中高を普通に卒業できたし、ストレートに看護の専門学校にだって行ってる。奨学金をもらって、割と順調に、年齢に沿った階段を普通に登れていた。それは、やっぱり、父のお陰、なのかもしれない。

 こざっぱりして白い着物姿になった父は、少し若返ったように見えた。

 手に触れるとほんのりと温かい。まるで生きているみたいだ。この手で昨日まで、朝ご飯を作っていたのだと思うと無性に悲しくなってきた。もう、父の手料理は食べられない。父の作るカレーとおでんが大好きだった。あたしの好きな卵と餅巾着がたくさん入ったおでんを食べたいとリクエストしたばかりだったのに。もう、食べられない。不意に鼻の奥が痛くなった。

「なにか、一緒に入れて差し上げたいものなど、ございますか?」

 納棺師に聞かれても、父の大切にしていたものは本くらいしか浮かばず、葬儀屋から紙は燃え残るのでよくないと聞いたばかりで、なにも浮かばなかった。

 父の趣味は・・わからない。そんなのあったっけ? 知らなかっただけ? あたしは、父のことをなにも知らないんじゃないかと不安になってきた。焦って書斎を見回しても、それらしき品物を見つけることはできない。予め探しておけばよかったなと今更ながら悔やまれた。市役所、手続き、全てが初めてづくしで、そんなこと思いつく余裕なんてなかったのだ。

「なにも、思いつかなくて・・すみません」

「謝られる必要はありませんよ。では、もしなにか思いつかれましたら、明日の出棺までにご用意ください」

 そうして、父は棺の中に納まったのだ。

 納棺師が帰ってから、父の持ち物を全て引き摺り出し、なにかないかと徹底的に探した。すると、若い頃の父と母が写った写真が一枚出てきた。それも丁寧にティッシュペーパーに包まれて仏壇の引き出しの奥にしまわれていたのだ。

 父はまだ母を想っていたということなのだろうか。それとも、記念に? 捨てられなかったから?

 一般的に男性は、昔の彼女の写真やプレゼントを捨てないどころか平気で使う傾向があることを経験上知ってたので、なにか特別な感情があってのことではないような気がしたが、これだけ探しても、この写真くらいしか出てこなかったので、せめてこれを入れてあげたほうがいいのかもしれないと一時間ほど苦悩した挙げ句、棺の蓋を持ち上げて中に滑り込ませた。まぁ、いらなかったら向こうで捨てて、と父の顔に声をかけた。

 突如けたたましい着信音が鳴り響いて、静寂を破る。彼氏だった。

「親父さん亡くなったって、大丈夫か?」

 土木業の彼は、父とは正反対のタイプで、竹を割ったような性格をした筋肉質な男だ。

「うん。もう納棺は済んでるから。明日、出棺で」

「そっか。明日、オレ行くよ」

「いいよ。明日も仕事でしょ。見習いなんだから、簡単に休んだらダメだよ」

「そうだけど、一人じゃ寂しいじゃんか」

「大丈夫だよ。手続きだって一人でできたし。あとは火葬だけだし」

「火葬だからだよ。一人で親の骨拾うなんて、そんなの悲しすぎんだろ」

 涙声の彼氏。あたしより感情豊かだ。

「何時から火葬だ? オレ、親方に電話してみるから。もし、休めなくても早引けさせてもらうから」

「・・別に、いいのに。大丈夫なのに」と言いつつも、鼓膜を震わす彼氏の言葉が胸に滲みた。

 午後一時の窯だったので、結局、彼氏は、午後から火葬場に来てくれることになった。

「一時までには絶対行くから、待ってろよ」そう言って電話は切れた。

 スマホを耳から離した途端、得体の知れない沈黙が降りてきた。埃っぽい部屋の空気が、やけに重たく感じられる。なにこれ。変なの。おかしいの。父がいなくなったってだけで、それ以外はなに一つ変わってないのに。いつもと変わらない家なのに。飛行機に乗って離陸する時のように耳の奥がきーんとしてくるようで、なんだか怖い。慌てて居間に行って、テレビの電源を入れる。アニメの騒がしい音が溢れ出して、ほっと息をついた。思い返せば、朝からなにも食べてない。空腹のせいもあるのだと思い、冷蔵庫を開けた。食パンとイチゴジャムを見つけて取り出す。牛乳は切れていた。飲みかけのペットボトルに入ったカフェオレがあったので、パンにジャムを塗って一緒に流し込む。味がしない。

 いつのまにか部屋は暮色に染まっている。陰気な色だった。嫌だな。電気を点けよう。カーテンを閉めて早々に電気を点けた。隣の書斎から流れ出た線香の匂いが充満していて気分が悪い。換気扇をつけて、コタツに潜り込む。二階に上がるのが億劫に思えた。変なの。いつもなら、一刻も早く一人の時間が欲しくて、彼氏との時間を邪魔されたくなくて、さっさと二階の自分の部屋に引き上げるのに。今日は動きたくないし、二階に行くのが怖いような気すらする。変なの。父がいるのといないのとでは、こんなにも違いがあるのか。そして、これから先は、ずっと、この家に、あたしは独りぼっちなのだと気付くと、虚無と孤独がタッグを組んで押し寄せてきた。だけど、この家以外に居場所なんてないのだ。あたしの家はここだから。でも、一人は寂しい。明日、彼氏に話してみようかな。そうしたら、一緒に住んでくれるかな。いや、無理か。彼氏も実家住まいだし。なにより長男だ。あたしはあたしで、どうにかしなきゃ。コタツのじんわりとした温もりで、緊張していた心が解れていくような気がする。もういいや。今夜はこのままここで寝ちゃおう。父がいないので、風呂に湯を張る人もいない。面倒臭がりのあたしを焚き付けて、風呂場に追い込むのは、いつも父の役割だった。

『風呂は一日の締め括りだ。風呂に入らないと、一日が終わらないぞ』

 父は湯灌をして人生を締め括れたのだろうか。湯船に浸かることはできなかったけど、ちゃんと人生を終わらせられたのだろうか。そんなことを考えながらコタツで縮こまっているうちに、ウトウトと眠ってしまったらしい。

 夢を見た。外泊すると言い捨てて玄関を出る直前の夢だ。父は胸を抑えながら、なにかを言っていた。あたしはそれを聞き流して、さっさと扉を閉めたのだ。そこで、ふっと目が覚めた。時計を見ると、もう二十一時を回っていた。渋々立ち上がったあたしは、風呂場へ向かう。父は言っていたのだ。

『風呂、入れておくから。帰ったら入りなさい』

 風呂場は寒々しかったが、湯船の蓋は閉まっている。父がなみなみと入れた湯が、冷めて冷水になっていた。泊まってくるって言ったじゃん・・あたしは鼻を啜りながら追い炊きのスイッチを押すと、父の眠る書斎に向かう。納骨が終わったら、彼氏に手伝ってもらって家の大掃除をしよう。

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